一昨日は福岡ハリストス正教会で、主の変容(マタイ17:1-8)を記念する顕栄祭の聖体礼儀を執り行いました。
実際の祭日は8月19日(ユリウス暦の8月6日)ですが、福岡教会は遠方から参祷している信徒が少なくないので、他の祭日と同様、日曜日にスライドして聖体礼儀を行っています。
なお、これまで福岡が巡回地だった時は、顕栄祭と福岡巡回日が日程的に合わなかったので、福岡では顕栄祭の祈祷が行われていませんでした。
つまり今回が初めての「福岡での顕栄祭」となります。
聖書の記述によれば、イエスが弟子たちの中からペトロ、ヤコフ、ヨハネの三人を連れて山に登り(聖書に山の名前は書かれていませんが、教会ではエルサレム郊外のタボル山としています)、そこで光輝く姿を示しました。この出来事を「主の変容」(Transfiguration of the Lord)と呼んでいます。

神学的には、この出来事はイエスが次の二つのことを示したものと理解しています。
一つ目は、神は三位一体であり、イエスはその三位一体の神の子がこの世に来られた方だということです。
それは聖霊が光り輝く雲となって辺りを覆い、さらに天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」という神の父の声が聞こえたという記述(マタイ17:5)によります。
二つ目は、イエスは旧約聖書で預言されたメシア(救世主)であるということです。
これはイエスが光り輝いた時、そこにモーセとエリヤが現れた、そして天からの声が聞こえた後、モーセとエリヤはいなくなってイエスだけが残っていた、という記述(マタイ17:3と8)によります。
モーセは律法を代表する人物、そしてエリヤは預言者を代表する人物であり、この律法と預言書を総称してキリスト教会では「旧約聖書」と呼んでいます。
イエスはその旧約聖書に記されたメシア(救世主)だということを、旧約の代表者であるモーセとエリヤが証し、さらに天の父が「モーセでもエリヤでもなく、従うべき真の救世主はイエスだけだ」と告げた、と私たちは理解しています。
このように主の変容は、聖書に書かれた歴史上の「出来事」だったわけですが、それが私たちとどう関係があるのか。
それについては、パウロがコリント人への第一の手紙の中で書いています。
「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。私たちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」(コリント前15:51-52)
つまり、イエス・キリストの死と復活を信じることで、私たち自身も世の終末において復活し、この世の姿とは違う姿に「変えられる」、つまり変容はイエスだけの話ではなく、私たちクリスチャンの将来の話でもある、ということです。
このように主の変容とは重要な意味を持つものですが、正教会ではその「変容」に関連して、「新たな収穫への感謝」、日本正教会用語の「新果新蔬の成聖」という習慣を受け継いできました。
というのは、種子が成長し、実りをもたらすという意味において、農作物の成長もまた一種の「変容」だからです。
それを実現させている神に感謝し、新たな収穫物(特にブドウを中心とする果物)を顕栄祭の時に教会に持ってきて、成聖するのが新果新蔬の成聖の趣旨です。
今回の福岡での初めての顕栄祭でも、信徒の皆さんにたくさんの果物を持ってきていただいたので、それを成聖しました。


もちろん、これらのフルーツは祈祷後に談話室で、参祷した皆で分け合って美味しくいただきました!
神学を思惟的、理知的にとらえようとするのは難しいかもしれませんが、正教会が受け継いできた伝統的な習わしの中で体感するなら、より易しいことでしょう。
その意味で、初めての顕栄祭で福岡の信徒たちは、「変容」を美味しく楽しく体感できたように思いました。


















