九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

福岡で聖五旬祭(ペンテコステ) 今も聖霊降臨は起きている

先日の日曜日、6月4日は復活大祭から50日目の祭日、聖五旬祭でした。

聖五旬祭ペンテコステ)は復活大祭と同様、キリスト教会共通の祭日ですが、今年の正教会復活大祭西方教会カトリックプロテスタント)と1週間遅れだったので、聖五旬祭も1週間ずれています。

旧約時代、聖五旬祭とは過越祭から50日目の祭日を指していました。しかし、キリスト教会では、「主の受難と復活」を真の過越しと理解しており、よって主の復活の祭日、すなわち復活大祭から50日目を聖五旬祭としているのです。

そしてキリスト教会の聖五旬祭では共通して、新約聖書使徒行伝2章の記述に基づき、主の受難と復活が起きた年の聖五旬祭の出来事「聖霊降臨」(日本正教会用語では聖神降臨)を記憶しています。

 

今年の聖五旬祭は福岡伝道所で執り行いました。

聖五旬祭は聖体礼儀の後、夕刻から聖霊降臨を記憶する主日晩課という祈祷を行いますが、現実問題として午前中の聖体礼儀が終わってから夕方に信徒が教会に再集合するのは困難なので、私は聖体礼儀に引き続いて晩課を行っています。

この聖五旬祭主日晩課が通常の晩課と異なるのは、聖霊降臨を記念する祈祷文をひざまずいたまま、長時間にわたって司祭が朗読することです。もちろん、祈祷にあずかっている信徒もひざまずいています。

聖五旬祭の晩課

私自身はひざまずいた姿勢でいることはあまり苦になりませんが(正座の方が足がしびれるので苦痛)、日本ではひざまずく習慣がないせいか、ひざまずいた状態でいることが難しい人が多いようです。まして高齢の方には無理があります。

そのため、私が司祷するときは「ひざまずくのが困難な方は、正座していても椅子に座っていても構いません」と事前にアナウンスするようにしています。

祈りは神に捧げるものであって、自分をいじめて満足するためにあるのではないのですから、祈ることが苦痛だったら本末転倒だと思うからです。

 

さて、聖書に記された聖霊降臨の時に起きたことは、使徒たちが「ほかの国々の言葉で話しだし」(使徒2:4)、ペトロが人々に宣べた言葉を聞いて「受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」(使徒2:41)というものでした。つまり、世界に向けての使徒たちの宣教の開始と教会の誕生です。

もちろん聖書に書かれていることですから、それを事実として受け入れているのは当然ですが、正教会ではさらに、聖霊降臨は単なる2千年前の出来事にとどまらず、今でも私たちの祈りを通して起きているものと理解しています。

 

たとえば、正教会では聖体礼儀を含む教会での諸祈祷の開始時、また祈祷以外にも教会での会議や行事の開始時に、聖霊降臨を願う祈祷文を朗読または唱和します。

これは「聖五旬祭のスティヒラ」、通称「天の王」と呼ばれるもので、文言は以下のとおりです。

「天の王、慰むる者や、真実の神(しん)、あらざる所なき者、満たざる所なき者や、万善の宝蔵なる者、生命を賜う主や、来たりて我らの中におり、我らを諸々の穢れより潔くせよ、至善者や、我らの霊(たましい)を救い給え」

内容は「天の王」から「生命を賜う主や」まで、聖霊に様々な表現で呼びかけ、自分たちのところに来て罪の赦しと力を与えてくださいと願うものです。

 

さらに重要な祈りは聖体礼儀における「聖変化」の祈祷文です。

正教会では(カトリック聖公会も同じ)、聖体礼儀で天の父に捧げられたパンと葡萄酒がキリストの真の肉と血に変化しているものと信じています。

これは頭の中のイメージという意味ではなく、天の父が祈りに応えて聖霊を送り、パンと葡萄酒をキリストの体血に変化させてくれている、という理解です。これを「聖変化」と呼びます。

聖体礼儀で司祭が読み上げている聖変化の祈祷文はかなり長文ですが、最後の肝心の部分(?)は以下のとおりです。

「我らまた汝にこの霊智なる無血の奉事を献じて、願い祈り切に求む、汝の聖神を我ら及びこの供えたる祭品に遣わし給え。

 第三時に汝の至聖神を汝の使徒に遣わしし至善の主や、これを我らより取り上ぐることなかれ、なお我ら汝に祈る者のうちにこれを新たにせよ。(3回)

 この餅(へい)をもって汝のハリストスの尊体となし、この爵中のものをもって汝のハリストスの尊血となし、汝の聖神をもってこれを変化せよ。」

要約すれば、「天の父よ、無血の奉事、つまりリアルな動物の生贄でないパンと葡萄酒をあなたに捧げるので、聖霊を送ってください。使徒聖霊を送った神よ、この捧げものを新しいものにしてください。このパンをキリストの体に、この杯の中身をキリストの血に、あなたの聖霊によって変えてください」というものです。

 

以上のように、私たち正教会では聖霊降臨を2千年前の「昔話」にとどまらず、21世紀の今も祈りによって起きている「現実」と考えており、またその聖霊によって与えられたキリストの「体と血」を通して、私たちもキリストと結びついていると信じているのです。