九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

聖なる三日間① 正教会流の受難曲

今度の日曜日は復活祭。今週は受難週間(他教派でいう聖週間)です。

主の受難を記憶する特別な1週間という位置づけですが、とりわけ今日からの三日間はイエスの十字架上の死と葬りを時系列的に振り返る意味で、特に重要な聖なる期間といえます。

 

今日の午前中は、人吉ハリストス正教会で主の晩餐(一般にいう最後の晩餐)を記憶する聖大木曜日の聖体礼儀を執り行いました。

聖大木曜日聖体礼儀・福音書の朗読

そもそも正教会では聖体礼儀、つまりパンと葡萄酒が祈りを通してキリストの体と血に変化し(聖変化)、それを食べる(領聖)という典礼自体が、現代における「主の晩餐」そのものと理解しています。

今日の聖体礼儀ではそれに加えて、「予備聖体」を作るという年に一度の特別な作業があります。

通常の聖体礼儀では聖体血、つまりパンと葡萄酒を残すことは許されず、聖体礼儀が終わったら聖職者が全部食べ尽くさなくてはなりません。

しかし、それでは教会に参祷できない病者などは領聖できないままになってしまいます。もしその人に最期が近づいているなら、より深刻な問題となります。

そこで、教会は主の晩餐の記念日である聖大木曜日の聖体礼儀で聖変化した聖体の一部を保管し、不測の事態に備えるのです。この保管用の聖体が予備聖体です。

 

予備聖体は聖変化したパンを薄くスライスし、同じく聖変化した葡萄酒を染み込ませて、熱して水分を完全に飛ばします。つまり、聖体をラスクにします。

予備聖体をフライパンの上で熱して乾燥させる

 

これを専用の容器に入れて宝座(祭壇)の上に安置し、来年の聖大木曜日まで保管します。そして次の聖大木曜日の聖体礼儀で、前年の予備聖体の残りを聖職者が食べ尽くし、新しい予備聖体と入れ替えるのです。

予備聖体を収めた容器

 

作業としては単純ですが、イコノスタシスの向こう側で行っていることであり、一般の参祷者が見る機会は全くないかと思います。

 

さて、夕刻に再び聖堂に戻り、聖大金曜日の早課を執り行いました。正教会典礼では日にちが変わるのは日没からとしているので、木曜日の晩に行われる祈りは金曜日の典礼ということになります。

 

この祈祷の特徴は、四つの福音書からイエスの受難の関連箇所を取り出して12に分け、司祭が朗読することにあります。これを「十二福音の読み」または「受難十二段福音」と呼びます。

聖大金曜日早課・十二福音の読み

福音書ヨハネ13章31節から19章42節まで、つまりヨハネ伝をベースにし、これにマタイ26章57節から27章66節、マルコ15章16節から47節、ルカ23章32節から49節がそれぞれ分割されて、時系列的に挿入されています。

ストーリーはイエスの逮捕、裁判、十字架刑の執行、死と葬りであり、当然ながら同じ出来事なので四福音書の記述内容もほぼ重複しているのですが、一つの福音書だけでなく四福音書を読むことにより、晩餐での説教(ヨハネ伝)、イエスと他の死刑囚との会話(ルカ伝)、墓の見張りの番兵(マタイ伝)など、一つの福音書にしか記されていないエピソードも網羅されています。つまり、聖書のメッセージをより詳細に伝えているということになります。

 

もちろん、祈祷ではただ漫然と聖書を読み続けているのではなく、十二箇所の朗読の間に祈祷文の誦経(チャント)や聖歌の合唱が挿入されています。そのため、開始から終了まで2時間半近くかかりますが、それだけ念入りに主の受難を参祷者の心に刻み込ませる内容の典礼となっています。

 

さて、西方教会でも古くから受難週間において、受難の物語を典礼の中で朗誦したり歌ったりする伝統がありました。これを総称して受難曲と呼びます。

この受難曲は16世紀の宗教改革以降、ルター派教会でより音楽的な表現が進みました。具体的には従来の定形的な祈祷文から離れた自由な歌詞や、楽器の使用などであり、この結果既存の音楽のジャンルのオラトリオと融合した壮大なものに進化しました。

受難曲自体は多くの作曲家が書いていますが、一番有名なのはJ.S.バッハでしょう。現存するバッハの受難曲作品は「マタイ受難曲」と「ヨハネ受難曲」の二曲だけですが、どちらも大曲です。

 

ちなみに全くの私事ですが、鹿児島国際大学の「ハイルマン合唱団」に入団して、先月マタイ受難曲の演奏会に合唱で出演する機会がありました。合唱だけでなく、ソリストもオケもほぼアマチュアだけだったにしては、かなり良いレベルの演奏だったと思います。


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このバッハのマタイ受難曲はマタイ伝の26章1節から27章66節まで、つまり聖書の本文をエヴァンゲリストと呼ばれるソリスト、台詞にあたる部分を他のソリストと合唱がそれぞれ歌い、さらに重要な箇所にはそれに関連する歌詞(もちろんルター派教会の神学を反映した内容)で、ソリストのアリアと合唱のコラールが挿入されています。

つまり、音楽劇のようなスタイルを取っているとはいえ、決して劇場でのエンタテインメントの楽曲ではなく、教会での祈りを踏襲したものであると私には感じられます。

その意味では、私たちの聖大金曜日の早課も「正教会流の受難曲」といえるかも知れません。さらにいうなら「マタイ」とか「ヨハネ」とか、特定の福音書だけに偏らずに四福音書を網羅している分、より聖書的かも知れないです。

もっとも別のものを比較するのは本来おかしいのですが…

 

ともあれ、まず聖なる三日間の初日が終わりました。

明日は主が十字架上で死に、葬られたこと、明後日は主が墓の中で死から復活へと移行したことを、祈りの中でよりダイレクトに振り返っていきます。