11月4日(月)、愛媛県の松山に出張しました。
市内の松山ロシア兵墓地でのパニヒダ(慰霊の祈祷)に陪祷するためです。
日露戦争中、日本各地にロシア軍捕虜の収容所が造られましたが、その中で最大規模だったのが松山捕虜収容所です。
延べ6千人の捕虜が松山に送られ、最大時には4千人がいたそうです。
当時の日本軍は国際法を遵守し、捕虜をきわめて人道的に扱いました。収容所は外出自由で、捕虜たちは温泉や観劇を楽しめました。
司馬遼太郎『坂の上の雲』には、ロシア側にこのことが知られ、投降することを「マツヤマ」と呼ぶようになり、兵たちは「マツヤマ、マツヤマ」と叫んで日本軍の陣地に走った、と書かれています。
つまりロシア軍の部隊で戦わされるより、日本軍に捕まった方がよほど良かったということでしょう。
しかし捕虜になるということは、重傷を負っていた者も相当おり、うち98名が松山で死亡しました。
彼らは松山市内に葬られ、今も「ロシア兵墓地保存会」と、地元の中学校の生徒のボランティア活動によって墓地が維持されています。
また40年ほど前から、毎年11月に徳島ハリストス正教会の管轄司祭がパニヒダを執り行っています。
私も人吉から福岡に移ったことで、松山に行きやすくなったので(飛行機を利用すれば福岡の教会から松山市内まで2時間ほど)、今回初めて参加しました。
墓地の入口を入ってすぐのところに、死者の中で唯一の将校だったワシリイ・ボイスマン大佐の墓と銅像が建てられています。
その奥に97基の兵士の墓が整然と並んでいます。墓碑は全て北側、つまりロシアの方角に向けられています。
墓碑の一つひとつに故人の名前と没年月日を記したプレートが付けてあります。
松山に日本正教会の信徒は一人もいませんが、パニヒダには地元の保存会や中学校の関係者が十数名参加されました。
日露戦争は文字通り帝政ロシアと日本との戦争ですので、ロシアは日本の敵国となるわけですが、そのロシア政府から徴集されて異郷の日本で死んだ兵士たちもある意味戦争の犠牲者です。
とりわけ、最前線に送られた兵士はロシア人だけでなく、ロシアの支配下にあったウクライナやポーランドなどから連れてこられた人々が多数いたそうです。この墓地名が「ロシア人墓地」でなく「ロシア兵墓地」となっているのはそのためです。
戦争は人間の最も邪悪で憎むべき所業と考えますし、松山で死んだロシア兵の中には戦闘で多くの日本兵を殺害した者も含まれていたかも知れません。
しかし、死んでしまった人に敵も味方もあるはずがありません。
すべての人間は等しく神に造られた存在だからです。
聖書の中でもイエスはこう言っています。
「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何もあてにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐み深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ6:35-36)
その意味では、今でも松山市民がロシア兵の墓を守り、彼らの多くが信仰していたであろう正教会の祈りを私たちが献じることは、むしろ正しいことと考えます。
日露戦争から120年、第二次世界大戦からでも80年近く経った現在も、世界のあちこちで戦争が行われ、軍人と民間人とを問わず、何万人もの人々が亡くなっています。しかもその中には、ロシアが起こした戦争も含まれています。
今も絶えない戦争で失われた多くの人々の霊の安息と平和の実現もあわせて、松山で祈りを捧げました。