九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

猛暑の鹿児島に巡回

今日、私が住む熊本県が梅雨明けしました。

先週はずっと猛暑が続いていたので、梅雨はどこに行ったのかと思っていましたが、まさか梅雨明けとは。まだ6月なのに。

梅雨入りは6月11日でしたので、梅雨の期間は2週間ほどしかなかったことになります。

もちろん梅雨明けは観測史上最速、梅雨の期間も史上最短です。

熊本県は水資源が豊かなので(むしろ大雨による水害の方が脅威)、あまり水不足の心配はしていませんが、これまで住んでいた首都圏などはとんでもないことになりそうです。旱魃といっても良いレベルではないでしょうか。

 

さて、一昨日は鹿児島ハリストス正教会に巡回していました。


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コロナの感染状況は寒くても暑くても変わらないようで、特に鹿児島県や熊本県は全国でも新規感染者が多い地域になっています。

そのため、聖体礼儀の時も冷房を入れずに窓を開放しているのですが、司祭の祭服はかなり厚着なので本当に厳しいものがあります。

この日は特に暑くて…来月以降も心配です。

 

さて、祈祷後に来客がありました。プロテスタント教会の穂森牧師と、曹洞宗直指庵の鎌田住職です。

先月、私が熊本で行ったウクライナについての講演をオンライン視聴してくださり、私に会いたいとのことで訪ねて見えたのです。

お二人は今回のウクライナ戦争の開戦後、鹿児島市内で諸宗教合同の祈りの集いを定期的に続けています。

 

どんな宗教でも、それがまともな教えならば、戦争に反対し平和と人間愛を希求するのは当然のことです。よって、その共通項において宗教者たちが教義の違いを超えて、それぞれのスタイルで祈りを共にしようという理念は、私も大いに共感するところです。

そこで私も可能な限り参画することにし、まずは9月、鹿児島市内のキリスト教の超教派の定例勉強会に出席し、正教会の考えについてお話しさせていただくことになりました。

 

「祈りなんかしても戦争は止められない。所詮は宗教者の自己満足であり、無益なことだ」という人は少なくありません。この鹿児島での諸宗教者の取り組みに対しても、そのようなネット上のコメントを見ました。

しかし、その人は信仰という心の問題を無視して「地上のロジック」だけで物を言っているのであり、戦争を「聖戦」として美化・正当化するために、宗教を地上的な民族主義国家主義に紐づけようとしている侵略者たちと結局は一緒です。

信仰は自由ですから、自分が神を信じないのも自由ですが、神を信じて祈る人をけなすのは、はっきり言って余計なお世話です。

私は宗教者としての矜持を失わず、また日本正教会の「内輪の世界」に引きこもることもせずに、平和の実現のために沢山の方たちと祈りを共にしていこうと思っています。

 

午後、教会を後にして指宿までドライブしました。

夏空の下、池田湖越しに開聞岳の姿が美しく見えました。

池田湖の向こうに見える開聞岳

この空のように晴れ渡り、湖水のように澄み、山のように動じない心が与えられますように、神に祈りました。

帰って来た愛車 これで心置きなく巡回へ

週末の大阪出張から戻ってから、人吉では連日真夏のような猛暑が続いています。梅雨はどこに行ったのかと思います。

時たま短時間の大雨が猛烈に降り、それが上がると強い日差しが照りつけるのですが、日本ではなく、まるで熱帯の国にいるようです。他の地域ではどうなのでしょうか。

さすがに稲は東南アジア原産の植物だからか、猛暑で成長著しいです。司祭館の周りにはいかにも日本という感じの、田んぼの風景が広がっています。

司祭館の前の田んぼの風景

 

さて先月、九州道で追突事故に遭い、車が損傷して5月25日に修理に出しました。

 

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ようやく昨日、ディーラーから修理が完了したと連絡があったので、今日引取りに行ってきました。

ちょうど1か月ぶりに愛車と対面です!

修理が完了した愛車

綺麗に洗車されていて気分爽快です!

