節分の今日、2月3日は福澤諭吉や先代の市川團十郎など、何人かの有名人の命日でもあります。
しかし、2月3日に亡くなった人物の一人として、熊本県民である私はハンナ・リデル(1855-1932)の名も忘れることはできません。
ハンナはそれまでわが国で差別にさらされていたハンセン病患者の救済を、熊本から発信して全国レベルで展開した人物です。
肝心なのは外国出身者が、社会で差別されて苦しんでいる日本人のために、しかも様々な反対や困難に直面しても信念を曲げずに働き、最後は日本の土になったことにあると、私は考えています。
ハンナは英国・ロンドン郊外で退役軍人の子として生まれました。
若い頃は父親が創立した私立学校で教師をしていましたが、両親の相次ぐ死去で学校は破産し閉校。生活のために英国国教会のミッション団体であるCMS(Church Missionary Society 英国聖公会宣教協会)の宣教師となりました。
ハンナは35歳の時に熊本へ派遣されることになり、初めて日本の地を踏みました。そして来日直後の1891年のある日、熊本市内にある加藤清正の菩提寺「本妙寺」で衝撃的な光景を目にしました。
熊本城を築いた加藤清正は昔も今も、熊本で最も尊敬されている英雄です。
さらに昔は、本妙寺の清正廟に参拝すると万病が治ると信じられていたため、本妙寺の境内にはたくさんのハンセン病者が住み着いていたのです。
おびただしい数のハンセン病者が社会から見捨てられ、本妙寺にたむろしている姿を目にして、ハンナは彼らを救済するために立ち上がりました。
ハンナはハンセン病者が安心して療養生活を送れる施設を熊本に造ろうと決意し、本国のCMS本部に建設を要請します。しかし、なんとCMSはそれを拒否しました。
当時のCMSの考えは、ハンナを日本に送ったのは献金をくれる上流階級の人々を聖公会の信者にするためであり、ハンセン病者のような下層の日本人に使う金はない、ハンナは余計なことをしないで本業に専念しろということだったのでしょう。
日本人クリスチャンである私としては、CMSは教会としておかしいんじゃないの、と思わないでもないですが、19世紀の欧米の多くの人々は日本人を下に見ていたのであり、当時としてはCMSの方が「普通の考え」だったかも知れません。
しかし、ハンナは個人で募金活動を押し進め、ついに1895年11月、熊本県で最初のハンセン病療養所「回春病院」を設立しました。ちなみに病院設立後の1897年、彼女はCMSに辞表を提出し、宣教師でなく一私人として(つまり教会からの俸給はなし)活動を続けました。
彼女はハンセン病者救済という信念を曲げず、大隈重信や渋沢栄一などの政財界の大物にも直談判して人脈を広げ、ついに昭憲皇太后をはじめ皇室からも支援を受けるに至りました。
以後、ハンナはこの施設で患者の療養と研究者による治療法の開発のために生涯を捧げ、1932年2月3日に世を去りました。生涯独身でした。
ハンナの事業は姪のエダ・ハンナ・ライト(1870-1950)に受け継がれましたが、日本社会が軍国主義にともなう反英米主義と弱者差別に進む中で、大変な苦難を受けることになります。それについては、後日改めて書こうと思います。
現在、回春病院は「社会福祉法人リデルライトホーム」となり、ハンセン病者施設から高齢者福祉事業にシフトしています。
敷地内にある「リデル・ライト両女史記念館」は回春病院の研究棟として、1919年に建てられたものです。2016年の熊本地震で被災しましたが、2020年に修復が完成して、一般公開を再開。昔の史料やハンナらの遺品などが展示されています。
ハンナはCMSと対立して宣教師を辞めてしまい、よって回春病院も非ミッション系ですが、彼女自身は信仰に篤かったそうです。
敷地内には聖公会のチャペルが建てられていて、今も礼拝が行われています。
日本で生涯を終えたハンナとエダの遺骨は納骨堂に収められ、チャペルには墓誌が掲げられています。
病者や障害者への差別、人種や身分による差別等々、人間社会には様々な差別があるのですが、それを乗り越えて「ハンセン病者救済」という人道のために生涯をかけたハンナ・リデルは、まさにキリスト者の鑑のような人物であり、私は尊敬しています。