九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

趣味について バイオリンと合唱

私は高校に入って部活動でバイオリンを始め、卒業と同時に止めてしまいましたが、昨年から40年ぶりにバイオリンを再開したことは以前書きました。

今日でレッスンを始めてから1年となります。

 

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バイオリン教室の発表会(2022年7月)

 

再開した時は完全にズブの素人に戻っていましたが(そもそも、元々上手くありませんでしたが)、1年経ってだいぶ感覚が蘇ってきました。

バイオリンはあくまでも個人で楽しむための趣味のつもりでしたが、多少弾けるようになるとちょっと図々しくなり、いろいろ演奏してみたくなるものです。

たまたま昨年末、人吉市から十数㎞ほど離れた球磨郡あさぎり町で活動している弦楽合奏団があることを知りました。「弦楽アンサンブル楓」という名です。

定演などはなく、学校行事や福祉施設などでのボランティア演奏を主体にしているようです。

https://enskaede.exblog.jp

 

しかも偶然ですが、団長のA氏は私が知っている人だったのです!

A氏は相良村の開業医で、お母様が人吉ハリストス正教会のO執事長の叔母に当たります。お母様は幼児洗礼の正教徒でしたが、ちょうど3年前に亡くなり、私が葬儀を執り行っています。(A氏や他のご家族は信徒ではありません)

それでA氏への年賀状に「楓」に関心があると書いたところ、大歓迎との連絡をいただいたので、一昨日に練習場所のあさぎり町の公民館に楽器持参で行きました。

 

いまの団員は全部で10人ですが、弦楽五部(バイオリン第一と第二、ビオラ、チェロ、コントラバス)の全パートが揃っています。

「まずは一緒に弾きましょう」ということで、第二バイオリンのA氏の隣で楽譜を見せてもらい、早速練習に参加しました。

皆さん、人吉球磨のような田舎のどこで楽器を習ったのかと思うくらい上手で驚きました。私は楽譜が初見であること以前に、いまの自分の技術レベルでは少し難易度が高い楽曲だったので、ついていくのがやっとでしたが、今後の練習のしがいがあるというものです。

これから毎週月曜日の練習に通うのが楽しみです。

 

さて大学入学後、私は「早稲田大学グリークラブ」に入り、合唱を始めました。

社会人になってからは、前職時代も神学校に入った後も忙しく、合唱はそれこそ教会の聖歌隊でしか歌う機会がありませんでした。

しかし、50代になってから時間に余裕ができてきたので(神父としての仕事量は変わらないので、時間の使い方が上手くなったのでしょう)、一般の合唱団に参加するようになりました。もちろん、あくまでも趣味です。

正教会典礼は事実上、アカペラの小さなオラトリオみたいな形態なので、「教会で散々歌っているのに、神父が何でわざわざ教会の外に行って合唱をするのか」と言われたことがあります。しかし、私は聖職者としてであれ聖歌隊員としてであれ、教会で聖歌を奉唱することは、たとえそれがどんなに美しくて魅力的な合唱曲だとしても「祈り」であって、決して「趣味」ではないと考えています。つまり同じ合唱という行為であっても祈りは祈り、趣味は趣味であり、きちんと区別した上でどちらも真剣にやりたいと思っているのです。

 

以前見た統計に、社会人で合唱をしている人の人口比率は首都圏と関西の都市部に極端に集中していることが示されていました。つまり、そういう都会には社会人の合唱団がたくさんあり、より取り見取りの環境だが、地方では逆に大人の合唱団はあまり一般的ではないということです。

実際、人吉に来て、継続的に活動している合唱団がないと知った時は驚きました。

 

それで九州でも本格的に合唱を続けたかった私は、着任して間もなくの2020年1月、福岡の「九響合唱団」のオーディションを受けて入団しました。これはプロオーケストラの九州交響楽団(九響)の付属合唱団です。

練習に通うには福岡まで片道2時間半かかり、高速代もバカにならないのですが、それを惜しんでは合唱ができないのだから仕方ありません。

しかし、そのように苦労して参加したのも束の間、コロナ禍のため出演予定の九響の演奏会が次々と中止になってしまいました。高速代を返せとコロナウイルスに言いたい気持ちです。

ようやく昨年の10月と11月、福岡で九響の演奏会に出演でき、九州に来てから三年かかって舞台上でのリアルな合唱を経験しました。心から嬉しく思いました。

 

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さてその演奏会と同時期、鹿児島教会の信徒から、鹿児島の音大に合唱団があるという話を聞きました。

