昨日の熊本県内は朝から大雨。
夜に球磨川が氾濫危険水域を超えて緊急避難指示が出され、昨年の悪夢の大水害が再びかも、と不安な一夜を過ごしました。
結局は未明に雨雲が移動し、洪水を免れたので安心しました。
さて一昨日、大村出張の帰りに佐賀に寄ってきました。
「薩長土肥」と呼ばれるように、肥前佐賀藩は薩摩・長州・土佐の各藩と共に明治維新を推進しました。その歴史遺産を見てきたいと思ったからです。
佐賀藩の中心地はもちろん佐賀城です。
1838年に建てられた佐賀城本丸御殿は、2004年に元通りに復元され、佐賀城本丸歴史館としてオープンしました。
江戸時代から残る城門「鯱の門」は国の重要文化財です。
建物も展示物も実に素晴らしいのですが、なんと入館無料です。
旧本丸御殿を建てたのは幕末の名君・鍋島直正。
彼は先代藩主の浪費で破綻寸前だった藩財政を、リストラを断行して再建。さらに藩校・弘道館での厳しい教育と、家柄を問わない能力・成績重視の人事制度で優秀な藩士を登用し、藩の組織を強化しました。成績優秀者を出世させるだけでなく、弘道館での成績不良者はどんなに家柄が良くても御役御免にしたそうです。
さらに西洋の近代的な工業技術の導入を進め、島津斉彬に先んじてわが国初の反射炉製鉄と大砲の製造に成功しました。
イノベーション経営の鑑のような人です。
佐賀藩は長崎の警護を任されるなど、幕府から頼りにされていましたが、鳥羽伏見の戦いの後に幕府を見限り、薩長につきました。近代装備の佐賀軍は「佐賀の兵40人は幕府の兵1000人に匹敵する」と言われており、討幕軍の勝利に貢献しました。
城跡に立つ鍋島直正像は、佐賀藩士だった大隈重信の提唱で1913年に建立されましたが、戦時中の金属供出で失われてしまいました。しかし、2017年に再建されて今に至っています。
さて、大隈重信は私の母校の早稲田大学の創立者ですので、彼の生家の敷地にある大隈重信記念館にも行ってきました。
ちなみに記念館は昭和42年に落成。国の有形文化財です。
また大隈家は身分が低く、武家屋敷のわりには小さな家です。
大隈は明治新政府の要職にあり、後に首相も務めましたが、薩長の藩閥と官僚機構に頼るのではなく、日本初の政党政治家として、自分の主張を民意に訴えていくポリシーでした。弘道館の教育はディベートが中心で、彼はその時に卓越した議論の才能を開花させたのです。学内の乱闘事件で退学になった後は、蘭学塾で英語とヨーロッパの立憲政治制度を学びました。
こうして語学とディベートの力を武器に、彼は家禄が低かったにも関わらず、鍋島直正の能力主義人事の申し子として頭角を現し、後世の活躍に繋がったわけです。
さて、市内の柳町通りには明治から大正にかけてのレトロな建物が並んでおり、佐賀市が「歴史民俗館」として一括管理しています。無料で一般公開されているので、これも見てきました。
今でこそ九州の商工業の中心は福岡県、観光の中心は長崎県に持って行かれて、佐賀は残念ながら影が薄い印象ですが、いま県と市が取り組んでいる歴史遺産の整備は、佐賀の個性をアピールするという意味で良いことです。
私自身も佐賀は大隈重信の出身地ということ以外、あまり知識がなかったのですが、 もっと人々に知られても良い街だと思いました。