本日、7月17日は2004年にトルストイ翻訳家の北御門二郎(きたみかどじろう。以下「二郎」)が亡くなった日です。
北御門家は明治時代から人吉ハリストス正教会の信徒家庭です。二郎の義兄(姉の夫)の藤平神父は戦後30年以上、人吉教会の管轄司祭でした。
また、二郎の姪(兄の娘)が私の前任教会の信徒でしたので、以前から「きたみかど」という珍しい姓にはなじみがありました。
私の転勤先が、その北御門家の本地の人吉というのも、何かの巡り合わせかも知れません。
二郎の伝記としては、ぶな葉一著『北御門二郎 魂の自由を求めて』があります。本来これは小学生高学年向けに書かれたもので、字が大きくルビも振ってありますが、彼の生き方はむしろ大人にこそ響くものがあり、その意味では大人にも十分読むに耐える本と言えます。
その生家は今もあり、二郎の甥(兄の養子)が継いでいます。
2020年1月に訪ねましたが、老舗温泉旅館のような広大で立派な豪邸でした。もちろん大地主で大富豪だったのは戦前のことですが。
家の中にはキリシタン時代のものと思われるマリア観音像がありました。「明治になってからクリスチャンになったお宅なのに、なぜこのようなものが」と驚いた記憶があります。
二郎は熊本の旧制五高を経て昭和8年に東京帝大英文科に入学しました。しかし彼は当時のエリート教育に疑問を持ち続け、トルストイの文学、とりわけそこに示された平和主義に傾倒しました。
そしてトルストイ作品の当時の翻訳に納得できず、原書で読みこなしたいと考えて、昭和11年に東大在学のままハルビンへ渡航。半年間、現地の白系ロシア人から徹底的にロシア語を学びました。
その満州で彼は日本軍による現地人への残虐行為を知り、「王道楽土」のスローガンなど嘘であって、日本の満州進出はただの侵略戦争に過ぎないことを確信しました。
昭和13年4月、徴兵検査の出頭命令を受けた二郎は、たとえ自分が逮捕されて処刑されようとも自分が人を殺すことはできないと主張してそれを拒否しました。いわゆる「良心的徴兵拒否」です。
しかしその決死の思いとは裏腹に、重罪であるはずの彼の徴兵拒否は不問に付されました。伝記にはその理由は触れられていませんが、大富豪で村の名士である北御門家が何らかの手を回したに違いないと私は想像します。日中開戦直後であり、終戦末期のような切羽詰まった環境でなかったのが幸いだったのでしょう。
徴兵拒否の結果、二郎は東大を退学。彼はトルストイが指向した「罪のない生き方」として、農業で生涯を送ることを目指しました。そして生家を出て、湯前からさらに奥地の水上村にある北御門家の小作人の家に住み込み、農民となりました。
昭和16年にはその家の娘と結婚。電気も水道も来ていない家で、山の湧き水を飲み、ランプの灯りで自給自足の生活を続けました。
大地主の子で東京帝大に進むという、当時では(たぶん今でも)最高級のエリート人生の将来が約束されていたのに、軍国主義社会に与することはできないという一念で全て放棄してしまう…トルストイが家出してまで果たそうとし、死によって実現できなかった生き方を、自分が成し遂げようという強い意志が感じられます。
二郎は50代になってから、農業の傍ら再びトルストイ作品を原書で読み直しました。そして同人誌に、当時の『アンナ・カレーニナ』の翻訳の誤訳を七百数十か所指摘したことが東京新聞のコラムに掲載され、一種のセンセーションを起こしました。
そして批判するだけでは意味がないと考えた彼は、百姓仕事の合間にトルストイ作品の私訳を始めました。
昭和51年、二郎が63歳の時に、県立宇土高校で版画集『イワンの馬鹿』を自費出版することになり、二郎が訳文を書きました。
それがエフエム中九州社長の沖津正巳氏の目に留まり、二年後に『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』の北御門訳トルストイ三部作の刊行に至りました。ロシア語もロシア文学も専門に学んでいない一人の農夫が、65歳で文学界に認められたのです。
二郎はその後も農業の傍ら、80代まで訳書を刊行し続け、91歳で天寿を全うしました。
二郎の家はご長男が継ぎ、今も農業を続けておられます。私は着任翌月の2019年11月に訪問しましたが、大変な山奥で驚きました。
家にはさすがに電気は引かれていましたが、今も水道はなくて水は山の清水。暖房は薪ストーブでした。
米や野菜だけでなく、シイタケや茶など、いろいろなものを栽培して生活されていました。トルストイから二郎が受け継いだものを、自分も継承するという強い意志を感じました。
また二郎の二女のKさんは東京で結婚した後、ご主人と書店を開業。40年ほど前に阿蘇地方の西原村に移り、児童書専門店の「竹とんぼ」を家族で営んでいます。
上記の伝記もこの店で購入しました。
都会ならともかく、こんな田舎で専門書店なんてと驚きましたが、自然の美しい場所で多感な子どもに良書を提供したいという思いが伝わってきました。
少年時代に出会ったトルストイ文学の精神が北御門二郎の人生を変え、さらにその精神がこの熊本県で子孫にも受け継がれていることに驚嘆します。その精神とは「富を追求したり社会におもねったりせず、良心に基づく平和な生き方を追求」することです。
トルストイ自身は当時のロシア正教会から破門を宣告されていましたが、指向していることはキリスト者として理想的、とりわけ正教会の修道者的な生き方そのものです。
都会から遠く離れた人吉球磨で、明治時代から正教信仰を継承してきた北御門家の人々が、トルストイの精神をも受け継いでいることに神の計らいを感じています。