ネットで調べてみると、それは鹿児島国際大学(単科の音大ではなく、音楽科のある総合大学)の学内の合唱団で、しかも昨年から学外の一般団員も公募していることが分かりました。

ドイツ人声楽家のウーヴェ・ハイルマン氏が指導している「ハイルマン合唱団」という団体です。


ハイルマン合唱団 (@iuk_music) / Twitter

 

学内メインのためか、ネット上で公開情報があまり更新されていなかったので、昨年末に入団の可否についてメールで照会したところ、ハイルマン先生から直接電話がかかってきて、歓迎しますとのことでした。

練習は火曜日ですが、これまで出張や葬儀などの公務が重なったため、昨日ようやく初参加しました。演目はバッハ作曲「マタイ受難曲」です。

 

鹿児島国際大学のキャンパス内の練習場所に来てみると、集まったのは30人ほどで、大部分は音楽科の学生でした。中年の方も若干いましたが、教職員だったようです。学外、それも鹿児島県外から来て、さらに学生諸君の父兄よりも年長であろう私にはもの凄いアウェイ感でした…

練習日程を見ると、昨年末から始めて3月の本番まで10回足らずしかなく、マタイ受難曲のような超大曲なのにどうするのかと思ったら、学内で毎年演奏しているようです。つまり「みんなが歌える曲」ということですね。

ソリストは声楽専攻の学生に割り振られていました。ハイルマン先生の練習内容も合唱に対してよりも、ソリストの学生に対する歌唱指導の方が中心でした。

また合唱団とは別に、オケも器楽専攻の学生と教員で編成されているそうです。

 

どうやらこの団体は趣味のサークルというより、音楽科の教育の一環として運営されているように思われましたが(よって会費も演奏会のチケットノルマもない)、前述のように「本格的に合唱を続けたい」私には願ったりかなったりです。

しかも福岡より鹿児島の方が断然近く、高速代も安く済みます!

 

以上の結果、趣味に関しては今後毎週月曜日にあさぎり町弦楽合奏、火曜日に鹿児島で合唱、水曜日にバイオリンの個人レッスンというスケジュールになりました。九響の方は12月の本番に向けて、夏に練習が再開されるので、それが始まったら福岡に行く機会がさらにプラスされます。

音楽という趣味を続けるには、首都圏に住んでいた時と比べるとだいぶハードルが高いのですが(神父なので本番が日曜日なら辞退することは従来どおり)、仕事と趣味を両立させて充実した日々を過ごしたいと思っています。

人吉で降誕祭

昨日は人吉ハリストス正教会で降誕祭の聖体礼儀を行いました。日本正教会の降誕祭は1月7日ですが、私は一人で4教会を兼務している関係上、ローテーションで人吉の降誕祭は毎年「12月の第四日曜日」に行っています。今年はたまたま12月の第四日曜日が25日だったので、人吉では西方教会と同日にクリスマスとなりました。

降誕祭聖体礼儀(説教)


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雪でどうなることかと心配しましたが、土曜日の時点で教会の境内に積雪は全くなく、何の支障もなしに祈祷を行うことができました。神に感謝です。

高速道路の通行止めも昨日朝にようやく解除され、えびの市(宮崎県)から通っている人も参祷できました。

ただ、一家で保育園を経営しているO家は、保育園でのクリスマスイベントと重なって全員欠席でした。親子3代8人の大家族なので、トータルの参祷者数が見込みより大幅に変わってしまいました。それだけ人吉は小規模な教会ということですが…

 

昨年末はコロナが収束していたので、購入した弁当を参祷者に配り、祈祷後に会食できましたが、今はまた一層感染拡大しているので、弁当は参祷者に持ち帰ってもらい、祈祷後の会食はしませんでした。一昨年末と同じ対応です。

熊本県では連日4千人台の感染者が出ており、人口当たりの新規感染者数が全国トップクラスの状況。人口3万人しかいない人吉市でも、毎日数百人の感染者が出ています。県の当局はかなり危機感を持っています。

せっかくのクリスマスなのに残念ですが、教会として感染拡大防止を進めるためには仕方ありません。

 

滞りなく祈祷を終え、午後は毎週通っているバイオリン教室のクリスマスイベント兼保護者会へ。

私は2月から、40年ぶりにバイオリンを再開したと以前投稿しました。子どもが中心のバイオリン教室なのですが、シニア世代の生徒も数人だけいます。つまり、会場には多くの大人たちがいましたが、私は保護者のお爺ちゃんではなく、生徒の側だったということです。

