11月2日はわが国を代表する詩人・北原白秋の命日です。亡くなったのは昭和17(1942)年なので、一昨日で没後80年となります。
わが九州が生んだ大文学者であるだけでなく、私個人にとっても母校・早稲田大学の大先輩です。
柳川市では白秋没後10年の昭和27年から毎年、白秋の命日に合わせて11月1日から3日までの三日間、市のイベント「白秋祭」を行っています。
今年は没後80年の記念の年でもありますので、昨日の午後、数時間だけですが柳川まで行ってきました。
柳川には昨年2月に観光で行きましたので、1年半ぶりの再訪です。
柳川では「北原白秋生家・記念館」へ。
白秋の生家は酒造を営む大きな商家でした。白秋の青年時代に破産して家も一時人手に渡ってしまったのですが、現在は市が整備して立派に復元されています。
記念館では没後80年の特別展として「交声曲『海道東征』展」が開催されていました。
「海道東征」は白秋の死の3年前、昭和14年10月に、病気でほぼ視力を失った中で書き上げられた作品です。
昭和15年11月、紀元二千六百年奉祝芸能祭で、信時潔の作曲による合唱曲として演奏されました。
そのような政治的意図で使われた作品であるため、長らく取り上げることがタブー視されてきましたが、詩の内容自体は古事記や日本書紀の記述をベースにして、神武天皇の東征を描いた雄大な叙事詩です。文体は万葉集を思わせます。
特別展の展示品に初版の「海道東征」があり、そこには白秋の巻頭言として「これは三部作の神武天皇讃歌の第一部である」と書かれていました。本人は神武天皇をテーマにもっと長大な詩を書きたかったようですが、その死で未完に終わりました。
そもそも、神武天皇の東征とは外国への侵略の話ではなく、九州の一豪族にすぎなかったカムヤマトイワレヒコ(後の神武天皇)が東方に向けて勢力を拡大し、ついに奈良橿原に王朝を開く物語であり、突き詰めれば今日の皇室の成立(神の子孫かどうかはともかくとして)の物語です。そのストーリーを都合よく利用して対外侵略を正当化しようとする当時の勢力がおかしかったのです。
詩に頻繁に出てくる九州の地名を見ると、九州がいかに古代史と日本神話のふるさとであり、自分がまさにその歴史的な地に生きているということを実感させられます。
今月末、白秋没後80年記念として九州交響楽団による「海道東征」の演奏が予定されており、私自身も合唱で参加するのですが、「九州で演奏する」ということに意義があるように感じられて、良い記念になりそうです。
夕刻、18時からは記念館の近くの掘割で、白秋祭恒例の水上パレードが行われました。
30艘ほどの観光用の舟が飾り付けられて、雅楽の音とともに出船していくものです。
岸壁には市長はじめ、市幹部が手を振っていて、単なる観光イベントではなく、市を挙げて白秋を記念していることが伺えます。
ちなみに柳川市では、白秋の誕生日である1月25日にも「白秋生誕祭」を行っていて、この時は小学生のマーチングバンドの演奏が行われることになっています。
誕生日も命日も市の祭日として祝うとは、あたかもキリスト教社会の街の守護聖人のような扱いで驚かされます。
しかし、それだけ柳川の人々にとって、北原白秋は郷土の誇りという位置づけなのでしょう。それが白秋祭の様子を見てよく分かりました。
4時間ほどの柳川滞在でしたが、印象的な時間を過ごすことができました。