もっとも司祭館の周りは畑ばかりで、駐車しているとすぐ土ぼこりだらけになってしまうのですが…

 

それにしても大した損傷でもないのに作業に1か月とは、ずいぶん時間がかかるものだと思いましたが、今は「車の部品不足」が深刻で、その結果、新車の納車遅延が大問題になっているそうです。

 

要するに、コロナ禍の影響で工場の生産ラインが世界的規模で止まったため、どこでも「車が作れない」状態が続いているようです。

私の車も後ろのバンパーが変形してしまって、新品に交換しなければならない状態でしたので、図らずも「部品不足」問題のあおりを食らってしまったのでしょう。

どんな工業製品でも、オートメーション化が進んできたはずなのに、コロナで労働者が出て来られないから工場がストップとは…工業生産のマンパワー依存は未だに変わらないようです。

 

何はともあれ、この一か月もの間、傷つけないよう腫れ物に触るように代車に乗っていたので、今週末の鹿児島出張はマイカーで心置きなく行くことができます。

もっとも、これで自分が事故を起こしたら、元の木阿弥になってしまうので、調子に乗らないように安全運転を心がけます!

大阪での日曜日

昨夜遅く、大阪での出張を終えて人吉に戻りました。

 

日曜日の午前中は大阪ハリストス正教会で聖体礼儀。

西日本教区の司祭全員が(全員といっても6人ですが)陪祷する聖体礼儀は、コロナ禍以降では初めてです。

私の九州着任直後の2019年10月に、大阪での聖体礼儀に陪祷して以来ですから、もう2年半ぶりということになります。

私の感覚ではコロナが収束しているとは思えませんが、社会の流れとしてはコロナとの共存を図っていくということなのでしょう。その意味では、教会に多くの聖職者と信徒が集まって祈る光景を見ることができて、気分が高揚しました。まさに希望の光です。

 

大阪教会は西日本教区では信徒数最多の大教会で、戦前まで大阪市の中心地にありましたが、空襲で焼失。ようやく1962年に現在地の吹田市に再建されました。

イコノスタシスは19世紀のロシアで造られた大変貴重なものです。

これは元々、明治時代に建てられた松山教会のものでしたが、1923年の関東大震災ニコライ堂が倒壊したことにともない、松山教会は東京の仮聖堂としてニコライ堂の敷地内に移設されました。

1929年のニコライ堂再建後も小聖堂として使われてきましたが、昭和40年台に現在のニコライ会館(信徒会館)を建築するために解体されてしまいました。

旧松山聖堂は函館や豊橋の聖堂(ともに国重要文化財)と同じく、河村以蔵の設計によるものであり、現存していれば文化財になっていた可能性があったので、失われたことは残念に思っています。

しかし、イコノスタシスだけは大阪に新築された聖堂に移設されたおかげで、生き残ることができました。

聖堂・二階席からの眺め

説教者はソロモン伝教者(仮名)

司祭発放(聖体礼儀終了時の祝福)

今年、大阪教会管轄司祭のゲオルギイ神父(仮名)が70歳の誕生日を迎えたので、聖体礼儀の最後にお祝いしました。もしコロナの影響で、今でも公開での聖体礼儀ができないままだったら、このような教会としての祝意も示せなかったのですから、とても喜ばしいことだったと思います。

正教会の祝賀の祈り「幾とせも」

ゲオルギイ神父(仮名)の挨拶

午後は会議室で教区会議(年次総会)。

私は毎年、教区会議では司会を担当しています。前任地の東京教区の教区会議でも毎年司会者でしたし、さらには以前の会社でも、支社の会議では司会担当でした。もちろん自分で希望したのではなく、そういう役職だったからですが、つくづく司会業(?)と縁が深いものだと思っています。

司会者としては「何か質問はございませんか」と尋ねて、みな黙っていればスムーズに議事を進められるので楽なのですが、西日本教区では代議員が発言内容への指摘や質問をガンガンしてきますので、会議が取り留めもない方向に行かないよう、司会者が差配するのが大変です。およそ総会というものは、「異議なし」で粛々と進んでいくことが普通ですが、この教区会議では議論が白熱し、予定時間を1時間もオーバーしてしまいました。もっとも、会議は儀式ではないので、本来その方が健全なのですが…