もっともシニア生徒の中で男性は私一人だけなのですが。

 

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シニア組も合奏を披露。私は第二バイオリンです。

バイオリンの合奏

祈祷もプライベートも、充実したクリスマスの一日でした。

「海道東征」演奏を振り返って

今週の月曜日、アクロス福岡九州交響楽団による「海道東征」の演奏会に合唱で出演しました。

 

海道東征とは、古事記日本書紀の神武東征の記述をもとに北原白秋が詩を書き、それに信時潔(「海ゆかば」や「慶應義塾塾歌」の作曲者として有名)が曲をつけた日本初のカンタータです。

昭和15年の紀元二千六百年奉祝芸能祭で初演されました。

当時のそのような政治的背景もあって、戦後は長いこと演奏が封印されてきましたが、この10年くらいでしばしば演奏されるようになっているようです。

私自身は個人的に、音楽であれ文学であれ絵画であれ、よほど公序良俗を乱すものだったり、差別やヘイトを喚起するものでない限り、意図的に、まして政治的思惑でそれを排除すべきでないと思っています。芸術において表現の自由は守られるべきであり、よって作者の意図や時代背景なども、一人ひとりの鑑賞者の理解に任されるべきだと考えるからです。

その意味で、音楽を趣味にしている者の一人として、少し前まで社会的に封印された「幻の曲」の演奏に参加できたことは有意義な経験だったと思います。

「海道東征」演奏会パンフレット

合唱曲としては、どういうわけか全体に音域が低すぎて歌いにくく(特にソプラノやテナーといった高音パートには厳しい)、実際に歌う側としては今ひとつなのですが、楽曲としては荘厳な箇所、明るい箇所、感傷的な箇所、勇壮な箇所等々、色彩が豊かです。

要は歌だけではなく、オーケストラが伴って初めて魅力が伝わる音楽という印象でした。

実際、合唱の練習に参加していて、本番の1か月前まで「みんな、こんなに歌えなくてよく平気だな(偉そうで済みません…)」と思っていましたが、オーケストラと合わせたら格段にノリが良くなり、本番も素晴らしい出来だったように思います。そこは曲の持っているポテンシャルに加え、マエストロの現田茂夫氏と九響の音楽を引き出す力によるものでしょう。

 

合唱曲としては今ひとつと書きましたが、北原白秋による大和ことばの歌詞は実に格調があって素晴らしいものです。

今年は昭和17年に白秋が亡くなって80年ということで、命日の翌日の11月3日に彼の郷里・柳川の北原白秋生家を見学に行きました。そして最晩年の白秋が渾身の思いで「海道東征」を書きあげたことを見てきましたので、とても感慨深いものがありました。

 

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また、11月23日に宮崎市に出張し、パニヒダを献じてきたのですが、せっかく宮崎まで来たし、翌週には「海道東征」の本番があるからということで、皇祖発祥の伝説の地である高千穂まで足を延ばしました。ちなみに海道東征の第一曲の題名は「高千穂」です。

高千穂では天照大神伝説の場所や高千穂峡の綺麗な景色、さらに国の無形重要文化財に指定されている高千穂神楽を鑑賞するなどしてきました。

高千穂峡

天安河原天照大神伝説の場所の一つ)

重要無形文化財「高千穂神楽」


私自身は皇室の先祖が神だとはもちろん思っていません。また高千穂に行ってよく分かりましたが、九州の豪族であったとしても、少なくともこの地方の出身だとは思わなくなりました。
というのも、高千穂は山奥すぎて耕作地がほとんどなく、また海からも遠すぎて交易が困難だからです。

私は皇室の先祖は福岡県周辺の玄界灘沿岸を本拠とし、中国や朝鮮と交易していた人々だと想像します。実際、福岡市の志賀島では、西暦57年に漢の皇帝から贈られた国宝「漢委奴国王印」が発見されていますから、そういう力のある豪族があの辺にいたことは間違いありません。そもそも奈良のような遠方まで攻め上るには、それなりの経済力と軍事力が必要であり、そのためには大陸から輸入した鉄器などの先進的な道具や武器が不可欠なはずです。

しかし、それを差し引いても、わが国の古代伝説の舞台を見てきたことは、海道東征演奏の良いイメージトレーニングになりました。

 

いずれにせよ、今回の海道東征の演奏にあたって、ただ単に福岡で合唱を歌ってきたということに留まらず、日本古代史のロマンに思いを馳せる機会ができて良かったと思っています。

