九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

熊本巡回と高齢信徒へのケア

昨日は熊本ハリストス正教会に巡回。復活大祭の聖体礼儀を執り行いました。

今年の復活大祭の祭日は4月24日で、それ以後は毎週日曜日ごとにテーマがあって「○○の主日」という名称もついており、聖書の朗読箇所も当然違うのですが、私は一人で4教会を兼務しているので、毎週違う場所で同じ復活大祭の祈祷をしています。


www.youtube.com

 

熊本教会は所属信徒が3世帯に減ってしまい、しかも全員80代と90代ですので、正直なところ教会の維持には厳しいものがあるのですが、彼らは月に一度の巡回を楽しみにして教会に通われているので、私としてもしっかり牧会させてもらっています。

 

この復活大祭でも、二人の高齢信徒がそれぞれご自分で染めたイースターエッグを持参しました。

信徒が持参したイースターエッグ(手前右の2篭)

イースターエッグの成聖

祈祷を終えて、午後は宇土市内で廻家祈祷。現在97歳で、私の管轄の最高齢信徒として以前紹介した方です。

 

frgregory.hatenablog.com

 

今でも杖などつかず、数か月まで一人で歩いて買い物に行くなどしていましたが、このところは危ないからと家族に外出を止められているそうです。生活に刺激が少なくなったせいか、数分前に言ったことをまた繰り返すなど、高齢者特有の言動が目立ってきましたが、97歳なのに介護不要なのですから奇蹟的ですらあります。

正教会で生者のことを祈る決まり文句は「幾とせも」(Many Years!)ですが、文字通り幾とせも元気でいてほしいと思います。

 

夕方に人吉に着いてからは、熊本で成聖したイースターエッグやクリーチ(復活祭用の菓子パン)をお土産に、市内在住で普段教会に来ていない高齢信徒宅を3軒訪問しました。

本人が在宅だった家では、もちろん会って話をしましたが、一人暮らしなのに留守の家があったので、お土産に妻が訪問時刻を付記したメモを付けて、玄関先に置いてきました。

今日、その家に妻が立ち寄ってみたところ、お土産がそのまま外に置いてあるのを発見。電話をかけても出ないので、室内で倒れているなどの可能性を考え、親戚の家に電話をして安否確認しました。

すると、つい最近、転んで骨折して入院中ということが判明。コロナの影響で面会はできないとのことですが、生命に別条がなかったことを確認できて安心しました。

 

何だか夫婦で民生委員をやっているみたいですが、神父の仕事とは聖堂で祈祷したり説教したりするだけで済む話ではありません。むしろ牧会、つまり信者の人生そのものをケアすることが重要です。つまり聖堂の外にこそ、やるべきことがたくさんあるのです。

日本正教会は九州だけでなく、東京も含めて全国的に高齢信徒の比率が極めて高いのですが、今後もたゆまず牧会に励んで行きたいと思っています。

ウクライナで戦禍に苦しむ人々へのメッセージ動画

宮崎市の有志の方たちが、ウクライナで戦禍に苦しむ人々への励ましのために、「Playing for Ukraine」というサイトで音楽演奏の動画を配信していることは既にご紹介しています。

 

Playing for Ukraineのリンク https://sites.google.com/view/playingforukraine/home

 

frgregory.hatenablog.com

 

frgregory.hatenablog.com

 

私も楽曲演奏の提供を頼まれていて延び延びになっていたのですが、ようやく動画を収録して提供させていただきました。

私は司祭ですので、教会と無関係な音楽より正教会の聖歌、それもウクライナの方たちが(さらにロシアの方たちも)聴いてすぐに分かる聖歌を選ぶべきだと思いました。そこでロシアとウクライナの正教徒なら誰でも知っている復活祭の聖歌「パスハのトロパリ」を歌いました。

ウクライナ国旗の色のものを、見て分かるように身に着けてくれとの話でしたので、金色のエピタラヒリと青のフェロン(ともに祭服のアイテムの名称)を重ね着しました。祈祷の時に色違いのアイテムを着ることはおかしいのですが、ウクライナの人々にメッセージ性が伝わることが最優先だと思ったのでそうしました。

パスハのトロパリを収録


www.youtube.com

 

歌自体は短くて間が持たない(?)ので、ロシア語でスピーチを加えました。私はウクライナ語ができないし、ロシア語で話せばウクライナ人もロシア人も、私が伝えたいことが理解できると思ったからです。もっともロシア語も片言しかできないので、難しい話は無理だし、しかもつっかえながら話していますが…

話している内容は以下のとおりです。

 

親愛なるウクライナの兄弟姉妹の皆さん、ハリストス復活!

