九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

海老名弾正と徳富蘆花 わが熊本が生んだキリスト者たち

台風14号は夜のうちに九州を抜けました。意外なことに、台風が福岡県に上陸したのは観測史上初だそうです。

東日本が影響を受けるのはこれからかも知れませんが、九州の被害はほとんどなく、安心しました。

 

さて9月18日は、第8代同志社総長・海老名弾正(1856-1937)の誕生日、また小説家の徳富蘆花(1868-1927)が亡くなった日です。

二人は義理の従兄弟同士であり、熊本洋学校同志社英学校の先輩後輩の関係でもあります。

わが熊本が育んだ著名なキリスト者の記念日が、偶然同じ日というのも不思議な繋がりです。

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同志社で一番古い建物・彰栄館(筆者撮影)

 

海老名弾正は旧名喜三郎。柳川藩士の家に生まれました。

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海老名弾正(1856-1937)

1873年熊本洋学校に入学。この学校は1871年熊本藩(同年に廃藩置県熊本県)が開いたもので、アメリカから招聘されたL. L. ジェーンズが教師を務めました。

ジェーンズの信仰と熱意ある教育は、廃藩置県でサムライとしての忠誠の対象を失った士族の青年たちに、キリスト教信仰という新たな拠り所を与えました。戊辰戦争で敗れ、賊軍と呼ばれた東北出身の旧士族が、函館で正教会に出会い、藩主に代わる新たな忠誠を教会に捧げたのと相通じるものがあります。

1876年1月30日、洋学校の生徒35名が熊本市の花岡山に集まり、ジェーンズからプロテスタントの洗礼を受けて、教えを日本に広めようとの「奉教趣意書」に署名しました。海老名や徳富蘆花の兄・猪一郎(後の蘇峰)もこのメンバーです。

 

熊本洋学校は同年に閉校されましたが、上記の趣意書に加わっていない者も含む35人ほどが京都に開校されたばかりの同志社に集団転校。彼ら熊本洋学校出身者は「熊本バンド」と呼ばれました。

後に、熊本バンドは札幌バンド、横浜バンドと並ぶ明治日本のプロテスタント三大源流と呼ばれ、わが国のプロテスタント宣教に大きな役割を担いました。

特に熊本バンドの海老名弾正、小崎弘道、宮川経輝の三人は「組合教会の三元老」と呼ばれています。

 

さて、海老名は同志社在学中に群馬県・安中で伝道して安中教会を設立。卒業後は安中教会の正式な牧師となりました。そして1882年に旧熊本藩を代表する学者・横井小楠の娘みや子と結婚しました。

みや子の母・横井つせ子は、蘇峰・蘆花兄弟の母・久子の妹です。彼女らの姉で、海老名に請われて熊本女学校校長となった竹崎順子と、妹で女子学院の初代院長・矢嶋楫子の四姉妹は「四賢婦人」と呼ばれ、熊本を代表する女性の偉人たちです。

私も以前、彼女たちの故郷の益城町にある「四賢婦人記念館」を訪ね、関係資料をいろいろ見てきました。

 

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海老名はその後、群馬・前橋教会と東京・本郷教会を創立。さらに熊本に戻って熊本英学校と上記の熊本女学校を創立しました。

1920年からは8年間、母校・同志社の総長を務め、1936年に亡くなりました。

 

さて、徳富蘆花は本名健次郎。1868年に上記の横井小楠門下の秀才で熊本藩士の徳富一敬の末子として生まれました。後に日本を代表するジャーナリストとなる猪一郎(蘇峰)は5歳上の兄です。

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徳富蘆花(1868-1927)

健次郎は猪一郎や姉の初子のいる熊本洋学校に入学しましたが、すぐに閉校。猪一郎と初子は従妹の横井みや子(後の海老名夫人)と共に同志社に転校し、健次郎も1878年、兄に呼ばれて10歳で同志社に入学しました。ちなみに初子は後に社会事業家として、叔母の矢嶋楫子を助けて女子学院や婦人矯風運動で働いています。

2年後、兄と共に同志社を退学し、父が創立した熊本共立学舎に入学。さらに82年、兄が創立した大江義塾で学びました。

余談ですが、この大江義塾があった旧徳富邸は熊本ハリストス正教会のすぐ近所です。2016年の熊本地震で倒壊し、未だに立入禁止なので、私はまだ見たことがなくて残念に思っています。

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徳富記念園・旧徳富邸(熊本市ホームページより転載)

健次郎は1885年、17歳の時に受洗。この頃から蘆花というペンネームを用いるようになりました。

1888年、『同志社文学』に「孤墳の夕」を載せて作家デビュー。

もっとも彼はフリーランスの作家というよりは、兄・蘇峰が創立した国民新聞(現・東京新聞)に勤めながら、外国文学を翻訳したり自作を連載したりしています。最も有名な作品『不如帰』も国民新聞の連載小説です。

 

花の生涯を調べると、最も影響を与えたのはトルストイです。

彼は1890年に国民新聞に入社後、トルストイの『戦争と平和』を英語で読んで傾倒。さらに96年、蘇峰がヨーロッパに行き、トルストイにも会ったという記録に感銘を受けて、トルストイの伝記を書くに至りました。

1906年、蘆花もヨーロッパを旅行して、念願のトルストイにも会いました。この時の記録を書いた作品が『順礼紀行』です。

彼はさらにトルストイへの思いが高じて1907年に東京・千歳村粕谷(現・世田谷区粕谷)に転居。亡くなる1927年まで20年間も、トルストイにならって半農生活をしました。

蘆花は自宅を「恒春園」と名づけ、亡くなった後も敷地内に葬られました。現在ここは「都立蘆花恒春園」、一般的には「芦花公園」と呼ばれ、蘆花の旧宅や墓もそのまま残っています。

私は東京出身ですが、徳富蘆花のことを知る以前は「芦花公園」はただの駅名で、「駅の周りに公園なんかないのに変だな」などと思っていました。お恥ずかしい限りです。

 

ともあれ、私が熊本県民になったのはたまたまですが、明治大正期の日本の文化・教育界に貢献したキリスト者たちが、この熊本と繋がっていることに誇りと嬉しい気持ちを感じています。