昨日は鹿児島ハリストス正教会で断肉の主日(Meat Fare Sunday)の聖体礼儀を執り行いました。
今年の正教会の復活祭は4月24日ですが、そのための約7週間の準備期間として3月7日(正確には3月6日の日没)から大斎に入ります。
キリスト教古来の習慣、また正教会では今でも守られている習慣として、大斎では動物性食品の摂取を避けるのですが、肉だけは一週間前倒しで2月27日の日没から禁食となります。断肉の主日という名称は、「この日までに肉を食べ尽くし、以後復活祭まで肉を断つ」という意味でつけられています。
また一週間後に大斎が始まるにあたって、最後の審判(マタイ25:31-46)について考える日曜日でもあります。そのため、審判の主日(Sunday of Judgement)という名称でも呼ばれます。
このベースとなっているマタイ伝25章の記述では、審判者の王が人間を右と左、つまり天国に行く人と地獄に落ちる人を仕分けます。
死後の世界に天国と地獄があるというのは、多くの宗教に見られる教義ですが、概ねそれは「生前に良いことをした人は『ご褒美』で天国に行って楽しい思いをする。悪いことをした人は『罰』として地獄に落ちて苦しい思いをする」と理解されます。
確かに聖書の他の箇所には「時が来ると、墓の中にいる者は人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出てくるのだ」(ヨハネ5:28-29)と書いてありますので、キリスト教でもその人の生前の行い、というより生き方そのものが天国と地獄を分ける要素になっていることは明らかです。
しかし、そこには「天国はご褒美、地獄は罰」とは書かれていないことに注意する必要があります。
マタイ伝の記述では、天国行きの人々に王は「天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」(マタイ25:34)と言っています。
天地創造の時に人(アダムとエヴァ)のために用意されていた場所とはいわゆるエデンの園と呼ばれる「楽園」です。
つまり、創世記に「(全ての造られたものは)極めて良かった」(創世1:31)とあるように、人間は善なるものとして造られ、本来の「居場所」として天国がちゃんと用意してあると考えます。
アダムとエヴァは神から授かっている「自由な意思」に基づいて「善悪を知る木からは決して食べてはならない」(創世2:17)という誡めに背きました。これをキリスト教では「罪」と定義します。
この罪のため、人は楽園にいることができなくなり、永遠の生命を喪失しました。
罪の原因が「自由な意思に基づく神からの離反」であるならば、人間はその自由な意思で再び神に回帰することも可能であると正教会は考えます。アダムとエヴァ以来、人間は罪を持って生まれてくるとは考えません。(いわゆる原罪という考え方は西方神学独自の教義です)
この自分の意思に基づく神への回帰が「信仰」です。
神に回帰したのだから、楽園を追い出される理由もなくなるのですが、ここで神が私たちに課している誡めは「隣人愛」であるというのが、キリスト教の考えです。
神は人間を愛して、信仰を通して再び神に立ち帰った者を受け入れているのだから、神を信じる、神を愛するというなら人間の側も互いに愛し合いなさい、というロジックです。
マタイ伝25章には、天国行きの人々の判定基準として「私が飢えている時に食べさせ、渇いていた時に飲ませ、旅していた時に宿らせ、裸の時に着せ、病の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれた」(マタイ25:35-36)、「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ25:40)と書いてあります。
つまり、隣人愛の実行はすなわち神への愛と同義なので、「人間の本来の行き場所」である天国へどうぞ、ということになります。
一方、地獄行きに判定された人々には、上記の逆パターンで「お前たちは私が飢えている時に食べさせず、渇いている時に飲ませず(以下略)」(マタイ25:41)と書かれています。
つまり、何の悪事をしたかが問題ではなく、それ以前に他者への隣人愛の欠如が問題だというわけです。