私は日本の九州の正教会司祭、グリゴリイ神父です。

私たち、多くの日本正教会信徒は、私たちの主キリストにウクライナの平和を祈っています。

主よ、ウクライナの民を救ってください。

私は神が皆さんとともに、今もいつも世々にいてくださることを信じています。アーメン。

 

日本正教会は一部の人々から、あたかもロシアの下僕であり、ウクライナ侵攻を支持しているかのような酷い誤解、というより誹謗中傷を受けています。さらにそれ以前に日本に正教会があって日本人の神父がいること自体があまり認識されていないようです。

しかし日本の、それも九州の外れの田舎にも正教会があって神父もいて、戦禍に苦しむウクライナの兄弟姉妹のために祈っている、つまり「キリスト者として当たり前」のことをしていると伝わるなら嬉しく思います。

この祈りが神に聞き入れられますように。

人吉での復活祭と廻家祈祷

昨日は人吉ハリストス正教会で復活祭の祈祷を行いました。


www.youtube.com

 

復活祭の祈祷は、聖堂の外を一周して回る十字行でスタートします。4月24日の鹿児島での祈祷は大雨で十字行を取り止めましたが、今回は朝から晴天で十字行をすることができました。

前日に聖堂の周りの草刈りをしておいて良かったです(笑)。

開式の十字行

聖体礼儀での説教

信徒が染めたイースターエッグが、前日に設営した台の上に並べられました。

イースターエッグ

聖体礼儀の最後にイースターエッグを成聖

 

クリスマスでも復活祭でも、大祭の時は教会でパーティ―を開くものですが、人吉教会ではコロナ禍以降、お土産に弁当を配ることとし、パーティーは自粛してきました。しかし、今回は信徒の出欠を事前に確認したところ、親戚関係でかつ互いに近くに住んでいる家族たちばかりだということが分かったので、集会室で弁当を静かに食べるということにしました。

祈祷後に弁当

参祷者15人中、子どもは6人いましたので(占率40%!)、福岡と同じく人吉でもエッグハントをしました。福岡と違って人吉教会の敷地は600坪あり、草ぼうぼうなので卵を隠す場所には困りませんでした。

エッグハントをする子どもたち

当たりくじの卵を拾った子にはプレゼント


人吉は過疎化の著しい田舎町で、教会の所属信徒も数世帯(しかもほとんどが親戚関係)しかいませんので、普段の祈祷は閑散としており、私たち夫婦以外に誰も来ないことも珍しくありません。

「信者なのに普段は教会をサボって、お祭りの時しか行かないなんて不真面目だ」と眉をひそめる向きもあるかも知れませんが、キリスト教の祭にはちゃんと意味があるのであり、そういう「節目」に合わせて家族がともに教会にいるという「経験」が、小さいお子さんたちには大切だと私は考えています。

こちらは将来のあるお子さんたちに、「お祈りは長いし、神父さんのお話も退屈だったけど、教会に来て楽しかった」と思ってもらえれば、それで本望です。

 

午後は人吉から40㎞ほど離れた水上村まで廻家祈祷に行きました。

トルストイ翻訳家・北御門二郎氏(1913-2004)の長男夫婦のお宅です。カーナビに住所を入れても、離れた場所でルート表示が切れてしまう山奥です。

 

北御門二郎氏は湯前町の大地主の家に生まれ、東京帝国大学に進みました。彼は戦前の(たぶん現代でも)人吉球磨という田舎では、家柄も学歴もこれ以上ないくらいのセレブだったわけです。しかし、トルストイに心酔していた二郎氏は軍国主義時代の日本で「体制側のエリート」になることに反発を覚え、徴兵も拒否して家を出てしまいました。そして、水上村で文字通り自給自足の農業生活をしながら、トルストイ作品の翻訳に生涯をかけたのです。

