昨日は福岡伝道所に巡回し、聖体礼儀を執り行いました。
毎年、11月の福岡巡回の時は子どもの健やかな成長を祈念して祈祷を献じています。
「学童就学時の祈祷」の典礼文を用いていますが、固い言い回しなので「子どもモレーベン」と名づけています。モレーベンとは教会スラブ語の単語で、日本語では「感謝祈祷」と訳されています。
聖体礼儀の参祷者は15名でしたが、うち小学生以下の子どもは6人でしたので、祈祷としては格好がついたと言えるかもしれません。
お祈りに与った子どもたちにはお菓子の詰め合わせと、一人一個ずつ聖パンをプレゼントしました。聖パンとは本来、聖体礼儀において聖体(キリストの体)にするためのパンのことですが、聖体自体は細かく切り刻んであるので数ミリ角ほどの大きさしかありません。そのため聖パンを「一個丸かじり」にする機会は普段あまりないので、子どもたちは喜んでいました。
ちなみに正教会には、11月が子どものための月という教えはありません。しかし、わが国の伝統行事として11月15日に「七五三」が行われることから、それに関連づけて11月に子どもを教会に呼ぶためのイベントとして、感謝祈祷を執り行っている教会は国内で多くあります。私自身も前任地で行っていました。
九州でも各教会でやりたいところですが、参祷者自体が少なく、しかも高齢者ばかりで、複数の子どもが定期的に参祷する教会は福岡だけです。それで結果的に、子どものための祈祷が毎年実行できるのも福岡伝道所だけという状態になっています。
さて、共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ各伝)には、イエスに祝福してもらおうと人々が子どもたちを連れてきたエピソードが記されています。ルカ伝には「乳飲み子までも」(ルカ18:15)と書かれています。さぞピーピーと騒がしかったことでしょう。
弟子たちは人々を叱りつけたのですが、イエスが叱責したのは弟子たちの方でした。そしてこう言いました。
「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ10:14-15)
イエスはもちろん、子どもの方が大人より信仰に篤いという意味で言っているのではありません。子ども「のように」です。
つまりイエスが言いたいことは、子どもは大人と違って周囲に余計な忖度などせず、純粋に親や大人に庇護を求める存在なのであり、私たちも神に対してそのようにあるべきだ、ということです。
よってこのイエスの言葉に従い、子どもたちは信仰者のひな型と言うべき存在だから、教会としても大切にしようという発想に繋がってくるわけです。
キリスト教会の中には、子どもは聖書や教義を十分理解できないからという理由で幼児洗礼を認めない教派があります。また同様に、幼児は聖体の意味を理解できないという理由で、カトリック教会では就学前の幼児の聖体拝領を認めません。
しかし、正教会では当然のこととして幼児洗礼が行われ、また洗礼を受ければ当然の資格として領聖(カトリックの聖体拝領に相当)できます。もっとも乳児にパンと葡萄酒を食べさせるのは無理なので、唇をつけるくらいのことしかできませんが。
つまり、子どもの生活において教えを伝えるのは大人の側の務めであり、子ども本人がどれだけ信仰に篤いか、どれだけ教えを理解しているかなどと論じること自体が無意味であって、上記の聖書の記述によれば、むしろ子どもたちこそがキリストに招かれている存在なのだから、教会で大人と分け隔てなく子どもにも機密(サクラメント)を授ける、というのが正教会の考えなのです。
そのようなわけで、教会は年寄りだけが来る場所ではなく、むしろ子どもや若者こそ来てほしい場所なのですが…司牧者として、努力していかなくてはなりませんね。