以上の最後の審判に関する記事から、私たちクリスチャンに求められている価値基準なり行動指針なりは、細かな掟の行動をしたかしないかではなく、「隣人愛」の一本に絞られていると言えます。
つくづく、キリスト教はシンプルな教えだなあと思っています。
さて先週の木曜日、2月24日にロシアのウクライナへの侵攻が始まりました。
私の管区にはロシア人の信徒もウクライナ人の信徒もいますので、彼らの祖国同士が戦争となり、コミュニティが分断されるのは、私も身を裂かれるように悲しいです。
今回の開戦以後、よく「日本正教会って、モスクワ総主教がトップだからやっぱロシア寄りですか」と言われたりします。
アホですか、と言いたいです。教会は政治結社ではありません。
この戦争について言えば、「ロシアの勝利・ウクライナの敗北」を願っても「ウクライナの勝利・ロシアの敗北」を願っても、どちらを選んでも間接的に戦争に加わることになります。ですから教会はロシア政府の味方もウクライナ政府の味方もしません。
真の教会の敵はどこの国がどうではなく「戦争」です。なぜなら、戦争は突き詰めれば自己の利益のために他者を暴力で支配しようとする行為であり、「隣人愛の欠如」そのものだからです。
今回のロシア=ウクライナ戦争にあたり、私が気にしているのは次の三つです。
一つ目は「ウクライナの市民が苦しんでいるのはもちろんだが、戦争に関わっていないロシアの市民も社会生活において苦しむことになる」ということです。つまり、戦争は交戦国の双方において、善意の人々が苦痛を強いられる結果をもたらすのです。
どうも世論は「ウクライナは善・ロシアは悪」という単純な二元論がはびこっている印象なのですが、戦争で苦しんでいる人を選別するのはおかしな話であり、救いは公平でなくてはなりません。
二つ目は上記の延長で「戦争が悪いのであって、ロシア人が悪いのではない」ということです。
先日の私の講演「イスラームと正教会」で、度重なるイスラム系過激派のテロのせいで、欧米社会で善良なムスリムの一般市民がいわれなき差別と迫害を受けている。クリスチャンは相手を理解し、愛するように努めるべきであって、決してヘイトクライムなどしてはならない、という趣旨の話をしました。
まさに、「ロシアは悪」という印象だけで、各地に住んでいるロシア人が何も悪いことをしていないのに、ロシア国籍というだけでヘイトクライムを受けるのではないかと心配しています。
正義と戦争反対を叫びながら、罪のない人々にヘイトクライムを行うのは、「自分も実質的に戦争に加担する矛盾」であり、偽善的ですらあります。
戦争に反対するなら、そういう感情論に基づく理不尽な差別にも反対しなくてはなりません。
三つ目は「いま戦争やテロで理不尽に人が殺されているのはウクライナだけではない」ということです。
マスコミはまるで報道しなくなりましたが、シリアでは未だにISが戦闘を続けています。アフガニスタンも混乱の最中です。パレスチナでのイスラエル軍とパレスチナ人の戦いは一向に終わることがありません。
今回のロシアの侵攻に対して、バイデン米大統領は「力による現状の変更は認められない」と言っています。それはまさに正論であり、異論があるはずもないのですが、かつてアフガニスタンとイラクに大軍を送って当時の政権を転覆させたのはどこの国ですか、と尋ねたくもなります。もちろん皮肉ですが。
言いたいことは、ロシアだろうと他の国だろうと「戦争そのもの」を行うのが悪である以上、その戦争で苦しんでいる人がどこにいるのか、世界的規模で目を向けなくてはならないということです。繰り返しになりますが、戦争で苦しむ人を国や人種で選別するのはおかしいです。神に造られた、同じ人間なのですから。
聖書を信じる以上、戦争という「隣人愛の欠如」を主導した者は、神が裁くに決まっていますから、私が裁く必要はありません。
むしろ戦争と人権侵害で苦しむ世界の人々のために祈り、さらに苦しむ人々を助けるためにはどうしたらいいかを模索しています。それが神が求めている「隣人愛」の実践だと思うからです。
実際、私が住む人吉は戦争ではないものの、一昨年の豪雨災害で壊滅的に破壊されましたが、復興の過程において多くの方たちの愛に支えられて今も生活できています。つまり「隣人愛」の示す力をただのスローガンではなく、現実のものとして実感しています。
何度でも言います。教会は戦争に反対です。