 

組織内の会議ですので、こういうところで議事内容の情報を公開することはしませんが、一つだけ記すなら、「九州の司祭常駐拠点を現行の人吉から福岡に移転させる構想」について表明しました。

もちろん、九州担当の私の発言の形を取ってはいますが、これは西日本教区の司祭団の総意です。

九州に司祭を配属しているのが、既存の信徒の冠婚葬祭要員としてだけなら、居住地はよほどの山間地や離島でない限りどこでも良いでしょう。また、そもそも九州は信徒自体が少ないのですから、普段は地元の人に教会を管理してもらって、誰かが亡くなった時だけ大阪などの都会の神父が現地に出張すれば十分対応できます。

しかし、わざわざ中堅クラスの専従聖職者である私を派遣するということは、九州でのより本格的かつ積極的な開拓宣教が期待されているということでしょう。

それを一人の司祭でやれということならば、活動拠点は九州の中心地である福岡市をおいて他に考えられません。

現在は福岡市内に伝道所があって、月に一回出張していますが、そもそもこの伝道所自体、これまで教会のなかった福岡市周辺を開拓するための、いわば仮設教会として2011年に開設されたものです。

開設から10年を経て、一定の信徒数も得ましたので、さらに進んで本格的な教会を造り、福岡から九州全体をも開拓していこうという構想です。目標は5年後の2027年オープンです。

もちろん私一人が勝手にするのではなく、教区事務局と連携して進めていくプロジェクトなのですが、還暦近くなっても新しいことに挑戦するのは楽しいですね。

 

人吉を金曜日の早朝に発って日曜日の深夜に帰宅するという、長丁場の出張でしたが、いろいろな意味で将来の希望を感じ取ることができて、疲れもなく晴れ晴れとした気持ちに満たされています。

大阪出張2日目

昨日朝、鹿児島空港を飛び立って、大阪ハリストス正教会に出張しています。

 

昨日は司祭会議。

今日は西日本教区の理事会。明日の教区会議(年次総会)に上程する議案を検討するものです。

 

会議の合間に、配布資料の印字やとじ込みなども司祭たちで行います。東京の教団本部には事務職員が何人もいますが、わが教区にはいませんので、そういった庶務も神父がこなさなければなりません。

 

多少もめた議案もあって、理事会は30分ほど延長して終了。

17時から聖堂で主日前晩徹夜祷(土曜日の晩祷)が行われました。

私は自教会では当然ながら司祷する側ですが、今日は久しぶりに聖歌隊で祈祷に参加しました。


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明日は午前中は聖体礼儀、午後は教区会議です。

鹿児島空港には最終の飛行機で戻らざるを得ないので、帰宅は23時近くになるでしょう。

長丁場もいいところですが、無事に終わってほしいですね。

明日から大阪出張

九州地方は先週の土曜日、6月11日に梅雨入りしました。

昨年は異常気象で、梅雨入りはゴールデンウィークが開けてすぐの5月11日でしたが、それを差し引いたとしても、平年より約2週間遅れだそうです。

もっとも、梅雨入り宣言したとはいえ、昨日も今日もカンカン照りの真夏日で拍子抜けしています。

 

しかし、草刈りは雨ではできませんので、今日は司祭館の庭の草刈りをしました。

教会の方の草刈りばかりしていて、司祭館の方を怠っていたら、膝の高さくらいまで草が伸びてしまったので、今日片付けました。

気分爽快です!

