本日、3月11日は2011年に東日本大震災が発生した日です。
日本正教会は宮城・岩手両県に最も多くの教会が集中しており、現地の信徒が9名犠牲になったほか、多くの教会堂が被災しました。
特に町の大半が津波と火災で壊滅的な打撃を受けた岩手県山田町では、山田ハリストス正教会が火災で焼失し、山下りんが描いたイコンを含む明治時代の宗教遺産が永久に失われました。
日本正教会では教会堂だけでなく、明治時代に信徒だった個人宅に19世紀のイコンなどが残っていることが少なくありませんが、それが失われてしまうリスクは大規模災害でなくても常にありますので、そのような歴史的宗教遺産の発見と保全も教会の使命ではないかと考えています。
ちょうど先週の土曜日、北九州市のB子さんの依頼でご自宅を訪問しました。
B子さんは大分県でただ一軒の明治期からの信徒家庭だったAさんの娘ですが、本人は信徒ではありません。
一昨年暮れにAさんが永眠して既に葬儀を執り行ったとの連絡を受け、翌1月にB子さん宅を訪ねてパニヒダを献じ、さらに5月に空き家になっている大分県宇佐市のAさん宅に行き、再びパニヒダを献じて敷地内にあるお墓に納骨しています。
Aさん宅には明治時代のイコンがたくさん安置されていて、山奥の個人宅なのにこんなにたくさんの古いイコンをどうしたのかと、大変驚いた記憶があります。
今回、B子さんから話があったのは、空き家のAさん宅を処分するにあたり、保管されている古いイコンを寄贈したいので来てほしいということでした。
もちろん、ただ行ってイコンを引き取ってくるだけでは宅配業者と同じになってしまいますから、B子さん宅でAさんへのパニヒダを献じました。
イコン類は教会に置くような大きいものが多く、枚数もあって、司祭館では広げられないため、今日人吉教会の集会室に運んで梱包を解きました。
大きなキリストのイコンの分厚い額縁の裏には、文字が書かれています。
「中津会祈祷所公物 明治十六年十二月十三日逓送 東京本会事務所」と読めます。明治16年とは1883年ですから、140年前に東京の本会(教団本部)から当時の中津教会あてに贈られたイコンということになります。
旧中津教会の歴史は不明ですが、1883年は人吉ハリストス正教会の設立年なので、同年に中津にも教会が設立されて、このイコンを教団本部が記念品として贈呈したのではないかと想像しています。
また、ニコライ堂のイコノスタスが写った大きな写真の額縁の裏にも文字がありました。この写真は1891年にニコライ堂が落成した時に撮影されたものです。
ニコライ堂は1923年の関東大震災で内部が焼失しましたので、この写真のイコノスタスは現在残っていません。
「基督降生 壱千九百拾年四月吉日 フェオドル安部勇市需之」とあります。
安部勇市氏はAさんの先祖で、1910年4月にこれを入手した旨、本人が記入したものと思われます。
他にも19世紀のロシア製のイコンが何枚もありました。
A家が正教信仰を受け入れた経緯は、B子さんらご遺族に聞いても全く分からないとのことですが、額縁の裏書きによれば、どうやらA家は明治時代に大分県中津にあった中津教会の中心的な信徒だったと思われます。A家の所在地から中津まではかなり距離があるので、A家の人々がどうして正教会を知り、車のない時代にどのようにして中津まで通って洗礼を受けるに至ったのかは謎のままですが…
西南学院大学博物館が2018年に出した論文「日本ハリストス正教会と九州」に、1902年時点の九州各地の正教会と信徒数のデータが掲載されていますが、それによれば中津教会は25世帯59人の信徒を擁する、九州でも大きな教会でした。
それが何らかの理由で解散してしまい、唯一残った信徒のA家が、教会のイコン類を引き取って保管してきたのでしょう。
Aさんには男子がなく、子どもはB子さんら5人の姉妹だけでA姓を継いだ人はいません。また姉妹は誰も洗礼を受けていません。つまり「信徒のA家は断絶」してしまったわけです。
今回、B子さんと接点があったおかげで、A家が保管していた明治期のものを保全することができましたが、今後も九州の正教会の埋もれた歴史遺産の発掘を可能な限り進めていきたいと思っています。