4月24日以降、毎週日曜日は九州各地の教会を巡回して復活祭の祈祷を行っています。
明日はホームグラウンド(?)の人吉教会での復活祭です。
連休で出張している間に雑草が猛烈な勢いで伸び、復活祭の開式の十字行(聖堂の周囲を行列すること)にも支障をきたすくらいになってしまいました。駐車スペースもなさそうです。
そこで今朝から妻と人吉教会に行き、私は草刈り、妻は聖堂と集会室の掃除に専念して、明日の復活祭に備えました。
さて本日、5月7日はブラームス(1833-1897)とチャイコフスキー(1840-1893)の誕生日です。二人とも私の好きな作曲家です。
後期ロマン派を代表するこの二人が、生年は違えど同じ誕生日というのは面白い偶然だと思います。
2月24日のロシア軍のウクライナ侵攻以降、ロシア(ソ連を含む)の作曲家の作品演奏を取り止めるというおかしな傾向が世界的に広まっているようです。
そもそも音楽に罪はないし、その作曲家の存命中にウクライナは独立国でなく、プーチン氏もロシア大統領でないのだから、作曲者にも罪はありません。批判の方向がおかしいです。
最も槍玉に上がっているのはチャイコフスキー作曲の序曲「1812年」です。ロシアの戦勝を高らかに祝う曲だから、というのがその理由のようです。
しかし、この曲で祝っている勝利とはロシアから他国への侵略戦争ではなく、1812年の祖国戦争の勝利、すなわちナポレオンの侵略をロシアの人々が撃退した出来事です。ちなみにその主戦場は現在のウクライナ地方です。侵略者への勝利というテーマなら、むしろ時宜に適っているとさえ、私は思っているのですが。
曲の最後のコーダで金管楽器が奏でているのは帝政ロシアの国歌のメロディーであり、今のロシア国歌のメロディー(ソ連時代と同じ曲)ではありません。皮肉なことにソ連時代は帝政時代への忌避感から、コーダからロシア国歌のメロディーを省いて演奏されていたくらいです。
つくづく短絡的で浅慮な同調圧力は社会の害だなと思います。
さらに付け加えるなら、チャイコフスキー自身はロシアのウラル地方で生まれたものの、ルーツはウクライナにあります。あまり知られていないようですが。
彼の家系はウクライナのコサックに連なるものであり、姓も「かもめ」を意味する「チャイカ」でした。ロシア風の「チャイコフスキー」という姓は、19世紀に彼の祖父が改姓したものです。
彼は自分のルーツのあるウクライナ民謡のメロディーにインスパイアされていたようで、自身の作品に多く取り入れています。
彼の「ピアノ協奏曲第一番」は「白鳥の湖」などと並んで最も有名な作品の一つですが、第一楽章の第一主題(開始から4分後くらいからの軽く飛び跳ねるような旋律)と第三楽章の旋律はウクライナ民謡から採られたものです。
また、彼の若い時の作品「交響曲第二番」は、妹の嫁ぎ先であるウクライナ・カーミャンカの貴族、ダヴィドフ家に滞在して書かれました。彼はダヴィドフ邸で他にも作品を書いています。
第一、第三、第四楽章の旋律はそれぞれウクライナ民謡から採られています。そのため、当時の著名な音楽評論家ニコライ・カシュキンがこの曲を「小ロシア」(マロルスカヤ)と呼んだことから、それが今日でも愛称となっています。
ちなみに小ロシアとは、13世紀にタタールのくびき、すなわちモンゴルのロシア侵攻が起き、それまでキエフを中心に栄えていたルーシ社会が北方と西方、つまり今日のロシア北部地方とウクライナ西部地方とに分かれてしまったことに由来します。
この時、正教会の管区として前者を「大ロシア」、後者を「小ロシア」と呼びました。つまり本来、地名というよりは教会用語です。この大小とはもちろん優劣ではなく、面積の大小という意味です。
14世紀以降、モンゴルの勢力が撤退してからは、小ロシア地方はリトアニア領、後にポーランド領となりました。しかし18世紀の終わりから19世紀初めにかけて、帝政ロシアがポーランドを併合したことに伴い、ウクライナもロシア領となりました。
以後、「小ロシア」は帝政時代のロシア人がウクライナに対して使う蔑称になってしまいました。よって今日では使うことのできない言葉です。チャイコフスキー作品の愛称としてなら許されているところが面白いですが。
またチャイコフスキーはウクライナではカーミャンカの他、トロスチャネッツという村を気に入り、そこにもよく滞在して作曲していました。この村は今のロシアとの国境のすぐ近くです。
そこにあったチャイコフスキーの家が、この度のロシア軍の侵攻直後に、砲撃で無残に壊されてしまったと報じられていました。
VIDEO: Where Tchaikovsky lived, Russia leaves behind death and hunger.
— AFP News Agency (@AFP) 2022年3月31日
Tchaikovsky, Russia’s most famous composer, once called Trostyanets home. Now the town in northeast Ukraine, like his old house, lies in ruins as residents count the cost of a month of Russian occupation pic.twitter.com/UhOAVRCTkp
そもそもチャイコフスキーはロシアにとっても代表的な歴史的人物のはずでしょう。ロシアがドーピング問題で、オリンピックに国として参加できなくなり、表彰式で国歌の代わりに演奏されたのは前出の「ピアノ協奏曲第一番」の冒頭部分でした。
そのチャイコフスキーの家に砲弾を撃ち込んだのですから、ロシア軍は祖国のために戦うと言っていながら、実際は破壊行為自体が目的であって肝心の祖国へのリスペクトはないという、実に馬鹿げた事態となっています。
ロシアの側からも反ロシアの側からもケチをつけられて、チャイコフスキーは今、あの世でどう思っているだろうか。そう思うと残念でなりません。
それもこれも、この度の何の大義も見出せない戦争に原因があるのですから、一刻も早い平和の実現をただ祈るばかりです。