草刈りをして地面が見えるようになった司祭館の庭

 

さて、鹿児島に来ているウクライナ避難民の支援活動をしている㈱宙の駅の本田さんについては既に紹介しました。

私もウクライナについての講演会で協力させていただいています。

 

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先日の6月14日(日)に、集まった義援金の第一弾のお届けとして、本田さんから鹿児島市国際交流財団への義援金の贈呈式が行われました。

この国際交流財団とは、鹿児島市内のウクライナ避難民を直接支援する窓口になっている組織とのことで、義援金を避難者本人に直接届けたいという当方の構想に適った相手といえます。

テレビのニュースでも放映されましたが、これはあくまでも第一弾ですので、今後も惜しみなく協力していきたいと思っています。

 

さて、明日から二泊三日で大阪ハリストス正教会に出張です。

今度の日曜日に西日本教区の教区会議(年次総会)が開かれるからですが、私たち専従聖職者は運営側ですので、明日も明後日も準備と打ち合わせがあります。

昨年も一昨年も、つまり私が着任してから毎年、コロナ禍で信徒の代議員は出席できず、実質的な聖職者会議のような状態になっていましたが、今年は大部分の代議員が出席する予定で、やっと総会らしい体裁が整いそうです。

私の感覚ではコロナが収束したとは到底思えないのですが、社会としては「コロナとの共存態勢」が整ってきたということでしょう。

 

ワクチンは3回接種済みですが、公共の交通機関に乗るのも、人がたくさんいるような場所に行くのも冗談抜きに久しぶりなので、コロナを甘く見ないように気をつけて行ってきます。

熊本県が生んだ偉人 北里柴三郎

本日、6月13日は近代日本医学の父・北里柴三郎博士(1853-1931)の命日です。
2024年に発行される新千円札の肖像に選ばれた人物としても注目されていますね。

北里柴三郎(1853-1931)

北里博士の功績を列挙してみると、以下のようになります。

 

1889年 世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功。

1890年 血清療法(いわゆるワクチン)を世界で初めて開発。

1892年 伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)創立。

1893年 日本初の結核専門病院・土筆ヶ丘養生園(現・東京大学医科学研究所付属病院)創立。

1894年 ペスト菌を発見。

1901年 第一回ノーベル生理学・医学賞候補。

1913年 日本結核予防協会創立。副会頭に就任。

1914年 北里研究所(北里大学の母体)創立。初代所長。

1915年 恩賜財団済生会芝病院(現・東京都済生会中央病院)創立。初代院長。

1917年 慶応義塾大学医学科(現医学部)創立。初代学科長。

1920年 慶応義塾大学病院創立。初代院長。

1923年 日本医師会創設。初代会長。

 

こうして見ると研究者個人としても、組織づくりのマネジメントの面でも力を発揮しています。

また、彼の研究室からは野口英世を筆頭に、日本の医学界を代表する多数の人材が生まれています。

言えることは、それまで人類の死因の大半を占めていた感染症の予防と治療について、画期的に前進させたという意味において、彼は日本人だけでなく世界中の人々を救った人物だということです。

 

私が北里博士に関心を持ったのは、ただ新千円札に顔が載るからということではなく、私が住む熊本県出身だと知ったからです。

 

北里博士が生まれたのは熊本県最北部の小国町です。

小国には北里柴三郎記念館があるので、先週見学してきました。

この記念館は、1916年に博士が郷里に建てた図書館「北里文庫」と貴賓館の建物をそのまま使用しています。また、敷地内には博士の生家の一部が移築保存されています。

北里柴三郎記念館「北里文庫」

北里柴三郎記念館「貴賓館」

貴賓館からの眺め。北里博士の生家が見える

北里博士の生家の一部

北里文庫落成式の記念写真(1916年)

 

この村の庄屋の家に生まれた北里博士は、立身出世を夢見て13歳で熊本城下に出ました。明治維新後、出世の手段として語学を学ぶために熊本医学校に入学しましたが、師のマンスフェルトに「役人や政治家になることだけが人生の目標ではない。医師も立派な仕事である」と諭されて考えを改め、医学の道を目指したのです。

その後、東大医学部とドイツ留学を経て、生涯東京を拠点に上記のような華々しい活躍をするわけですが、13歳で離れた山深い故郷に私財を投じて図書館を建てたことは、ふるさとへの忘れられない思いがあったのではないでしょうか。

 

私が北里博士のキャラクターについて注目しているのは「信念を曲げない意思の強さと執着心」です。

 

