九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。2019年から九州全域を担当しています。

シリアの聖エフレムの祈り「兄弟を裁かせないでください」

いよいよ大斎(Great Lent)、つまり4月24日の復活祭を迎える前の7週間の準備期間に入りました。

「大斎初週」、つまり大斎に入って最初の一週間は特に重要で、「大斎初週祈祷」という一連の祈祷が朝から晩まで行われます。

もっとも修道院などとは異なり、人吉のように夫婦でやっているような小教会では終日の祈祷など無理なので、3月7日(月)から11日(金)のウィークデーの5日間だけ、午前10時からと午後5時からの二回に分けてこじんまりと行っています。

 

この動画は7日(月)の早課と一時課(Matin and First Hour)という祈祷です。8つある時課(カトリック教会の聖務日課に相当)の中では夜明けの時間帯の祈祷に当たります。

一連の大斎初週祈祷の最初の祈りとなります。


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早課の中の「三歌経のカノン」という箇所では、二人の誦経者が左右に立って交互に読むように指示されていますが、夫婦だけで祈祷していますので私も「誦経者右」の配役(?)を兼ねています。

また聖歌隊もないので、聖歌が歌われる場面は妻が祈祷書を誦経している場所に私が行き、「二人聖歌隊」状態で歌っています。

こんな旅芸人の二人芝居みたいなスタイルは、大きな教会では考えられないでしょうが、なかなかやり甲斐があります。

 

夕刻に行っている祈祷は晩堂大課(Great Compline)です。

ギリシャ語でアポデイプノン(夕食後)と呼ばれることから分かるように、本来は夜の祈祷です。

大斎初週の晩堂大課は、特別な祈祷文「アンドレイのカノン」を司祭が朗読することが特徴です。

このアンドレイのカノンとは、8世紀のクレタ島の主教だった聖アンドレアスが書いた長い詩です。旧約・新約の両聖書から罪人や救いを求める人などの具体的な人物例を引用し、同じような罪人である自分を憐れんで救ってほしいと神に懇願する内容です。まさに聖書物語のダイジェストのようで、読みごたえがあって私のお気に入りの(?)祈祷文です。


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大斎期間の水曜日と金曜日には、特殊な祈祷である先備聖体礼儀(Liturgy of the Presanctified Gift)が行われます。今日は水曜日なので、これを執り行いました。


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英語の名称から分かるように、「先備」とは「あらかじめ聖変化された捧げもの」という意味です。

聖体礼儀とは、天の父に全人類の罪の赦しを願うためのいけにえとして、十字架上に捧げられたキリストの体と血をいただくための典礼という位置づけです。

そしていわゆる最後の晩餐で、キリストがパンと葡萄酒を弟子に与え、「これはあなた方のために与えられる私の体である…この杯は、あなた方のために流される、私の血による新しい契約である」(ルカ22:19-20)と言ったことから、聖体礼儀においてパンと葡萄酒を捧げ、それが聖霊によって聖変化、つまりキリストの体と血に変化するものと正教会では信じています。

しかし、大斎期間の平日は聖変化を伴う聖体礼儀はできない決まりになっているため、聖体に与る(領聖)ための方策として、直近の日曜日の聖体礼儀で聖変化した聖体を保管しておき、水曜日と金曜日に領聖する仕組みができたのです。これが先備聖体礼儀です。

 

大斎期間の祈祷でさらに特徴的なのは、どの典礼にも必ず「シリアの聖エフレムの祝文」(略称「エフレムの祝文」)という、伏拝(ひれ伏すこと)を伴う祈りが入ることです。

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エフレムの祝文を唱えているところ


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この祈りを唱えたシリアの聖エフレムは4世紀の人物です。

若い頃、わがままで乱暴者だった彼はある時、羊泥棒の疑いをかけられて、無実の罪で投獄されてしまいました。

自分をこんな目に合わせた人々や社会への恨みを募らせていた彼に、ある夜、神のお告げがありました。それは、今の自分の境遇は過去の自分がしてきたことが招いた結果である、だから自分の罪を悔い改めなさい、というものでした。

エフレムは改心し、敬虔なクリスチャンとなりました。すると疑いも晴れて、釈放されました。

そして彼は修道士となり、生涯を祈りと宣教活動に捧げたのです。

 

エフレムの祝文の日本正教会訳では以下のとおりです。読みづらいので常用漢字・現代かな遣いで表記します。

「主、わが命の主宰よ、怠りと悶えと凌ぎとむだごとの心を我に与うるなかれ。

操とへりくだりと堪えと愛の心を我、汝の僕に与えたまえ。

ああ主、王よ、我にわが罪を見、わが兄弟を議せざるを賜え、けだし汝は崇めほめらる。」

この祈祷文で重要なのは三段落目です。英語では "Grant me to see my own errors and not to judge my brother." (私に自分自身の過ちに気づかせ、兄弟を裁かせないでください)となります。

 

直近の「赦罪の主日」の説教で、読まれた福音書の「もし人の過ちを赦すなら、あなた方の天の父もあなた方の過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなた方の父もあなた方の過ちをお赦しにならない」(マタイ6:14-15)に基づき、「なぜ人は他人を赦せないのか」について話しました。

それは「自分は正しくて優れている。間違っていて劣っているのは他人」という、根拠なき確信なのです。

この思い込みは、反省する意思を失わせ、他人の粗探しに気持ちを向かわせることになります。

そういう心情で人と接していたら、憎しみや恨みがエスカレートするばかりで問題の解決に至りません。投獄されたエフレムも、初めはそのような気持ちだったでしょう。

そうではなく、まずは自分自身を振り返ってみて、もし自分に過ちがあったらそれを詫びることで、相手とも和解できるし、相手の非も赦せる気持ちに変化できるのです。

つまり、自分の正しさを主張して相手を屈服させ、変えさせようとするより、「自分は絶対正しい」という根拠なき思い込みを放棄してしまい、自分自身を振り返ってみて悪かった点を抽出し、そして相手よりもまず先に自分を改めてしまう方が、人間関係においてより良い結果をもたらすのではないか、ということです。

赦し合いというのは、あくまでもその結果です。

 

今まさに大きな戦争が起き、それが世界の人々の心の分断を招いているこの時に、「赦し合い」と、その前提の「自分は正しい。優れている」という根拠なき確信を捨てることが、重要性を増しているのではないでしょうか。

シリアの聖エフレムが祈りを通して訴えたように。

この大斎の時期、このエフレムの思いが世界に広がるよう、祈りを重ねていきたいと思っています。