ロシア・ウクライナの西洋音楽の開祖 ボルトニャンスキー

本日、10月28日はロシアの作曲家、ドミトリー・ボルトニャンスキー(1751-1825)の誕生日です。

ドミトリー・ボルトニャンスキー

ボルトニャンスキーは1751年、ウクライナ(当時はまだロシア領ではなくコサック国家)のフルーヒウで、ウクライナ人聖職者の子として生まれました。つまり彼は生粋のウクライナ人です。しかし、7歳でサンクトペテルブルクの宮廷礼拝堂聖歌隊に入り、以後ロシアの宮廷音楽家として生涯を送りました。

 

彼はモーツァルト(1756年生まれ)より少し年上で、さらに亡くなったのはベートーヴェン1827年没)と同時期でしたので、音楽史的にはまさに古典派の作曲家です。

わが国では一般的に、古典派の作曲家といえば前述のモーツァルトベートーヴェンに、せいぜいハイドンくらい。つまり、ドイツ・オーストリアの作曲家ばかりが思い出され、ロシアの作曲家ではチャイコフスキーラフマニノフなど、後期ロマン派以降の時代の人々しか取り上げられないような印象です。

 

ボルトニャンスキーについては、わが国では「ロシア正教会の聖歌作曲家」という視点で見られがちです。

実際、彼は宮廷聖歌隊指揮者でもあり、多くの聖歌を書きました。

一番有名なのは、聖体礼儀の大聖入(カトリックのミサでは奉納の歌に相当)で歌われる「ヘルヴィムの歌 第7番」です。

 


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この曲は日本語訳の祈祷文用に編曲され、日本正教会でも人気のあるレパートリーです。ただし大教会の聖歌隊のように、混声四部のパートのメンバーが全部そろっていないと歌えませんが。


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しかしバッハがたくさん宗教曲を書いたからといって、彼を宗教音楽家と限定できないのと同じく、宮廷音楽家のボルトニャンスキーも聖歌だけでなく多くの世俗音楽を書いており、決して宗教音楽家とはいえません。むしろ、ロシア・ウクライナで初めて西洋音楽を作った「開祖」とも呼ぶべき人物だと私は思っています。

一般に「ロシア音楽の父」として知られるのはミハイル・グリンカ(1804-1857)ですが、ボルトニャンスキーは宮廷の中にいて広く社会に出なかったから目立たないだけで、時代としてはグリンカより半世紀も前の人物であるのは注目すべきことです。

ミハイル・グリンカ

 

中世のロシア社会は、正教会の強い影響下にありました。そのため、世俗の音楽は卑しいものとして疎んじられ、さらに正教会典礼では楽器の使用を禁じていることから、器楽曲のジャンルが特に未発達のままでした。つまり、昔のロシアには「芸術音楽」という発想がなかったのです。

これを一変させたのが皇帝ピョートル一世(1682-1725)です。

ピョートル一世

ピョートル帝はロシアの西欧化・近代化を強く押し進めました。

西欧の街を模した新都市サンクトペテルブルクを造ってモスクワから首都を移し、イタリア人を中心とする西欧の音楽家を宮廷のお抱えにして演奏させました。

さらにはモスクワ総主教座を廃止するなど、国家による教会の統制を断行しました。その結果、ピョートル帝は、本来祈祷のためにあるはずの総主教聖歌隊に宮廷の酒宴で歌わせるなどしました。つまり西欧の王侯貴族にならって、音楽の世俗化を進めたのです。

この音楽に関する世俗化路線は、皇帝が代替わりしても継承され、宮廷聖歌隊が祈祷で歌う聖歌も、歌詞はスラブ語の祈祷文のまま、イタリア音楽的な旋律で歌うことが求められるようになりました。近代ロシアで始まった多声部合唱による聖歌は、それまでの正教会の伝統にはなかったことです。

ボルトニャンスキーが生を受け、幼くして宮廷聖歌隊に入ったのはまさにそういう時代だったのです。

 

ボルトニャンスキーはイタリア人の宮廷楽長ガルッピに音楽を学びました。さらに1769年、18歳でイタリアに行き、オペラ創作を学んで、オペラ作曲家として成功を収めました。

彼のオペラ作品は今日ではあまり演奏されないので、音源は少ないですが、聴いてみるとモーツァルトの曲風にそっくりです。


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この実績を携えて、彼は1779年にサンクトペテルブルクに戻り、弱冠28歳でロシア出身者(ウクライナ人ですが)として初めて宮廷楽長に任命されました。そして亡くなるまで半世紀近くもその任にあったのです。