博士は跡取りの長男でしたが、幼い頃から家を出されて、教育のために漢学者の伯父の家に何年も預けられました。伯母は勉強時間が終わっても遊びに行くことを許さず、家の掃除を命じていました。

子どもだった彼はもちろん不満でしたが、「どうせ掃除をさせられるなら、文句を言われないくらい掃除してやる」と心に決め、猛烈な執念で毎日拭き掃除をしました。

彼が磨き上げて新品同様になった縁側の板は、記念館に展示されています(撮影不可)。

 

博士は東大を出て内務省に入り、同郷の先輩で内務省の上司でもあった緒方正規の推薦でドイツに留学しましたが、緒方が当時の日本の難病・脚気の原因を病原菌と唱えた時、それを批判しました。結果的に北里博士の主張の方が正しかったのですが、彼は「先輩に楯突く恩知らず」と非難され、東大閥から目の敵にされました。

もし官庁で出世したかったのなら、おとなしくして先輩に気に入られるように振舞うべきなのでしょうが、彼は「おかしいと思うことはおかしいと言う」考えを曲げなかったのです。

 

1914年、当時の大隈内閣は博士が所長として手塩にかけてきた伝染病研究所を、一方的に東大の下部組織に移管しました。宿敵の東大医学部にしてやられたのですが、博士は東大で働くのを潔しとせず、辞表を出してしまいました。

その博士を招いたのが慶應義塾だったのであり、これが後に東大医学部と並び立つ慶應医学部の誕生に繋がったのです。ちなみに博士は慶應に恩義を感じて、医学部も大学病院も無報酬で勤めました。

皮肉なことに、大隈重信が創立した早稲田大学の校訓の一つが「在野精神」です。旧佐賀藩出身の大隈は、薩長出身者ばかりが支配している政府と、その政府を支える官僚養成機関の東大に対抗できる人材を育成する私学として東京専門学校、後の早稲田大学を立ち上げたのです。

大隈が東大医学部に忖度して北里博士を排除するのではなく、「在野精神」に則って彼を早稲田に迎えていたら、「早稲田大学医学部」「早稲田大学病院」が誕生していたかも知れません。私は早稲田OBですが、ちょっと残念に思っています。

 

何はともあれ、私は北里博士の結果としての功績以上に、そのバックボーンにある「信念を曲げない意思の強さと執着心」を見習っていきたいと思っています。私は医師ではありませんが、「人を救う」ために働く者として、医師と相通じるものがあると思っているからです。

熊本で聖五旬祭 聖霊降臨がもたらしたのは「福音宣教」

今日は熊本ハリストス正教会に巡回。復活祭から50日目の聖五旬祭の祈祷を執り行いました。この聖五旬祭とは旧約の信仰(今日のユダヤ教)では、過越祭から50日目の祭日のことでしたが、キリスト教ではキリストの復活の後の聖五旬祭の日に起きた「聖霊降臨」(日本正教会訳では「聖神降臨」)という出来事を記念します。

新約の過越祭、すなわち復活祭は必ず日曜日ですので、50日目である聖五旬祭も必ず日曜日となります。

午前中に聖体礼儀を執り行った後、夕刻から聖霊降臨を記憶する晩課という祈祷を行います。しかし現実には、日本正教会ではニコライ堂をはじめ、聖体礼儀に引き続いて主日晩課を行っている教会がほとんどです。私も司祭に叙せられてから今日まで、そのようにしています。

 

この晩課では、司祷者が跪いた状態でかなり長い祈祷文を朗読するという特徴があります。このため、この祈祷を「膝屈祈祷」(しっくつきとう)と呼ぶことがあります。

聖五旬祭の膝屈祈祷(熊本ハリストス正教会にて)

また、祈祷の内容と直接関係ありませんが、ロシア正教会では伝統的に聖五旬祭では緑色の祭服を着用しますので、日本正教会もそれにならっています。ロシア以外のバルカン半島コーカサス正教会では、祭服の色の決まりはあまり厳格でないので、人によって色とりどりになります。

