いま、ウクライナ情勢が世界の注目を集めています。
昨日、私の管轄の信徒から「ロシアとウクライナが事実上の戦争状態になりましたが、日本正教会にどのような影響がありますか」と問い合わせがありました。つまり、ロシア・ウクライナ二国間問題に対して日本正教会はどう対応するのかという意味でしょう。
私は「日本だろうとどこだろうと、教会は戦争に一切関わることはありません」と回答しました。
正教会の考えでは、教会は聖なる存在であって、政治や軍隊という俗社会に介入することはないし、政治に支配されることも認めません。日本正教会も例外ではありません。
確かに日本正教会の上部組織はロシア正教会(正確にはモスクワ総主教庁)ですが、だからといって正教会はロシア政府の下部組織ではないし、どこかの国家の意思を代弁する機関でもありません。まして組織としての教会が特定の国の軍隊に協力したり、敵国の敗戦を神に祈ることなどあり得ません。
宗教、なかんずくキリスト教会の使命は平和の実現を神に願い、戦争や災害、その他の困難で苦しむ人を助けるだけです。神に造られた同じ人間に敵も味方もないのであり、何より十字架につけられたキリスト自身がそれを示したと考えるからです。
なお、わが国のキリスト教会では「靖国」「憲法九条」「自衛隊」「建国記念日」などの問題に積極的に発言したり、それらに関わるイベントを行ったりしている教派がありますが、これは教会が特定の政治運動に関与しているのと同じことになるので、正教会に属している私自身は違和感を持っています。もちろん個人の思想の自由は当然ですし、信仰も自由ですから他教派の教えに異を唱えることはしません。また私自身も一人の国民の権利として、選挙の投票によって政治に関与しています、しかし、特定の政治的意見を「教会の意思」として表明するのはどうか、ということです。
さて、今日は天皇誕生日です。
日本国憲法第一条には「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基づく」と明記されています。
私自身もその日本国民の一人ですので、わが国の象徴である天皇陛下や皇室を当然のこととして敬っています。
また、上皇后陛下は私の妻の母校の大先輩であり、妻が大学時代に所属していた合唱団のコンサートを聴きに皇太子(現上皇)ご夫妻がお出ましになるのも常でした。ちなみに妻は東宮御所に招待券をお届けする役目でした。もちろん、彼女とつき合っていた当時の私も会場にいて、ご夫妻のお姿を何度もお見掛けしました。そんな個人的理由もあって現上皇ご夫妻や、その子である今上陛下ご夫妻には親しみの念を持っています。
日本正教会の祈祷文では、連祷という祈りの中に必ず「わが国の天皇および国を司る者のために禱る」という文言が入っています。
私自身はカトリックからの改宗者ですが、カトリックのミサでは教皇のために祈っても天皇のために祈るとは言わないので、正教会の祈祷に初めて参加してこの文言を聞いた時は本当に驚きました。
当時の私は「クリスチャンは天皇が嫌いな人の集まり」のようなうがった見方をしており、また「教会がこんな天皇陛下万歳みたいな、軍国主義的なことを言っていいのか」とも思って、いわゆる「ドン引き」の心境だったのです。
しかし、後でこの正教会の「元首への祈り」の真意を知り、いかに自分が斜に構えていたかと、不明をただただ恥じ入りました。
正教会はどこでも、その教会のある国の元首のために祈ります。
帝政時代のロシアや、今日ではギリシャなど、元首が正教徒であり、かつ正教会が国民のアイデンティティと一致している国なら、それは当然かも知れません。
しかし、アメリカの教会は大統領、英国の教会は女王のために祈ります。アメリカ大統領も英国女王も正教徒でないにも関わらずです。わが国でも天皇陛下は正教徒ではありませんから、全く同じ理屈となります。
さらにはロシア正教会駐日ポドヴォリエ、つまり日本国内にあるロシア正教会ではインペラートル・ヤポンスキー、つまり天皇陛下のためにも祈ります。信者のアイデンティティが属する国だけではなく、その教会のある国の元首のためにも祈るのですから、いわゆるナショナリズムとは関係ないことになります。
この根拠は、使徒パウロがテモテに宛てた手紙の中にはっきり書いています。
「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とを全ての人々のために捧げなさい。王たちや全ての高官のためにも捧げなさい。私たちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです」(テモテ前2:1-2)
つまり、平和を求めるとは単なる理想論ではなく、現実の社会が戦争やその他の混乱のないものとなってこそ、私たちも信仰生活を守れるということです。そのために為政者自身の宗教が何だろうと、社会を正しくマネージメントし、安全を保障してくれるように、私たちが神の導きを祈るというのが、パウロの言葉の意味です。
「それならパウロの言葉は体制迎合主義じゃないか」と言われるかもしれませんが、それは違います。なぜならパウロ自身が体制側の人間ではなく、むしろローマ当局から迫害され、最後は暴君ネロ帝に処刑された「体制の犠牲者」だからです。
正教会の歴史は異教徒、さらには無神論者による支配と迫害の歴史です。しかし、コンスタンチノープルを攻め落とし、アヤソフィヤ大聖堂をモスクにしたオスマン帝国のスルタンのためにも、革命で教会を破壊し、何百万人もの信者を粛清したソ連政府のためにも、当時の正教会は祈ってきました。
わが国でも昭和の軍国主義体制において、キリスト教会は西洋の宗教ということで迫害されました。日本正教会も例外ではなく、ソ連国籍だったセルギイ府主教は教団代表を追われ、スパイの嫌疑で酷い扱いを受けて落命しました。しかし日本正教会は天皇陛下のために祈ったのであり、加持祈祷のように天皇や軍を呪詛し、神罰を願ったことは決してありません。
そもそもキリストは、迫害者と戦って攻め滅ぼせと言ったでしょうか。そうではなく「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と言っています。
また、キリストは逮捕される時、追手に剣を向けたペトロに言いました。「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は剣で滅びる。私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐにでも送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」(マタイ26:52-54)。
さらに十字架につけられてもなお、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と、天の父に祈っています。
だからキリスト者はキリストにならい、聖書の教えを守る。それを正教会は忠実に実行してきただけです。
正教会は決して体制翼賛組織でも、社会に無関心な日和見主義なのでもありません。教会の務めは政治活動ではなく、全能の神への祈りなのであり、それによって社会と関わっているのです。
天皇誕生日にあたり、天皇陛下の弥栄をお祈りするとともに、日本国を司っている人々が正しいまつりごとを行うように、そして世界の紛争と人権侵害に苦しむ人々が救われるように(戦争が起きているのはウクライナだけではない)、全能の神に祈っています。