宮廷ではオペラの他、室内楽曲や器楽曲も作曲しています。

 

また、1794年に作曲した「Kol slaven」(栄光なるかな)はロシア帝国の国歌に採用されました。国歌は1816年に「神よ皇帝を守り給え」(英国国歌"God save the King"と同じ曲で歌詞だけロシア語)、1833年にアレクセイ・リヴォフ作曲「神よ皇帝を守り給え」(チャイコフスキーの序曲「1812年」のコーダのメロディとして知られる)に切り替えられましたが、「Kol slaven」はその後もずっと愛唱され、1917年のロシア革命までクレムリンのカリヨンで毎日正午に鳴らされていました。


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ボルトニャンスキーの作品群で特に有名なのは、45曲の「合唱コンチェルト」(Хоровой концерт)です。

無伴奏の混声四部合唱曲(二重合唱による混声八部の曲もある)で、歌詞は主に詩編から採られています。

もっとも聖書の引用とはいえ、正教会典礼文とは直結していないので、さすがに宮廷音楽の世俗化が進んだとはいえ、実際の教会の祈祷で歌われることは当時からありませんでした。

「コンチェルト」ということで「合唱協奏曲」という訳を見たことがありますが、器楽の協奏曲のようにソリストとトゥッティという構成ではありませんから、協奏曲という訳は不適切だと思います。ロシア語の「концерт」(コンツェルト)とは「コンサート」という意味なので、合唱コンチェルトも「(教会でない)演奏会用宗教合唱曲」と理解するのが正しいと考えます。

合唱コンチェルト曲集の中で一番有名なのは、第6番「いと高きには光栄 神に帰し」なのでご紹介しておきます。


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私自身は、彼の楽曲は聖歌しか歌ったことがなく、合唱コンチェルトは未経験ですが、アカペラ合唱の美を極めたような曲ばかりで、合唱をある程度やっている人なら歌いたくなるはずです。

 

19世紀のロシア国民楽派のような、伝統音楽への回帰を重んじる視点からは、ボルトニャンスキーの作風は西欧の古典派音楽そのもので、かなり違和感があるといえます。わが国でも伊福部昭がボルトニャンスキーの聖歌作品について「安価にして軽薄なイタリアまがい」と酷評したそうです。

しかし私に言わせれば、それは後世のロシア音楽を知っているから言える後出しジャンケンのようなもので、極論すれば日本音楽は三味線や尺八で良いというのと同じになってしまいます。むしろ、それまで音楽未開国だったロシア・ウクライナに初めて西洋音楽をもたらした人物という意味において、ボルトニャンスキーのことがもっと評価されても良いのではないかと私は思っています。

人吉が生んだ偉人 犬童球渓

本日、10月19日は唱歌旅愁』『故郷の廃家』の作詞者である犬童球渓(いんどうきゅうけい 1879-1943)の命日です。

犬童球渓(1879-1943)

 

人吉市では毎日正午に、『旅愁』のメロディーが防災放送で時報代わりに流されます。事実上の市歌のように親しまれている歌です。

それはもちろん、人吉が生んだ人物の作詞によって有名な歌となったからに他なりません。また今も人吉では、作詞者を呼び捨てではなく、「犬童球渓先生」と呼ぶ人が少なくありません。

恥ずかしながら私は人吉に来るまで、『旅愁』や『故郷の廃家』は歌としては知っていても作詞者の名前までは知らなかったし、ましてその人物が人吉の人だったとはもっと知りませんでした。


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その功績ゆえに、球渓の肩書きは「詩人」「作詞家」と書かれることが多いのですが、本職はあくまでも学校の音楽教師でした。

それでは犬童球渓はどのような生涯を送ったのでしょうか。

 

犬童球渓は明治12(1879)年3月、人吉市で生まれました。本名は信蔵といいますが、故郷の人吉が球磨川の渓谷にあることにちなんで、後に「球渓」というペンネームを名乗りました。

彼が生まれ、また亡くなるまで住んでいた家は今も残っていて、「犬童球渓記念館」となっています。

球渓の旧宅・犬童球渓記念館(筆者撮影)

球渓の音楽室と愛用のピアノ(筆者撮影)

高等小学校を卒業後、小学校の代用教員を経て、明治34年に熊本師範学校を卒業。翌年、東京音楽学校に23歳で入学しました。

ちなみに球渓は滝廉太郎と同い年ですが、滝はストレートに東京音楽学校を卒業してドイツに留学し、しかも球渓が在学中の明治36年に亡くなったので、二人が東音で一緒だったことはありません。

