九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。2019年から九州全域を担当しています。

熊本県が生んだ偉人 北里柴三郎

本日、6月13日は近代日本医学の父・北里柴三郎博士(1853-1931)の命日です。
2024年に発行される新千円札の肖像に選ばれた人物としても注目されていますね。

北里柴三郎(1853-1931)

北里博士の功績を列挙してみると、以下のようになります。

 

1889年 世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功。

1890年 血清療法(いわゆるワクチン)を世界で初めて開発。

1892年 伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)創立。

1893年 日本初の結核専門病院・土筆ヶ丘養生園(現・東京大学医科学研究所付属病院)創立。

1894年 ペスト菌を発見。

1901年 第一回ノーベル生理学・医学賞候補。

1913年 日本結核予防協会創立。副会頭に就任。

1914年 北里研究所(北里大学の母体)創立。初代所長。

1915年 恩賜財団済生会芝病院(現・東京都済生会中央病院)創立。初代院長。

1917年 慶応義塾大学医学科(現医学部)創立。初代学科長。

1920年 慶応義塾大学病院創立。初代院長。

1923年 日本医師会創設。初代会長。

 

こうして見ると研究者個人としても、組織づくりのマネジメントの面でも力を発揮しています。

また、彼の研究室からは野口英世を筆頭に、日本の医学界を代表する多数の人材が生まれています。

言えることは、それまで人類の死因の大半を占めていた感染症の予防と治療について、画期的に前進させたという意味において、彼は日本人だけでなく世界中の人々を救った人物だということです。

 

私が北里博士に関心を持ったのは、ただ新千円札に顔が載るからということではなく、私が住む熊本県出身だと知ったからです。

 

北里博士が生まれたのは熊本県最北部の小国町です。

小国には北里柴三郎記念館があるので、先週見学してきました。

この記念館は、1916年に博士が郷里に建てた図書館「北里文庫」と貴賓館の建物をそのまま使用しています。また、敷地内には博士の生家の一部が移築保存されています。

北里柴三郎記念館「北里文庫」

北里柴三郎記念館「貴賓館」

貴賓館からの眺め。北里博士の生家が見える

北里博士の生家の一部

北里文庫落成式の記念写真(1916年)

 

この村の庄屋の家に生まれた北里博士は、立身出世を夢見て13歳で熊本城下に出ました。明治維新後、出世の手段として語学を学ぶために熊本医学校に入学しましたが、師のマンスフェルトに「役人や政治家になることだけが人生の目標ではない。医師も立派な仕事である」と諭されて考えを改め、医学の道を目指したのです。

その後、東大医学部とドイツ留学を経て、生涯東京を拠点に上記のような華々しい活躍をするわけですが、13歳で離れた山深い故郷に私財を投じて図書館を建てたことは、ふるさとへの忘れられない思いがあったのではないでしょうか。

 

私が北里博士のキャラクターについて注目しているのは「信念を曲げない意思の強さと執着心」です。

 

博士は跡取りの長男でしたが、幼い頃から家を出されて、教育のために漢学者の伯父の家に何年も預けられました。伯母は勉強時間が終わっても遊びに行くことを許さず、家の掃除を命じていました。

子どもだった彼はもちろん不満でしたが、「どうせ掃除をさせられるなら、文句を言われないくらい掃除してやる」と心に決め、猛烈な執念で毎日拭き掃除をしました。

彼が磨き上げて新品同様になった縁側の板は、記念館に展示されています(撮影不可)。

 

博士は東大を出て内務省に入り、同郷の先輩で内務省の上司でもあった緒方正規の推薦でドイツに留学しましたが、緒方が当時の日本の難病・脚気の原因を病原菌と唱えた時、それを批判しました。結果的に北里博士の主張の方が正しかったのですが、彼は「先輩に楯突く恩知らず」と非難され、東大閥から目の敵にされました。

もし官庁で出世したかったのなら、おとなしくして先輩に気に入られるように振舞うべきなのでしょうが、彼は「おかしいと思うことはおかしいと言う」考えを曲げなかったのです。

 

1914年、当時の大隈内閣は博士が所長として手塩にかけてきた伝染病研究所を、一方的に東大の下部組織に移管しました。宿敵の東大医学部にしてやられたのですが、博士は東大で働くのを潔しとせず、辞表を出してしまいました。

その博士を招いたのが慶應義塾だったのであり、これが後に東大医学部と並び立つ慶應医学部の誕生に繋がったのです。ちなみに博士は慶應に恩義を感じて、医学部も大学病院も無報酬で勤めました。

皮肉なことに、大隈重信が創立した早稲田大学の校訓の一つが「在野精神」です。旧佐賀藩出身の大隈は、薩長出身者ばかりが支配している政府と、その政府を支える官僚養成機関の東大に対抗できる人材を育成する私学として東京専門学校、後の早稲田大学を立ち上げたのです。

大隈が東大医学部に忖度して北里博士を排除するのではなく、「在野精神」に則って彼を早稲田に迎えていたら、「早稲田大学医学部」「早稲田大学病院」が誕生していたかも知れません。私は早稲田OBですが、ちょっと残念に思っています。

 

何はともあれ、私は北里博士の結果としての功績以上に、そのバックボーンにある「信念を曲げない意思の強さと執着心」を見習っていきたいと思っています。私は医師ではありませんが、「人を救う」ために働く者として、医師と相通じるものがあると思っているからです。