大金持ちの貴族である自分の身分が嫌になり、最後に家を出てしまったトルストイに倣う思いがあったのかも知れません。

 

frgregory.hatenablog.com

 

二郎氏夫妻の永眠後は長男夫婦が家を継いで、米と茶の栽培をメインに生活されています。現在も水道を引かず、生活用水も農業用水も川の水を使うという徹底ぶりです。

今はまさに茶摘みの最盛期で、訪問直前まで作業されていました。

祈祷の後で、奥さんが三日前に摘んだばかりの新茶を淹れてくださいました。どんな高級茶にも負けない美味しさでした。

三日前に摘まれたばかりの新茶

北御門二郎氏の翻訳ノートと戦前のトルストイの原書などの蔵書

奥さんはこういうお宅に嫁に来るくらいですから、トルストイの愛読者ですが、こんなことを言いました。

トルストイロシア正教会に破門されたわけですが、彼の平和主義というのはキリスト教徒として決して間違った考えではなく、むしろ正しい考えだったように思います。今、よりによってロシアがあんな戦争を始めたら、一層そう思いますね。トルストイと教会と、本当に正しいのはどっちなのか考えちゃいますよ。今トルストイが生きていたら、何て言うかしらね」

ぐうの音も出ません。私も決して、どこの国の戦争も支持しませんが、「教会側」の人間であることも事実だからです。

しかし、奥さんは「神父さんが毎月の教会報に書いている文章をいつも楽しみに読ませてもらっています。戦争が始まって、『剣を取る者は剣で滅ぶ』と戦争反対の意思表示をお書きになりましたね。本当におっしゃる通りですよ。戦争は絶対にあってはなりません」とも言いました。

 

とりあえず、今回の戦争に関して私が考えていることは間違っていなかったと安堵し、お土産に出荷前の新茶の茶葉をいただいて、水上村を後にしました。

チャイコフスキーとウクライナ

4月24日以降、毎週日曜日は九州各地の教会を巡回して復活祭の祈祷を行っています。

明日はホームグラウンド(?)の人吉教会での復活祭です。

 

連休で出張している間に雑草が猛烈な勢いで伸び、復活祭の開式の十字行(聖堂の周囲を行列すること)にも支障をきたすくらいになってしまいました。駐車スペースもなさそうです。

たちまち雑草だらけになった人吉教会の境内

そこで今朝から妻と人吉教会に行き、私は草刈り、妻は聖堂と集会室の掃除に専念して、明日の復活祭に備えました。

 

さて本日、5月7日はブラームス(1833-1897)とチャイコフスキー(1840-1893)の誕生日です。二人とも私の好きな作曲家です。

後期ロマン派を代表するこの二人が、生年は違えど同じ誕生日というのは面白い偶然だと思います。

 

2月24日のロシア軍のウクライナ侵攻以降、ロシア(ソ連を含む)の作曲家の作品演奏を取り止めるというおかしな傾向が世界的に広まっているようです。

そもそも音楽に罪はないし、その作曲家の存命中にウクライナは独立国でなく、プーチン氏もロシア大統領でないのだから、作曲者にも罪はありません。批判の方向がおかしいです。

最も槍玉に上がっているのはチャイコフスキー作曲の序曲「1812年」です。ロシアの戦勝を高らかに祝う曲だから、というのがその理由のようです。


www.youtube.com

 

しかし、この曲で祝っている勝利とはロシアから他国への侵略戦争ではなく、1812年の祖国戦争の勝利、すなわちナポレオンの侵略をロシアの人々が撃退した出来事です。ちなみにその主戦場は現在のウクライナ地方です。侵略者への勝利というテーマなら、むしろ時宜に適っているとさえ、私は思っているのですが。

曲の最後のコーダで金管楽器が奏でているのは帝政ロシアの国歌のメロディーであり、今のロシア国歌のメロディー(ソ連時代と同じ曲)ではありません。皮肉なことにソ連時代は帝政時代への忌避感から、コーダからロシア国歌のメロディーを省いて演奏されていたくらいです。