 

明治38年音楽学校を卒業した球渓は、兵庫県立柏原中学校(現・柏原高校)に音楽教師として赴任しますが、ここで事件が起こりました。

時代はまさに、日露戦争で日本軍が勝利を重ねている時期であり、軍国主義に感化された生徒たちが「男のくせに音楽など軟弱だ」と、音楽の授業を集団でボイコットしたのです。

私が教師だったら「アホか。音楽の授業がいけないなら文部省が廃止してるだろう。そもそもお前らの好きな軍隊にだって軍歌もあるし軍楽隊もある。お前らみたいな単純な馬鹿どもは留年だ」といって全員に赤点をつけるところですが、球渓は私と違って性格が優しかったのか、心を患ってしまいました。

もしかしたら戦時下の異常な社会で、学校側も教師である球渓でなく、生徒の側に味方したのかもしれないと、私は勘ぐっています。

いずれにせよ、このために球渓は着任して8か月で柏原中学から新潟高等女学校(現・新潟中央高校)に転任することになりました。

以後、球渓は女学校でしか教鞭を執っていませんが、軍国主義にかぶれた男子(旧制中学は男子校)に振り回されなくて良かったかもしれません。

 

新潟では2年勤務しましたが、在任中の明治40年、遠く離れた故郷の人吉を思い起こして訳したのが『旅愁』の歌詞です。

旅愁の原曲は、アメリカの作曲家ジョン・オードウェイの歌曲「Dreaming of Home and Mother」ですが、球渓は歌詞を直訳するのではなく、自分の心情を詩にしました。よって私は訳詞と呼ぶより作詞といって良いものと思っています。

彼が訳した『旅愁』と『故郷の廃家』は、同年8月に文部省が発行した音楽教科書「中等教育唱歌集」に採用され、一躍人々に知られるようになりました。

 

以後、球渓は明治41年熊本県立高等女学校(現・熊本県立第一高校)、大正7年に人吉高等女学校(現・人吉高校)に転任し、昭和10年に56歳で教師を定年退職しました。

彼はその間、約250曲もの西洋歌曲の訳詞を遺したのです。

退職の翌年の昭和11年には、『球渓歌集 四季』という歌曲集を出版しています。

 

このように、日本の「唱歌」のジャンルに足跡を残した球渓でしたが、昭和18(1943)年10月19日、自ら命を絶ってしまいました。

 

私は着任翌月の2019年11月、上記の犬童球渓記念館を訪ねた時、偶然東京から来ていた球渓のお孫さんに会って話を聞きました。

お話によれば、当時球渓は体調を崩していて、「この非常時にお国のために何の役にも立たない」と言って悩んでおり、それで自殺してしまったとのことでした。球渓は大変生真面目で細かい性格だったそうで、子どもたちに宛てて事細かにいろいろな指示を書き連ねた長文の遺書があったそうです。

私に言わせれば、そんな延々と遺書を書く気力があるのなら、何で生きて家族と語り合わないかなと思うのですが、上記のように授業をボイコットされて心を病むくらい繊細な人だったようですから、生きること自体が苦痛だったのかも知れません。

しかし、直接的な原因でなかったとはいえ、授業ボイコット事件のきっかけは日露戦争、自殺のきっかけは太平洋戦争の戦時社会だったのであり、その意味で彼は間接的な戦争の犠牲者だったといえるかも知れません。返す返すも残念です。

 

球渓の死から4年後の昭和22年11月、人吉市の主催で「犬童球渓顕彰音楽祭」が開催され、現在に至っています。

 

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残念ながら2020年以降は水害とコロナ禍の影響で公開の演奏会は行われず、高校生の音楽コンクールだけしか開催されていません。

人吉市はただでさえお金のない田舎の自治体であり、それに加えて水害からの復興もあって、この歴史ある音楽祭の継続も風前の灯火なのですが、何とかまた軌道に乗ってほしいものです。

 

人吉出身の有名人といえば、かつては巨人の川上哲治、今はたぶんタレントの内村光良でしょうが、知られざる偉人・犬童球渓も皆さんにぜひ知っていてもらいたいと思っています。

チャイコフスキーとウクライナ

4月24日以降、毎週日曜日は九州各地の教会を巡回して復活祭の祈祷を行っています。

明日はホームグラウンド(?)の人吉教会での復活祭です。

 

連休で出張している間に雑草が猛烈な勢いで伸び、復活祭の開式の十字行(聖堂の周囲を行列すること)にも支障をきたすくらいになってしまいました。駐車スペースもなさそうです。

