九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

熊本で聖五旬祭 聖霊降臨がもたらしたのは「福音宣教」

今日は熊本ハリストス正教会に巡回。復活祭から50日目の聖五旬祭の祈祷を執り行いました。この聖五旬祭とは旧約の信仰(今日のユダヤ教)では、過越祭から50日目の祭日のことでしたが、キリスト教ではキリストの復活の後の聖五旬祭の日に起きた「聖霊降臨」(日本正教会訳では「聖神降臨」)という出来事を記念します。

新約の過越祭、すなわち復活祭は必ず日曜日ですので、50日目である聖五旬祭も必ず日曜日となります。

午前中に聖体礼儀を執り行った後、夕刻から聖霊降臨を記憶する晩課という祈祷を行います。しかし現実には、日本正教会ではニコライ堂をはじめ、聖体礼儀に引き続いて主日晩課を行っている教会がほとんどです。私も司祭に叙せられてから今日まで、そのようにしています。

 

この晩課では、司祷者が跪いた状態でかなり長い祈祷文を朗読するという特徴があります。このため、この祈祷を「膝屈祈祷」(しっくつきとう)と呼ぶことがあります。

聖五旬祭の膝屈祈祷(熊本ハリストス正教会にて)

また、祈祷の内容と直接関係ありませんが、ロシア正教会では伝統的に聖五旬祭では緑色の祭服を着用しますので、日本正教会もそれにならっています。ロシア以外のバルカン半島コーカサス正教会では、祭服の色の決まりはあまり厳格でないので、人によって色とりどりになります。

この緑色の祭服を着る機会は基本的に、聖枝祭(復活祭の1週間前の日曜日。枝の主日ともいう)と聖五旬祭の年に2回だけです。つまり、いろいろな色の祭服の中で、一番着る機会が少ないということになります。

ちなみにカトリック教会では、聖霊降臨祭(我々のいう聖五旬祭)では赤色の祭服を着用し、それ以後の日曜日は、待降節(降誕祭の4週間前)に入るまで毎週緑色の祭服を着ます。つまり我々と逆で、緑色の祭服が一番よく着られるわけです。

祭服の色は教会法で義務づけられたものではなく、あくまでもその教会の「習わし・伝統」に基づくことなのですが、祭日の意味は同じなのに教派によって、あるいは同じ正教会でも地域によって色づかいに「多様性」が現れるというのは面白いことです。

 

さて聖霊降臨は、新約聖書使徒行伝2章に記されています。

キリストの復活と昇天の後も、いわゆる使徒と呼ばれる弟子たちは迫害を恐れて身を潜めていました。しかし、五旬祭の日、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが集まっていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:2-4)という現象が起きました。

その時、エルサレムには世界各地から来た巡礼者がいましたが、彼らは自分たちの母国語で使徒たちが会話しているのを見て驚きました。テレビもネットもない時代に、行ったこともない国の言葉をどうやって覚えたのか、ということです。

集まった群衆を前に、使徒を代表してペトロが語りかけました。それは、皆が十字架につけて殺してしまったイエスこそ、旧約聖書で預言されていた救世主である。しかし、イエスは死んだが復活した。自分たちはその証人、つまり復活の目撃者である。今、諸君が見ている現象は、かつてイエスが予告していた聖霊の降臨である、という内容でした。

そしてその日、ペトロの言葉を聞いて信じた3千人が洗礼を受けました。つまり「教会の誕生」です。

 

ペトロ自身はイエスが逮捕された時、人々から「確かにお前もあの連中の仲間だ」(マタイ26:73)と追及されて、三度も「そんな人は知らない」(同26:74)と否認しました。そうまでして自分可愛さに逃げ隠れしていた彼が、堂々と人の前でイエスがキリスト(救世主)であること、そして復活はフィクションでなく事実であることを証言しました。この変化は彼だけの力ではなく聖霊のおかげ、つまり神の助力があったからだといえるでしょう。

つまり、どんな宗教にも宣教という言葉がありますが、キリスト教で宣教とは、使徒たちが聖霊を受けて、自らの経験に基づいて語った「イエスはキリストであり、復活は事実である」という福音(良い知らせ)の証言を受け継ぐこと、と私たちは考えます。

 

もう一つ重要な点は、聖霊降臨が示したのは、この「福音宣教」とは世界の全ての人々に向けられているということです。

もし、福音がユダヤ人とかローマ人とか、特定の民族しか対象にしていなかったのなら、聖霊降臨の時に使徒たちがいろいろな言語で話し始める現象は起きないはずです。ヘブライ語とかラテン語とか、想定している対象者の言語だけで事足りるからです。

しかし、実際には使徒たちは聖霊の力で、習ったこともない各国語で話したのであり、これを私たちは、福音が全世界の人々に向けられていることの証しだと考えています。

正教会ではこの考えを反映して、古代教会以来、宣教はその民族の言葉に翻訳して行われてきました。もちろん、日本正教会も例外ではありません。

 

世界には様々な民族があり、言語以外にも様々なアイデンティティや価値観が存在します。その違いを否定して一つの形式や枠組みを強制するのではなく、人間に違いが存在することを肯定した上で、自らの意思に基づくキリストへの信仰による一致を追求していく…それが正教会の考えです。

これが守られていれば、少なくとも正教会社会においては他国への侵略も人種差別も起こり得ないはずなのですが…それがそうなっていない現状を嘆かわしく思います。

しかし、私はキリストを信じる以上、誰かを詮索して「十字架につけろ」(マタイ27:22)と騒ぐ側に立つのではなく、愛でもって苦しむ人の側に立つことを選びます。

多くの人を救えるように、今日は聖霊の助けを願う一日でした。