九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

正教勝利の主日

今朝の人吉の最低気温は0.1℃。しかし日中の最高気温は20℃を超えました。

あまりにも寒暖差が激しくて、朝は暖房をガンガン焚いているのに、昼間は車の中が暑くて冷房を入れています。

ただ、季節は春に向かって駆け足で進んでいるようで、桜の開花予報もずいぶん早まりました。昨年同様、春分の頃には開花の見込みです。

 

さて、季節が冬から春に向かうこの時期、教会の方も復活祭に向けての大斎の時期に入っています。

一昨日の日曜日は熊本ハリストス正教会に巡回しました。

 

この日は大斎に入って最初の日曜日ですが、正教会では「正教勝利の主日」(Sunday of Orthodoxy)と呼んでいます。

これは843年の大斎第一日曜日に、当時のビザンチン帝国の最高指導者・テオドラ皇太后が、イコノクラスムの撤回を宣言したことを記念するものです。

正教勝利の主日 聖体礼儀


www.youtube.com

 

730年に当時の皇帝レオン3世が、イコンの崇敬を偶像崇拝とみなしてこれを禁止する勅令「聖像禁止令」を出しました。これがきっかけで、ビザンチン帝国内でイコンを破壊する運動、イコノクラスムが起こりました。

教会内でもイコン擁護派と破壊派が対立し、論争が続きました。

そのため、キリスト教ではイコンをどう理解するのか、守るべきかそれとも廃するべきか、神学的な結論を出すため、787年に第7全地公会(The Seventh Ecumenical Counsel)と呼ばれる教会会議が開催されました。

そして論争の末、イコンはそれ自体を神として拝むためのものではなく、そこに描かれた原像(キリストや聖人、聖書の場面など)を思い出すために教会が伝統として守ってきたツールであり、偶像には該当しないとの結論に至りました。

 

この公会の決議に影響を与えたのは、イコンを擁護してレオン3世に抵抗したダマスコのヨハネ(676頃-749)の神学です。

ダマスコのヨハネ

彼の神学を要約すると「イエス・キリストは目に見えない神が目に見える人間となってこの世に来られた方であり、それを見て信じる者が救いに招かれているというのが教会の教えである。つまりキリストご自身が神のイコンなのだから、イコンを否定するのは矛盾している」というものです。

 

この全地公会の決議は、国家の最高権力者である皇帝の命令に対して、きちんと根拠を明示した上で反論したものであり、いわば「信仰は権力に屈しない」ことを証ししたものといえます。

もちろん国の側も一度出したお触れを引っ込めることはできず、イコノクラスムは継続しましたが、公会から60年近く経ってようやくテオドラ皇太后が国の誤りを認め、聖像禁止令を撤回したことで、「正統なキリスト教の教義(=正教)が権力に勝利した」というわけです。

 

ちなみに昨年の正教勝利の主日は3月13日。ロシアのウクライナ侵攻から2週間ほど経った時期でした。

その時にも「信仰は権力に屈しない」と書いているのですが、1年経っても未だにこの邪悪な侵略戦争が収まる気配がないことに心が痛むばかりです。

 

frgregory.hatenablog.com

 

一部の教会指導者が今もなお、この戦争がロシアにとって正しいものであるかのような発言をしてはばからないのですが、これは戦争を遂行しようとする国家権力を翼賛するものに他なりません。

そもそもロシアだろうと他のどの国だろうと、戦争を起こすことは国家の利益のために人が人を殺すものであり、それは聖書に記されたキリストの教えに背く行いだと私は以前から言い続けています。

そして教会はキリストの教えを正しく伝えるべき存在であって、権力者のイエスマンになってはなりません。それは上記の第7全地公会の理念に反するものであり、教会として自殺行為になってしまうからです。

 

たまたまニコライ堂の信徒がSNSに、同じ正教勝利の日に行われた月例パニヒダ(その月に永眠した信徒を記憶する合同パニヒダ)の中で、「ウクライナにおける不義の戦禍に傷つけ倒れしウクライナの人々のために祈る」という文言が追加されたと書いていたのを目にしました。

ニコライ堂日本正教会の本部ですから、これはこの度の戦争を「不当なもの」と考え、その犠牲になった「(ロシアではなく)ウクライナの人々のために」祈ることが日本正教会の意思だと表明しているといえるでしょう。少なくともロシアが正しい、戦争が正しいと言っている指導者には異を唱えていることになります。常識的で当たり前のことではあるのですが。

それならそうと、地方の教会にも伝達してもらいたいものだとは思いますが、こちらは以前からウクライナの人々のために祈っているので、私の気持ちは何も変わりません。

言えることは繰り返しになりますが、教会は権力に屈したりおもねったりすることなく、キリストの教えを実践するためにあるのであり、私もその一員として、今後も苦しんでいるウクライナの方たちのために祈り、助けたいと思っています。