つくづく短絡的で浅慮な同調圧力は社会の害だなと思います。

 

さらに付け加えるなら、チャイコフスキー自身はロシアのウラル地方で生まれたものの、ルーツはウクライナにあります。あまり知られていないようですが。

彼の家系はウクライナのコサックに連なるものであり、姓も「かもめ」を意味する「チャイカ」でした。ロシア風の「チャイコフスキー」という姓は、19世紀に彼の祖父が改姓したものです。

 

彼は自分のルーツのあるウクライナ民謡のメロディーにインスパイアされていたようで、自身の作品に多く取り入れています。

彼の「ピアノ協奏曲第一番」は「白鳥の湖」などと並んで最も有名な作品の一つですが、第一楽章の第一主題(開始から4分後くらいからの軽く飛び跳ねるような旋律)と第三楽章の旋律はウクライナ民謡から採られたものです。


www.youtube.com

 

また、彼の若い時の作品「交響曲第二番」は、妹の嫁ぎ先であるウクライナ・カーミャンカの貴族、ダヴィドフ家に滞在して書かれました。彼はダヴィドフ邸で他にも作品を書いています。

第一、第三、第四楽章の旋律はそれぞれウクライナ民謡から採られています。そのため、当時の著名な音楽評論家ニコライ・カシュキンがこの曲を「小ロシア」(マロルスカヤ)と呼んだことから、それが今日でも愛称となっています。


www.youtube.com

 

ちなみに小ロシアとは、13世紀にタタールのくびき、すなわちモンゴルのロシア侵攻が起き、それまでキエフを中心に栄えていたルーシ社会が北方と西方、つまり今日のロシア北部地方とウクライナ西部地方とに分かれてしまったことに由来します。

この時、正教会の管区として前者を「大ロシア」、後者を「小ロシア」と呼びました。つまり本来、地名というよりは教会用語です。この大小とはもちろん優劣ではなく、面積の大小という意味です。

14世紀以降、モンゴルの勢力が撤退してからは、小ロシア地方はリトアニア領、後にポーランド領となりました。しかし18世紀の終わりから19世紀初めにかけて、帝政ロシアポーランドを併合したことに伴い、ウクライナもロシア領となりました。

以後、「小ロシア」は帝政時代のロシア人がウクライナに対して使う蔑称になってしまいました。よって今日では使うことのできない言葉です。チャイコフスキー作品の愛称としてなら許されているところが面白いですが。

 

またチャイコフスキーウクライナではカーミャンカの他、トロスチャネッツという村を気に入り、そこにもよく滞在して作曲していました。この村は今のロシアとの国境のすぐ近くです。

そこにあったチャイコフスキーの家が、この度のロシア軍の侵攻直後に、砲撃で無残に壊されてしまったと報じられていました。

 

そもそもチャイコフスキーはロシアにとっても代表的な歴史的人物のはずでしょう。ロシアがドーピング問題で、オリンピックに国として参加できなくなり、表彰式で国歌の代わりに演奏されたのは前出の「ピアノ協奏曲第一番」の冒頭部分でした。

そのチャイコフスキーの家に砲弾を撃ち込んだのですから、ロシア軍は祖国のために戦うと言っていながら、実際は破壊行為自体が目的であって肝心の祖国へのリスペクトはないという、実に馬鹿げた事態となっています。

 

ロシアの側からも反ロシアの側からもケチをつけられて、チャイコフスキーは今、あの世でどう思っているだろうか。そう思うと残念でなりません。

それもこれも、この度の何の大義も見出せない戦争に原因があるのですから、一刻も早い平和の実現をただ祈るばかりです。

福岡と鹿児島へ 出張続きのGW

久しぶりの投稿です。

4月30日の午後から4泊5日で福岡に出張。5月4日の夕方にいったん帰宅して、5日は鹿児島に日帰り出張でした。

ゴールデンウィークはほぼ丸々、出かけていたことになります。

 

5月1日(日)は福岡伝道所で、復活祭の聖体礼儀を行いました。


www.youtube.com

 

