今日は鹿児島ハリストス正教会で聖体礼儀を執り行いました。
毎年の教会の典礼のカレンダーは、常に復活大祭(今年は5月2日)が中心となり、その前の7週間の「大斎期間」と、復活大祭後7週間の「五旬祭期」があります。つまり、キリスト教信仰の根幹を成す「主の復活」を中心に、それに備える期間と祝う期間がシンメトリーに配置されているわけです。
そして、その祝う期間の最終日である聖五旬祭(ペンテコステ)の後、「年間」と称する通常モードの教会暦となります。
今日は「年間第一主日」、つまり今年の「年間」の最初の日曜日にあたるのですが、この年間第一主日で全ての聖人を記憶しますので「衆聖人の主日」(Sunday of All Saints)と呼ばれています。
全ての聖人を記憶する日はカトリック教会では「諸聖人の日」、聖公会では「諸聖徒日」と呼ばれ、ともに11月1日です。つまり、毎年日にちが変わらない固定祭日ということになります。
聖五旬祭の次の日曜日を「全ての聖人の記念日」とすることは、キリスト教がローマ帝国で公認された4世紀に、アンティオキアで始まりました。
後の8世紀、ローマ教皇グレゴリオ三世が聖ペトロ大聖堂に全ての聖人を記念する小聖堂を作り、11月1日に祝別(正教会でいう成聖)が行われたことから、カトリック教会でその日が固定祭日となりました。これが東西教会で記念日が異なる理由です。
この「聖人を敬い、記憶する」という伝統的なキリスト教会の習慣について、「人間の神格化であり、真の神への冒涜だ」と批判的に捉える人が少なくないのですが、全く無理解にもほどがあると思っています。「正教会はカトリックみたいにマリヤ信仰ですか」と尋ねてきた人が何人もいましたが、そもそもカトリック教会でも生神女マリヤは聖人であって神ではありません。
キリスト教では、キリストは目に見えない真の神が目に見える人となった方であるのに対して、聖人たちは人間であって神でないと理解しています。ここが日本人の伝統的な「人は死ぬと神仏になる」という感覚とのミスマッチで誤解に至るのでしょう。
聖人とは、突き詰めれば「見える神・キリスト」に倣う生き方を示したと、教会から認証された人ということです。
例えば「亜使徒」は福音を知らない人々に教えを宣べ伝えたこと、「克肖者」は修道によって清貧・従順・貞潔な生涯を送ったこと、「致命者」(殉教者)は十字架につけられたキリストのように、自らも最後まで信仰を貫いたこと…そういった彼らが示した「生き方」が人々の信仰生活の模範となるから、教会はその人を聖人として永遠に記憶し、讃えるということなのです。
もう一つ、教会が聖人に求めていることは「転達」(カトリック教会用語では「とりなし」)です。
聖人は全て、既に死んだ人々です。上記のように、その人の生涯の全てを検証して列聖に相応しいかどうか決めるのですから当然です。ということは、聖人は今生きている私たちよりも「一足早く天国にいる人々」とも言えます。
そこで、信者なら自分が神に祈るのは当然として、同時に天国において永遠の生命に生きている聖人に「私のことを天国で神によろしく伝えてください」「天国で私のために一緒に祈ってください」とお願いすることは、自分自身の祈りを補完できるという考えにつながるわけです。これが転達という概念の意味です。
つまり「聖○○への祈り」は、少なくともその聖人の数だけあることになりますが、それはその人を神格化して信仰の対象にしているのではなく、「転達」を求めて行っているのです。
以上のように、正教会は聖人たちに「キリストに倣う生き方の模範」と「神への転達」を求めて敬い、祈っているのです。このキリスト教会の伝統をしっかり守っていきたいと思っています。