この緑色の祭服を着る機会は基本的に、聖枝祭(復活祭の1週間前の日曜日。枝の主日ともいう)と聖五旬祭の年に2回だけです。つまり、いろいろな色の祭服の中で、一番着る機会が少ないということになります。

ちなみにカトリック教会では、聖霊降臨祭(我々のいう聖五旬祭)では赤色の祭服を着用し、それ以後の日曜日は、待降節(降誕祭の4週間前)に入るまで毎週緑色の祭服を着ます。つまり我々と逆で、緑色の祭服が一番よく着られるわけです。

祭服の色は教会法で義務づけられたものではなく、あくまでもその教会の「習わし・伝統」に基づくことなのですが、祭日の意味は同じなのに教派によって、あるいは同じ正教会でも地域によって色づかいに「多様性」が現れるというのは面白いことです。

 

さて聖霊降臨は、新約聖書使徒行伝2章に記されています。

キリストの復活と昇天の後も、いわゆる使徒と呼ばれる弟子たちは迫害を恐れて身を潜めていました。しかし、五旬祭の日、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが集まっていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:2-4)という現象が起きました。

その時、エルサレムには世界各地から来た巡礼者がいましたが、彼らは自分たちの母国語で使徒たちが会話しているのを見て驚きました。テレビもネットもない時代に、行ったこともない国の言葉をどうやって覚えたのか、ということです。

集まった群衆を前に、使徒を代表してペトロが語りかけました。それは、皆が十字架につけて殺してしまったイエスこそ、旧約聖書で預言されていた救世主である。しかし、イエスは死んだが復活した。自分たちはその証人、つまり復活の目撃者である。今、諸君が見ている現象は、かつてイエスが予告していた聖霊の降臨である、という内容でした。

そしてその日、ペトロの言葉を聞いて信じた3千人が洗礼を受けました。つまり「教会の誕生」です。

 

ペトロ自身はイエスが逮捕された時、人々から「確かにお前もあの連中の仲間だ」(マタイ26:73)と追及されて、三度も「そんな人は知らない」(同26:74)と否認しました。そうまでして自分可愛さに逃げ隠れしていた彼が、堂々と人の前でイエスがキリスト(救世主)であること、そして復活はフィクションでなく事実であることを証言しました。この変化は彼だけの力ではなく聖霊のおかげ、つまり神の助力があったからだといえるでしょう。

つまり、どんな宗教にも宣教という言葉がありますが、キリスト教で宣教とは、使徒たちが聖霊を受けて、自らの経験に基づいて語った「イエスはキリストであり、復活は事実である」という福音(良い知らせ)の証言を受け継ぐこと、と私たちは考えます。

 

もう一つ重要な点は、聖霊降臨が示したのは、この「福音宣教」とは世界の全ての人々に向けられているということです。

もし、福音がユダヤ人とかローマ人とか、特定の民族しか対象にしていなかったのなら、聖霊降臨の時に使徒たちがいろいろな言語で話し始める現象は起きないはずです。ヘブライ語とかラテン語とか、想定している対象者の言語だけで事足りるからです。

しかし、実際には使徒たちは聖霊の力で、習ったこともない各国語で話したのであり、これを私たちは、福音が全世界の人々に向けられていることの証しだと考えています。

正教会ではこの考えを反映して、古代教会以来、宣教はその民族の言葉に翻訳して行われてきました。もちろん、日本正教会も例外ではありません。

 

世界には様々な民族があり、言語以外にも様々なアイデンティティや価値観が存在します。その違いを否定して一つの形式や枠組みを強制するのではなく、人間に違いが存在することを肯定した上で、自らの意思に基づくキリストへの信仰による一致を追求していく…それが正教会の考えです。

これが守られていれば、少なくとも正教会社会においては他国への侵略も人種差別も起こり得ないはずなのですが…それがそうなっていない現状を嘆かわしく思います。

しかし、私はキリストを信じる以上、誰かを詮索して「十字架につけろ」(マタイ27:22)と騒ぐ側に立つのではなく、愛でもって苦しむ人の側に立つことを選びます。

多くの人を救えるように、今日は聖霊の助けを願う一日でした。