着任して最初の復活祭は一昨年の春でしたが、その年も昨年も、福岡県は九州の中でもコロナの感染拡大が抜きん出ていて、満足な祈祷が行えませんでした。

その意味では、今年は積極的な参祷を呼びかけることができて良かったです。実際、福岡県内だけでなく、大分県長崎県の信徒も参祷しました。さすがに祈祷後のパーティーは自粛しましたが。

朗読奉仕の信徒と日英露の三か国語で福音書を朗読。

ウクライナ出身信徒が持参した手作りのクリーチ(菓子パン)とイースターエッグ

イースターエッグの成聖

参祷者16人中、中学生以下の子どもは5人いましたので、祈祷後にエッグハントをしました。

エッグハント。当たりくじの卵を拾った子どもにプレゼント進呈

 

高齢などの理由で、教会での復活祭の祈祷に参祷できない信徒のためには、司祭が家庭を訪問して祈りを献じる習慣があります。これを「復活祭後の廻家祈祷」といいます。

人吉から福岡はかなり遠く、何度も往復できないので、泊りがけで県内を回って廻家祈祷を行いました。

下の写真の高齢信徒のお宅は、娘さんが(といっても私と同年代ですが)プロのチェンバロ奏者で、祈祷後に一曲披露してくださいました。プロのピアニストでなくても、家にグランドピアノがあるお宅は珍しくありませんが、さすがにチェンバロがあるお宅に伺ったのは初めてです。

廻家祈祷は単なる神父のビジネスではなく、訪問先でこれまで知らなかった情報を聞けたり、いろいろな出会いや経験ができるのであり、さらに空き時間に観光もできるので、それが自分にとって励みになっています。

信徒宅でチェンバロ演奏を聴かせていただく

 

5月5日は鹿児島で、「ウクライナを知るためのお話会」の講演をしました。ウクライナ避難民の支援に取り組んでいる「宙の駅」の本田さんの主催です。

 

frgregory.hatenablog.com

 

会場は繁華街の天文館で、本田さんのご両親が営んでいるカフェです。20人ほどの方たちに聴講していただきました。

講演の前に、鹿児島教会で私から洗礼を受けた米国出身のアーロン兄が、自分のお師匠と二人で三味線の演奏をしてくれました。

アーロン兄(右)とお師匠の三味線演奏

ウクライナについて講演

さすがに私は政治問題は専門ではないので、9世紀のキエフ=ルーシ建国以降のウクライナ地方の歴史や、正教会とは何かといった話を中心に、ロシアとウクライナの双方の人々に歴史的に形成された「多様なアイデンティティや価値観」について話しました。

つまり今回の戦争は、国家指導者とそれを支持する人々が持っている「ウクライナをロシアの一部と見なす、ある特定の価値観の押し付け」が引き起こしているのであり、よって「ロシア人はみな悪い。だからロシアと名の付くものは排除」「正教会、あるいは宗教そのものが戦争の原因」という短絡的な決めつけは間違っている、ということを伝えるように努力しました。

なるべく分かりやすく簡潔に話すように努めたのですが、いただいたテーマが大きいので1時間半近くかかってしまいました。しかし、皆さん熱心に聞いてくださったので、ありがたい限りです。

 

次は熊本で5月28日に講演させていただきますが、今度はライブ配信される上、マスメディアも取材するようなので、練り直してもう少し洗練された話にしたいと思っています。

 

何はともあれ、教会での祈祷、信徒への牧会活動、ウクライナ支援活動と、やることが沢山あったゴールデンウィークでした。

長崎にて 原爆とキリシタンの苦難をしのぶ

26日(火)から二泊三日で長崎に行っていました。
復活祭後の廻家祈祷(信徒訪問)に合わせて、現地で原爆の遺構を見て来ようと思ったからです。

 

26日の九州は終日、まるで台風のような大雨と強風でした。

そのため、熊本から島原へ行くフェリーが欠航になってしまい、人吉から長崎まで4時間近く運転するはめになりました…

 

