今日は聖大金曜日。イエスが十字架上で死に、葬られたことを記憶する日です。
キリスト教の教義の根本は、永遠に存在する神がいつか死ぬ人間となってこの世に来られ(受肉)、実際に死んで葬られたが(受難)、復活して使徒に姿を現した(復活)ことにあります。そして、これを信じて受け入れる(洗礼)ことで、自分もこの世での死を経て復活し、神とともに永遠の生命に生きられると考えます。
これについてはパウロも書簡に明記しています。
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファ(ペトロ)に現れ、その後十二人に現れたことです」(コリント前15:3-5)
よって、教義の最重要事項であるキリストの復活の記念、すなわち復活祭がキリスト教で最も大切な祭であることは当然の帰結といえます。
しかし、当然ながら復活とはその前に死んでいるから復活なのであり、またキリストが墓の中で復活したということは、その復活の場である墓に納める行為、つまり葬りも必須要件だったということになります。
まさにパウロが「死んだこと、葬られたこと」とわざわざ書いているとおりです。
このことから今日の典礼では、イエスの死と葬りに最大限にフォーカスします。
そのための必須のアイテムが、イエスの遺体を描いたイコン「寝りの聖像」です。
人吉ハリストス正教会では今日、イエスが息を引き取った時刻である15時から聖大金曜日の晩課を執り行いました。
この典礼では宝座(祭壇)の上に置かれた寝りの聖像を司祭が運び出し、聖堂の中央に安置します。
息絶えたイエスを十字架から降ろして横たえたことの象りです。
引き続き16時から、聖大土曜日の早課を執り行いました。
曜日が変わっていることからも分かるように、本来は日没後の祈祷ですが、大変長時間のため(2時間半くらい)、日が暮れてから始めると本当に真っ暗になってしまうので、人吉では上記の聖大金曜日晩課に続けて行っています。
この典礼では、寝りの聖像を司祭がかついで十字行(聖堂の周りを行列すること)をします。聖書にはアリマタヤのヨセフという人物がイエスの屍を引き取り、自分の墓に運んで納めたと記されていますが、これはまさにこのイエスの葬列を象るものです。
ニコライ堂のように複数の司祭がいる教会では、実際に死者の棺をかつぐように4人の司祭で寝りの聖像の四隅を持ちましたが、今は司祭は私一人だけですので荷物を運んでいるようなポーズになっています。
また、今日の人吉は雨だったので聖堂の外を回ることはできず、屋内を一周するだけで終わりました。
このように今日の典礼は、十字架上で死んだイエスの「葬儀」そのものです。
しかし面白いことに、ギリシャ人はこの早課が終わると、復活祭の挨拶「フリストス・アネスティ」(ハリストス復活)と言います(ロシアなど、他の地域の人々にはそういう習慣はないようです)。
どうやら、イエスが死んで葬られたことは終わりではなく「復活のスタート」という考えのようですが、これは正教会の教義としてはむしろ正しいことです。
明日の聖大土曜日の聖体礼儀では、まさにこの「墓の中での死から復活への移行」が象られます。
それについては、明日の祈祷を終えてから書きたいと思います。