九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

教会はコロナワクチン接種に賛成か反対か

昨日、午後5時に急にスマホが鳴り出し、緊急避難情報が表示されました。これから人吉地方が大雨になるので、高齢者を優先して避難するように、との内容です。

今は雨なんか降っていないのになぜ、と思いましたが、昨年の豪雨災害は未明に発生したため、逃げ遅れた多くの人が犠牲になりました。その教訓から雨が降り出す前、かつ日が沈む前に自主的に避難しなさい、という趣旨のようです。

 

実際、未明から早朝にかけて豪雨となり、数時間で100ミリ以上も降りました。

朝、外を見てみたら、司祭館の前の田んぼの水が溢れて道路が冠水していました。さすがにこの程度では洪水とは言いませんが。

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司祭館の前の田んぼと道路(朝7時半頃)

しかし、一番恐れていた球磨川の氾濫はありませんでしたし、現時点では特に土砂崩れの報道はないようなので、安心しました。

やはり何事も「備えあれば患いなし」です。

 

さて先日、私の管轄教会の信者さんから問い合わせがありました。それは「自分自身はコロナワクチンの接種を希望しないのだが、正教会のコロナワクチンの接種に対する考えはどうなっているか」というものでした。

その信者さんには回答済みですが、コロナワクチン接種は社会の大きな関心事ですので、この問題について書いてみたいと思います。

 

ネットでニュースを検索してみると、信徒数最大の教派であるカトリック教会は、フランシスコ教皇自身が今年1月に接種を受けており、人々にも受けるよう勧めています。

 

一方、アメリカの福音派教会では、根拠が良く理解できないのですが、コロナワクチンに対する疑念を持っていて、接種に反対する牧師や信者が多くいるようです。

 

しかし福音派も含めて、個別の牧師や教会ではなく教派・教団全体の意思として、明確にコロナワクチン接種に反対を表明しているキリスト教会は見当たりませんでした。

 

正教会については、私が調べた限りではどこの総主教庁も、ワクチン接種への賛否を公式に意思表示しているところはありません。

おそらく将来にわたって、しないでしょう。

 

なぜならコロナワクチンに限らず、病気の治療や予防に関することは「医学」、すなわち地上の科学に属することであって、「神学」とは関係がないからです。

エスの時代、あるいはそれ以前の旧約時代に「予防接種」が存在し、聖書が明確にそれを禁じているなら話は別ですが(笑)。

つまり、科学がカバーしているのは「俗」の領域であり、神という「聖」の領域を対象としている教会が介入する事案ではないということです。

 

教会の科学への介入の代表例は、「地動説」を唱えたガリレオカトリック教会から破門されたという事案(しかもそれが解かれたのは1992年…)でしょう。

信者が神や教会自体を否定する、つまり「俗」の側が「聖」に介入した事案とは言えないので、教会が地動説を理由に科学者を迫害するというのは、正教会にいる立場としては行き過ぎに感じられます。カトリック教会の見解は分かりませんが。

そもそも天動説も地動説も、歴史的には「科学の学説」です。聖書には日が昇るとか沈むとかとは書いてありますし、神が天地創造で太陽や月を造ったことも書いてありますが、地球と太陽のどちらが回っているかはどこにも書いてありません。だから教会が扱う神学の命題ですらないのです!

 

このようなわけで、コロナワクチン接種を受けるか受けないかは「神が与えた自由な意思に基づいて、各人が判断すべきであって、教会が決めることではない」というのが「正教会的な答え」と言えるでしょう。

もちろん、世界の正教会にはワクチンに対する否定的な「神学」を持っている人もいる可能性はあります。しかし、私が正教会の意見を代表する立場でないのと同じように、その人も決して正教会の意見は代表できないと考えます。

 

「では神父、あなた自身はワクチンを受けるのか受けないのか」ともし尋ねられたら、現時点で有効な治療薬や予防薬が他にない以上、「私なら受けます」と答えます。

聖書を見ますと、パウロは「あなた方の体は、神からいただいた聖霊が宿って下さる神殿であり、あなた方はもはや自分自身のものではないのです」(コリント前6:19)と書いてあります。これは直接的には性的不品行を戒めた文章ですが、キリスト教の信仰とは、霊も肉も含めたその人の全存在が救いに与ることと考えます。よって精神面だけでなく、神から授かった肉体もまた、病気を避けて健康を維持することは「信仰において」好ましいと言えます。

さらに、聖書に「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)、「神を愛していると言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は兄弟をも愛するべきです。これが神から受けた掟です」(ヨハネ第一4:20-21)とあるように、クリスチャンが最も心がけるべきことは「愛」です。よって、教会内でコロナウイルスの感染防止を心掛けるのは、兄弟姉妹を感染によって苦しめないように配慮するという「隣人愛」の視点に立てば当然のことです。

従って私は自分自身がコロナになったら嫌だという意味ではなく、教会に仕える立場として他の人以上に感染防止を心掛ける義務があり、自分から他人に感染を拡げないための方策として、有効な選択肢にコロナワクチンがあるならば受けることとしたい、と考えているのです。

 

さすがに私は高齢者でも医療従事者でもないので、実際に接種できるのはかなり先でしょう。しかし「備えあれば憂いなし」ですので、接種の機会が巡ってくることを待ちたいと思っています。