九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。2019年から九州全域を担当しています。

生神女福音祭 そもそも「福音」って何?

私の住む人吉では、日中の気温は連日20℃を超え、桜もほとんど散ってしまいました。
教会の敷地に勝手に生えている菜の花もすくすく成長し、雑草のレベルを通り越してちょっとした茂みのようになっています。第三者的に花を眺めている分には良いかもしれませんが、これから連日草刈りに忙殺されるかと思うと少し憂鬱です。

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人吉教会の境内に自生する菜の花

ともあれ、つい一か月前までの連日氷点下の状態から、春の「喜ばしい知らせ」に辺り一面が満ち溢れています。

 

さて本日、4月7日(ユリウス暦の3月25日)は生神女福音祭です。

正教会では復活祭に次ぐ大きな12の祭「十二大祭」の一つです。ちなみに降誕祭も十二大祭の一つであり、この生神女福音祭と同格です。つまり、生神女福音は教会において、いかに重要な出来事として位置づけられているかということです。

日本正教会には生神女福音を記念する聖堂が何か所もあります。わが西日本教区では、教区事務局の京都教会が生神女福音聖堂です。

つまり、それらの教会では今日が堂祭、つまり教会の記念日ということになります。

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京都ハリストス正教会生神女福音聖堂(国重要文化財

 

生神女福音とは、マリヤのもとに天使ガブリエルが訪れ、神の子を身籠っていると告げた出来事です。わが国では一般に「受胎告知」という訳語が充てられています。

西洋絵画の題材としても、よく用いられています。

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レオナルド・ダ・ヴィンチ「受胎告知」

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エル・グレコ「受胎告知」

正教会でこれを生神女への福音、つまり「良い知らせ」(ギリシャ語でエヴァンゲリモス)と呼ぶのは、単なる妊娠の事実の告知以上に、マリヤを通して神が人となって生まれてくること自体が、全人類の救いの実現の第一歩という意味で「良い知らせ」だからです。

 

「福音」という用語は、どうしても「新約聖書の中の福音書に記された、イエスが語った言葉」という意味で限定的にとらえる人が多いのですが、そうではなく「目に見えない神が人となってこの世に来られ、人類の罪をあがなうために十字架上で死に、復活したこと」、つまりイエス・キリストのこの世での生涯(公生涯)自体が「良い知らせ=福音」である、というのが正しい理解です。

これについては使徒パウロが「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。(中略)キリストが聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファ(ペトロ)に現れ、その後十二人に現れたことです」(コリント前15:1, 3-5)と書いているとおりです。

 

この意味で正教会では「最初の福音」である生神女福音の出来事を重視しているわけですが、それが反映されているのは聖堂のイコノスタシスに描かれるイコンの構図です。

イコノスタシスとは、宝座(祭壇)があって司祭が奉事するスペース「至聖所」と、信徒がいるスペース「聖所」との間にある板壁です。至聖所を「天=神の領域」、聖所を「地=人の領域」、イコノスタシスはその境界線に象徴化しているわけです。

そしてイコノスタシスの中央には両開きの扉「王門」があり、祈祷の重要な場面、例えば福音書の朗読や信徒領聖(信徒に聖体を授けること)などの時に開かれます。つまり、ここで天と地、神と人とが繋がりましたよ、ということを視覚に訴えているのです。

この王門には必ず、生神女福音のマリヤとガブリエル、四人の福音記者、すなわちマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの、計6枚のイコンを描くのが全正教会共通の決まりです。まさに、天と地を繋ぐものは、他でもないキリストの「福音」であることを示すものです。

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人吉ハリストス正教会の王門

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王門の生神女福音のイコン

ちなみに、人吉ハリストス正教会生神女庇護の奇蹟を記念する「生神女庇護聖堂」であり、いわば生神女マリヤに捧げられた聖堂です。そのためイコノスタスにも生神女を記念する祭のイコンがたくさん描かれています。

生神女福音のイコンも、王門とは別に独立して描かれています。

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人吉ハリストス正教会のイコノスタシス。
生神女福音のイコンは一番右上

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イコン「生神女福音」(拡大)

 

さて、今日は喜ばしい春の祭日なのに、ウクライナでは市民の凄惨な虐殺の実態が明らかになっています。

ロシア軍のしわざだ、いや、あれはウクライナ軍がやったという議論がかまびすしく繰り広げられているのですが、私に言わせればそのような堂々巡りの「悪口の応酬」など、しょせん安全な場所にいる人々が机上でやっていることであって、今起きている問題の解決には何の役にも立っていません。

問題はただ一つ、「罪なき市民、それも同じ正教会の信者が、今も理不尽に命を奪われている事実」だけです。これはキリストが人類の罪のために十字架につけられたことを無効化するに等しい、つまり「福音の否定」であり、正教徒の一人として看過できません。

いま激戦が行われ、従ってこれまで判明した以上の市民の犠牲が予想されるのはマリウポリという都市です。

マリウポリという地名はウクライナ語でもロシア語でもなく、ギリシャ語で「マリヤの街」という意味です。

キエフ=ルーシがキリスト教を受け入れた、つまり今日のロシア正教会が始まったのは、イエスの時代から1000年近く経った10世紀末ですが、黒海沿岸地域には古くからギリシャ人が住み、初代教会時代からキリスト教信仰が根づいていたことがこの地名に示されています。

生神女マリヤの記念日である今日この日、マリヤの取り次ぎによって平和実現への願いが神に届けられ、また理不尽に世を去らなければならなった人々のたましいが、恐怖も悲しみも嘆きもない天において慰められるように祈っています。