たちまち雑草だらけになった人吉教会の境内

そこで今朝から妻と人吉教会に行き、私は草刈り、妻は聖堂と集会室の掃除に専念して、明日の復活祭に備えました。

 

さて本日、5月7日はブラームス(1833-1897)とチャイコフスキー(1840-1893)の誕生日です。二人とも私の好きな作曲家です。

後期ロマン派を代表するこの二人が、生年は違えど同じ誕生日というのは面白い偶然だと思います。

 

2月24日のロシア軍のウクライナ侵攻以降、ロシア(ソ連を含む)の作曲家の作品演奏を取り止めるというおかしな傾向が世界的に広まっているようです。

そもそも音楽に罪はないし、その作曲家の存命中にウクライナは独立国でなく、プーチン氏もロシア大統領でないのだから、作曲者にも罪はありません。批判の方向がおかしいです。

最も槍玉に上がっているのはチャイコフスキー作曲の序曲「1812年」です。ロシアの戦勝を高らかに祝う曲だから、というのがその理由のようです。


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しかし、この曲で祝っている勝利とはロシアから他国への侵略戦争ではなく、1812年の祖国戦争の勝利、すなわちナポレオンの侵略をロシアの人々が撃退した出来事です。ちなみにその主戦場は現在のウクライナ地方です。侵略者への勝利というテーマなら、むしろ時宜に適っているとさえ、私は思っているのですが。

曲の最後のコーダで金管楽器が奏でているのは帝政ロシアの国歌のメロディーであり、今のロシア国歌のメロディー(ソ連時代と同じ曲)ではありません。皮肉なことにソ連時代は帝政時代への忌避感から、コーダからロシア国歌のメロディーを省いて演奏されていたくらいです。

つくづく短絡的で浅慮な同調圧力は社会の害だなと思います。

 

さらに付け加えるなら、チャイコフスキー自身はロシアのウラル地方で生まれたものの、ルーツはウクライナにあります。あまり知られていないようですが。

彼の家系はウクライナのコサックに連なるものであり、姓も「かもめ」を意味する「チャイカ」でした。ロシア風の「チャイコフスキー」という姓は、19世紀に彼の祖父が改姓したものです。

 

彼は自分のルーツのあるウクライナ民謡のメロディーにインスパイアされていたようで、自身の作品に多く取り入れています。

彼の「ピアノ協奏曲第一番」は「白鳥の湖」などと並んで最も有名な作品の一つですが、第一楽章の第一主題(開始から4分後くらいからの軽く飛び跳ねるような旋律)と第三楽章の旋律はウクライナ民謡から採られたものです。


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また、彼の若い時の作品「交響曲第二番」は、妹の嫁ぎ先であるウクライナ・カーミャンカの貴族、ダヴィドフ家に滞在して書かれました。彼はダヴィドフ邸で他にも作品を書いています。

第一、第三、第四楽章の旋律はそれぞれウクライナ民謡から採られています。そのため、当時の著名な音楽評論家ニコライ・カシュキンがこの曲を「小ロシア」(マロルスカヤ)と呼んだことから、それが今日でも愛称となっています。


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ちなみに小ロシアとは、13世紀にタタールのくびき、すなわちモンゴルのロシア侵攻が起き、それまでキエフを中心に栄えていたルーシ社会が北方と西方、つまり今日のロシア北部地方とウクライナ西部地方とに分かれてしまったことに由来します。

この時、正教会の管区として前者を「大ロシア」、後者を「小ロシア」と呼びました。つまり本来、地名というよりは教会用語です。この大小とはもちろん優劣ではなく、面積の大小という意味です。

14世紀以降、モンゴルの勢力が撤退してからは、小ロシア地方はリトアニア領、後にポーランド領となりました。しかし18世紀の終わりから19世紀初めにかけて、帝政ロシアポーランドを併合したことに伴い、ウクライナもロシア領となりました。

以後、「小ロシア」は帝政時代のロシア人がウクライナに対して使う蔑称になってしまいました。よって今日では使うことのできない言葉です。チャイコフスキー作品の愛称としてなら許されているところが面白いですが。

 

またチャイコフスキーウクライナではカーミャンカの他、トロスチャネッツという村を気に入り、そこにもよく滞在して作曲していました。この村は今のロシアとの国境のすぐ近くです。

そこにあったチャイコフスキーの家が、この度のロシア軍の侵攻直後に、砲撃で無残に壊されてしまったと報じられていました。

 