この日は雨でも立ち寄れる屋内の施設ということで、翌日行くつもりだった浦上の原爆資料館を訪れました。

原爆で被災した物品や、街の写真(遺体を含む)がたくさん展示されています。

長崎に投下された原爆の原寸大模型

原爆の模型を見ると数メートルの大きさがありますが、中に搭載されている核弾頭は野球のボール大です。そんな小さな核物質が8万人近い長崎市民の命を奪い、今も後遺症に苦しむ人々を生み出したことに愕然とします。

トルーマン大統領(当時)が原爆投下を決定した理由は、日本の早期降伏を実現するために最も費用対効果の高い手段であり、これによって本土上陸作戦によって予想される米兵の戦死者を解消できる最善の作戦だからということでした。しかしそのために戦闘員ではなく、罪なき一般市民を何万人も殺戮することがなぜ最善なのか、戦争相手の人間は人間ではないのか、疑問に思います。

 

翌朝は好天になったので、浦上を再訪。空き時間に爆心地公園と平和公園を歩きました。

 

爆心地公園には、倒壊した浦上天主堂の残骸が移築されています。

爆心地公園。右奥は浦上天主堂の残骸

爆心地点の碑

平和祈念像長崎平和公園

 

平和祈念像の前には当時の社会主義諸国から寄贈された石像が並んでいます。ソ連から贈られた像もありました。

ソ連から長崎市に寄贈された石像

ソ連は冷戦下で米国と核開発競争を続け、今も(正確にはソ連でなくロシアですが)核兵器保有を後ろ盾に侵略戦争をしています。

この像は茶番なのか。そう思うと釈然としませんでした。

 

平和公園の近くの浦上天主堂は、被爆前は東洋一の大聖堂とうたわれましたが、原爆で倒壊しました。

浦上天主堂

聖堂の前には被爆した当時の石像が建てられています。

被爆した当時の石像

石像の脇の石段を下りると、爆風で倒壊し、斜面を転がり落ちた鐘楼の残骸が原爆遺構として残っています。

倒壊した鐘楼の残骸

立派な信徒会館を入ると、入口のロビーには被爆した教会の聖器物などが展示されています。

被爆した聖器物や石像

キリスト教徒が多数派の国のアメリカが、大聖堂の真上に原爆を落とし、それで多くの長崎のキリスト教徒が死んだ…これを神への挑戦と言わずして何と言うのでしょうか。

 

28日はフェリーに乗るために長崎から島原へ向かいました。

島原は戦国時代、キリシタン大名の有馬氏の所領であり、同じキリシタン大名小西行長の所領だった対岸の天草と並んで、多くのカトリック信徒が住んでいました。

また、徳川幕府からの独立を目指して挙兵した島原の乱とその後の迫害で、多くのキリシタンが虐殺された地でもあります。

 

そこで、フェリーの出航時刻まで余裕があったので、島原城に行ってキリシタン関連の展示史料を見ることにしました。

島原城。内部は歴史博物館になっている

展示物はたくさんあり、特に隠れキリシタンが密かに拝んでいたマリア観音はいろいろなものが展示されていて、圧倒されます。

様々なマリア観音

 

島原藩が独自に製作した踏絵

発掘された天草四郎軍の遺品の十字架


徳川幕府キリシタン禁制は、豊臣秀吉伴天連追放令を踏襲したもので、スペインやポルトガルの植民地化を未然防止するために、彼らによるカトリックの宣教を禁止するものです。しかし、それなら外国人の入国を禁じる、つまり鎖国政策だけで良いはずです。

つまるところキリシタン禁制は、日本人の権力者が日本人の庶民を統制・弾圧することが目的化してしまい、本来の趣旨が変質してしまったのです。

しかし、これは徳川幕府だけの特殊事例ではありません。国家権力が国民を統制・弾圧することは、自由主義や民主主義の概念が定着しているはずの今日の現代社会でも、世界中で起きています。

 

戦争であれ、圧政であれ、愛と徳ではなく破壊と暴力で人を従わせることは、キリストの教えに完全に反することですから、キリスト者である私には到底容認できません。

しかし、自分自身が暴力で、あるいは暴力は振るわないまでも悪口や意地悪で、それに対抗することは、自分も戦闘に加担することになります。つまり、自分も彼らと一緒になってしまいます。

