九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。2019年から九州全域を担当しています。

復活祭の日付 なぜ正教会は違うのか

今年は例年より桜の開花が遅れていましたが、ここ数日の暖かさで(東京は昨日、28℃もあったそうですね)人吉でも一気に満開になりました。

人吉ハリストス正教会の聖堂脇の桜も見事です。桜の木は一本しかありませんが。

人吉ハリストス正教会の桜

さて、西方教会カトリック教会とプロテスタント教会)では昨日、3月31日が復活祭でした。

一方、正教会では5月5日が今年の復活祭なので、1か月以上も日付がずれています。

 

しかも日付のずれの間隔は年によって違います。

例えば昨年、2023年の復活祭は西方教会では4月9日、正教会では一週間遅れの4月16日でした。私の感覚では、このように一週間ずれる年が多いようです。

しかし来年、2025年の復活祭は西方教会正教会も同じ4月20日です。

どうしてこのようなことが起きるのでしょうか?

 

その理由として、「カトリック教会やプロテスタント教会太陽暦を用いているが、正教会太陰暦だからだ」と書かれたものを見たことがあり、びっくり仰天したことがあります。あたかも「カトリックプロテスタントキリスト教だが、正教会イスラム教だ」と言っているようです。

 

そもそも復活祭の日付の決定方法は、325年に正統なキリスト教の教義(orthodoxy)を定めるために開かれた第一全地公会において正式に決められました。つまりキリスト教で共通のルールです。

それは「春分の後の満月の日の次の日曜日」というものです。

春分秋分も)とは昼の時間と夜の時間の長さが同じ日のことですから、太陽暦だろうと太陰暦だろうと、人間が作った暦に関係なく同じ日に決まっています。

今年の春分の後に到来した満月の日は3月25日でしたので、その次の日曜日は3月31日です。西方教会で今年は昨日を復活祭としたことに矛盾はありません。

 

しかし正教会にはもう一つのルールがあります。

それは「旧約(今日のユダヤ教)の過越祭が終わるまで復活祭を行うことはできない」というものです。

ユダヤ教で過越祭は曜日に関係なく、ユダヤ暦の「ニサン(1月)15日」と決められており、その日を含めた8日間が過越祭の祭期となります。ニサン15日は、グレゴリオ暦に換算すると概ね「4月の満月の日」に該当します。

今年は4月24日が満月であり、よって今年の過越祭の期間は4月24日から5月1日までとなります。

その後に到来する日曜日が5月5日なので、正教会ではその日を復活祭としているわけです。

 

この正教会のルールは、復活祭とは単なる「イエスという人物が復活した奇蹟を祝うイベント」なのではなく、旧約の過越祭に対して「新約の過越祭」だという考えに基づきます。

正教会での復活祭の正式な呼称は「パスハ」ですが、これはヘブライ語で過越祭を意味する「ペサハ」のギリシャ語読みです。つまり日本語で「復活祭」と訳していますが、正教会にとってこの祭はそもそも「過越祭」なのだということが、この呼び名からも分かります。

 

この過越祭は元来、旧約聖書出エジプト記にある「過越」を記念する祭でした。

神の民であるユダヤ人が異国のエジプトで奴隷状態だった頃、神はモーセ預言者に立てて、エジプトからの脱出を成功させました。そして神はモーセを通して「この日は、あなたたちにとって記念するべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭として祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」(出エジプト12:14)と命じました。

民はエジプトを脱出した後、38年間を要したとはいえ、父祖の地であるカナン、今日のイスラエルに戻ることができました。

つまり、ユダヤ教における過越の意義は、神によってユダヤ人(という特定の民族)がエジプト(という特定の国家)の奴隷状態から解放され、カナン(という特定の地域)に到達したという、極めて地上的な理解がなされています。

 

それに対してキリスト教では、出エジプト記の過越の事績はキリストによって新たな、そして真の救いが示されることの預象と理解しています。それを整理すると、少し長いですが、以下に記したようになります。

ユダヤ人だろうと他の民族だろうと、人間は等しく神に造られた被造物であり、アダムとエヴァが犯した罪の結果、誰も死から逃れることはできない。つまり、すべての人間は「罪と死の奴隷状態」である。しかし、神ご自身がいつか死ぬ人間となってこの世に来られ(つまりキリスト)、私たちの罪の赦しを実現する生贄として十字架上で死に、復活して永遠の生命を示してくださった。これが新たな神の救いの約束「新約」である。よってキリストの復活は、すべての人間に共通の「罪と死の奴隷状態」からの解放と、同じくすべての人間が共通して帰るべき場所「天国」への到達を実現したのであり、「新約の過越」といえる。つまり、出エジプト記で神が「代々に守るべき不変の定め」として祝うように命じた過越祭とは、旧約時代を終えて新約の時代を迎えた私たちクリスチャンにとっては、キリストによって示された「復活」を祝うことである。

 

このような理由で、新約の過越祭である復活祭は旧約の過越祭が終わった後で祝う、というルールになっているのです。

 

もしユダヤ教キリスト教とが全く無関係な別個の宗教だとしたら、キリスト教に「旧約聖書」は要らないはずです。しかし、それがそうなっていないのは、神がずっと示して来た人間との関わりがあり(旧約)、その成就としてキリストが来られた(新約)と、キリスト教では信じているからです。

よく「旧約の神」「新約の神」という言い方を目にしますが、それはユダヤ教キリスト教とで別の神を信じていると言っているのに等しく、キリスト教的には一神教の否定という意味で正しい考えではありません。

 

現実問題として、正教会だろうと他の教会だろうと、大部分の信者の皆さんにとって復活祭の日は楽しい教会イベントとして一日が終わってしまうのですが…それはそれで良いことですが、「クリスチャンなら主の復活を祝う理由まで分かってくれたらなあ」と思っているところです。