26日(火)から二泊三日で長崎に行っていました。
復活祭後の廻家祈祷(信徒訪問)に合わせて、現地で原爆の遺構を見て来ようと思ったからです。
26日の九州は終日、まるで台風のような大雨と強風でした。
そのため、熊本から島原へ行くフェリーが欠航になってしまい、人吉から長崎まで4時間近く運転するはめになりました…
この日は雨でも立ち寄れる屋内の施設ということで、翌日行くつもりだった浦上の原爆資料館を訪れました。
原爆で被災した物品や、街の写真(遺体を含む)がたくさん展示されています。
原爆の模型を見ると数メートルの大きさがありますが、中に搭載されている核弾頭は野球のボール大です。そんな小さな核物質が8万人近い長崎市民の命を奪い、今も後遺症に苦しむ人々を生み出したことに愕然とします。
トルーマン大統領(当時)が原爆投下を決定した理由は、日本の早期降伏を実現するために最も費用対効果の高い手段であり、これによって本土上陸作戦によって予想される米兵の戦死者を解消できる最善の作戦だからということでした。しかしそのために戦闘員ではなく、罪なき一般市民を何万人も殺戮することがなぜ最善なのか、戦争相手の人間は人間ではないのか、疑問に思います。
翌朝は好天になったので、浦上を再訪。空き時間に爆心地公園と平和公園を歩きました。
爆心地公園には、倒壊した浦上天主堂の残骸が移築されています。
平和祈念像の前には当時の社会主義諸国から寄贈された石像が並んでいます。ソ連から贈られた像もありました。
ソ連は冷戦下で米国と核開発競争を続け、今も(正確にはソ連でなくロシアですが)核兵器保有を後ろ盾に侵略戦争をしています。
この像は茶番なのか。そう思うと釈然としませんでした。
平和公園の近くの浦上天主堂は、被爆前は東洋一の大聖堂とうたわれましたが、原爆で倒壊しました。
聖堂の前には被爆した当時の石像が建てられています。
石像の脇の石段を下りると、爆風で倒壊し、斜面を転がり落ちた鐘楼の残骸が原爆遺構として残っています。
立派な信徒会館を入ると、入口のロビーには被爆した教会の聖器物などが展示されています。
キリスト教徒が多数派の国のアメリカが、大聖堂の真上に原爆を落とし、それで多くの長崎のキリスト教徒が死んだ…これを神への挑戦と言わずして何と言うのでしょうか。
28日はフェリーに乗るために長崎から島原へ向かいました。
島原は戦国時代、キリシタン大名の有馬氏の所領であり、同じキリシタン大名・小西行長の所領だった対岸の天草と並んで、多くのカトリック信徒が住んでいました。
また、徳川幕府からの独立を目指して挙兵した島原の乱とその後の迫害で、多くのキリシタンが虐殺された地でもあります。
そこで、フェリーの出航時刻まで余裕があったので、島原城に行ってキリシタン関連の展示史料を見ることにしました。
展示物はたくさんあり、特に隠れキリシタンが密かに拝んでいたマリア観音はいろいろなものが展示されていて、圧倒されます。
徳川幕府のキリシタン禁制は、豊臣秀吉の伴天連追放令を踏襲したもので、スペインやポルトガルの植民地化を未然防止するために、彼らによるカトリックの宣教を禁止するものです。しかし、それなら外国人の入国を禁じる、つまり鎖国政策だけで良いはずです。
つまるところキリシタン禁制は、日本人の権力者が日本人の庶民を統制・弾圧することが目的化してしまい、本来の趣旨が変質してしまったのです。
しかし、これは徳川幕府だけの特殊事例ではありません。国家権力が国民を統制・弾圧することは、自由主義や民主主義の概念が定着しているはずの今日の現代社会でも、世界中で起きています。
戦争であれ、圧政であれ、愛と徳ではなく破壊と暴力で人を従わせることは、キリストの教えに完全に反することですから、キリスト者である私には到底容認できません。
しかし、自分自身が暴力で、あるいは暴力は振るわないまでも悪口や意地悪で、それに対抗することは、自分も戦闘に加担することになります。つまり、自分も彼らと一緒になってしまいます。
つまり、キリスト教司祭である私にするべきことは、愛をもって苦しむ人々に接し、救うことしかないと考えます。
九州に来ているウクライナ避難民をはじめ、周囲にいるそういった弱者に、今できることをして行こうと、改めて心に思いました。