つまり、キリスト教司祭である私にするべきことは、愛をもって苦しむ人々に接し、救うことしかないと考えます。

九州に来ているウクライナ避難民をはじめ、周囲にいるそういった弱者に、今できることをして行こうと、改めて心に思いました。

鹿児島で迎えた復活祭

鹿児島への出張三日目。今日はいよいよ復活大祭です。

復活大祭の祈祷は深夜に開式し、日の出前に終わらなくてはならないというのが正教会の定めです。聖書には、日曜日の夜明けにマグダラのマリヤらがイエスの墓に行った時、既にイエスは復活した後で墓にはいなかったと書かれているからです。このため、午前零時に開式するのが世界標準になっていますが、わが国の教会では夜間に祈祷を行うのはどうしても無理があると私は考えています。

夜間の騒音のために近隣対策が必要ということもありますが、それ以上に教会に参祷するのは高齢者が多いというのがその理由です。高齢者は都会と地方とを問わず、自分で運転できず、公共交通機関でないと出かけられない人が少なくないし(つまり深夜は物理的に参祷できない)、そもそも深夜の長時間の参祷自体が高齢者の健康面でハードなものとなります。

教会は神父の自己満足のためにあるのではなく、信徒あっての存在だと思っていますので、信徒が教会に来られなくては本末転倒です。そのため、私は司祭に叙聖されて以来、自分が司祷する復活大祭の祈祷は日曜日の朝にしています。

 

今朝の鹿児島は昨日から続く大雨で、教会の敷地が沼のようになりましたが、嬉しいことに普段より多い参祷者がありました。

10時の開式を前に、信徒が持参したイースターエッグが用意した台の上に並べられました。

信徒が持参したイースターエッグなど

復活大祭の祈祷は、聖堂の周りを十字行(行列)して始まりますが、さすがに大雨なのでそれはカットしました。

また、十字行を始める前の夜半課という祈祷で、聖堂に安置してある寝りの聖像を至聖所に移し、宝座(祭壇)の上に置きます。これは「キリストは復活してもはや墓にいない」ことを象るものです。しかし、今回は十字行をしないので夜半課もカットして、聖像をダイレクトに宝座に移してしまいました。

宝座(祭壇)に移された寝りの聖像

 

聖体礼儀では、主の復活の福音(喜ばしい知らせ)が全世界に告げ知らされたことの象りとして、福音書の同じ個所(ヨハネ1:1-17)を可能な限り世界各国語で朗読することが求められています。

鹿児島教会には米国とルーマニア出身の信徒がいますので、彼らにそれぞれ英語とルーマニア語福音書を読んでもらいました。もちろん日本語は日本人である私の朗読です。

三か国語で福音書を朗読

祈祷の終わりに、イースターエッグなどを成聖(聖水をかけて祝福すること)しました。

イースターエッグの成聖

キリストの復活は、それを信じる私たちも復活し、永遠の生命を獲得することを示したという意味において、「天国とこの世を繋ぐ出来事」と理解しています。それを示すために、復活大祭ではイコノスタスの中央の門「王門」を開けたままで祈祷を行い、さらに祈祷後も閉めずに光明週間(復活大祭から1週間)の間は開放します。

もっとも鹿児島教会に次に来るのは一か月後なので、帰宅する時に王門は閉めてしまいましたが…

祈祷後も開放されたままの王門

鹿児島を出発して人吉に戻った後は、まず人吉教会に寄りました。

金曜日に鹿児島に発ったので、人吉の聖堂内はまだ「大斎モード」のままだったからです。

人吉での復活祭に備えて、妻と聖堂内の黒い布を白や金色の布に交換し、寝りの聖像を保管場所から出して宝座の上に置きました。

人吉の聖堂を復活祭に向けて設営

 

夕刻にようやく帰宅し、断肉の主日以来8週間ぶりに焼肉を食べて、わが家のプライベートな復活祭のお祝いをしました!

もっとも、明後日から二泊三日で長崎、週末は四泊五日で福岡に出張するので、休まる時がないのですが…