そもそもチャイコフスキーはロシアにとっても代表的な歴史的人物のはずでしょう。ロシアがドーピング問題で、オリンピックに国として参加できなくなり、表彰式で国歌の代わりに演奏されたのは前出の「ピアノ協奏曲第一番」の冒頭部分でした。

そのチャイコフスキーの家に砲弾を撃ち込んだのですから、ロシア軍は祖国のために戦うと言っていながら、実際は破壊行為自体が目的であって肝心の祖国へのリスペクトはないという、実に馬鹿げた事態となっています。

 

ロシアの側からも反ロシアの側からもケチをつけられて、チャイコフスキーは今、あの世でどう思っているだろうか。そう思うと残念でなりません。

それもこれも、この度の何の大義も見出せない戦争に原因があるのですから、一刻も早い平和の実現をただ祈るばかりです。

ストレスフリーな日常を求めて

私はほぼ毎週末に車で出張しているので、冬場は特に天気予報をいつもチェックしています。

人吉は山奥であり、水害後はいまも鉄道が来ていないので、降雪や道路の凍結があるとどこにも行かれなくなってしまうからです。

文字通り「陸の孤島」であり、そこに閉じ込められてしまって、何もできないでいると気分まで塞がってきます。

 

今は九州の山間部は積雪している地域がかなりありますが、人吉市内は気温は低いながらも、幸いなことに現状では雪には見舞われていません。

ニュースでは札幌市内の記録的豪雪に加え、明日は東京でも大雪の見込みとのこと。大事にならないよう祈るばかりです。

 

さて先週、40年ぶりにバイオリンを再開しました。

レッスンは毎週水曜日なので、今日は二回目です。自宅で少しずつ練習していたら、忘れていた感覚をだいぶ思い出しました。

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練習曲第一番「キラキラ星変奏曲」

この楽譜は、4本あるバイオリンの弦のうち、高い方のE線とA線の2本だけを使って、細かい弓の動かし方と正しい音程の感覚をつかむための曲です。バイオリンを習い始めた幼稚園児くらいの子たちが最初に練習する曲ですが、初心者に逆戻り状態の私にはちょうど良い内容です。

 

ピアノは同じ鍵盤なら誰が叩いても同じ音がしますが、弦楽器は音を作るところから自分でやらなければならない、という違いがあります。もちろんピアノが易しいという意味ではなく(私はピアノは弾けません)、演奏で要求される要素が違うという意味ですが。

さらに、練習すれば技術の向上と、自分がより満足できる音が出ていることを自覚できます。一言で言えば「楽しい」です。

そこが弦楽器の醍醐味であり、今やバイオリンにすっかりはまってしまいました。

 

さて、私は聖体礼儀を執り行う時は自分のスマホで動画に撮り、編集してYouTubeに上げています。

九州は広い地域に4つしか教会がありませんし、それに加えてコロナ禍で、教会に来られる人が大変少なくなっています。

今日はどこの教会で聖体礼儀を行った、説教ではこんな話をした、という情報を教会に来ていない多くの人々に伝えることは、大変重要だと思っています。

しかし、最近はスマホの不具合が酷くなって、反応が遅いだけでなく、あっという間に充電が切れてしまったり、作動中のアプリが突然ダウンしてしまったりと、不都合が多くなってきました。スマホを使うたびにイライラしてストレスが溜まってきます。

しかし、これは同じものを5年以上も使い続けたので、寿命を過ぎてしまったからかも知れません。

特にこの数週間は、聖体礼儀を撮影中、気づかぬ間に勝手に切れてしまうようになりました。先週の福岡の聖体礼儀も、開式から30分ほどで充電が切れてしまい、そこから先は映っていませんでした。

 

これはもう限界だと思い、昨日、市内に一か所しかないauショップに行って最新の機種に変更してきました。

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スマホを機種変

首都圏のショップはいつもたくさんの客がいて、順番待ちが大変ですが、当地は拍子抜けするくらい客がおらず、また欲しい機種もあらかじめ調べておいたので、すんなり手続きは済みました。

新品はもちろん動作がスムーズで、この上なく気分爽快です。

 

前任地と比べれば、九州では格段にストレスが少ない生活を送ってはいますが、バイオリンという新たに打ち込めるものができ、さらにストレス源の古いスマホとはお別れできて、さらに精神衛生的に良いコンディションになったようです。

やはり、人間はどんな環境にいても、また何歳になっても、ストレスをうまく解消することを心掛けるのが何よりも一番だと改めて思いました。