本日、10月28日はロシアの作曲家、ドミトリー・ボルトニャンスキー(1751-1825)の誕生日です。
ボルトニャンスキーは1751年、ウクライナ(当時はまだロシア領ではなくコサック国家)のフルーヒウで、ウクライナ人聖職者の子として生まれました。つまり彼は生粋のウクライナ人です。しかし、7歳でサンクトペテルブルクの宮廷礼拝堂聖歌隊に入り、以後ロシアの宮廷音楽家として生涯を送りました。
彼はモーツァルト(1756年生まれ)より少し年上で、さらに亡くなったのはベートーヴェン(1827年没)と同時期でしたので、音楽史的にはまさに古典派の作曲家です。
わが国では一般的に、古典派の作曲家といえば前述のモーツァルトとベートーヴェンに、せいぜいハイドンくらい。つまり、ドイツ・オーストリアの作曲家ばかりが思い出され、ロシアの作曲家ではチャイコフスキーやラフマニノフなど、後期ロマン派以降の時代の人々しか取り上げられないような印象です。
ボルトニャンスキーについては、わが国では「ロシア正教会の聖歌作曲家」という視点で見られがちです。
実際、彼は宮廷聖歌隊指揮者でもあり、多くの聖歌を書きました。
一番有名なのは、聖体礼儀の大聖入(カトリックのミサでは奉納の歌に相当)で歌われる「ヘルヴィムの歌 第7番」です。
この曲は日本語訳の祈祷文用に編曲され、日本正教会でも人気のあるレパートリーです。ただし大教会の聖歌隊のように、混声四部のパートのメンバーが全部そろっていないと歌えませんが。
しかしバッハがたくさん宗教曲を書いたからといって、彼を宗教音楽家と限定できないのと同じく、宮廷音楽家のボルトニャンスキーも聖歌だけでなく多くの世俗音楽を書いており、決して宗教音楽家とはいえません。むしろ、ロシア・ウクライナで初めて西洋音楽を作った「開祖」とも呼ぶべき人物だと私は思っています。
一般に「ロシア音楽の父」として知られるのはミハイル・グリンカ(1804-1857)ですが、ボルトニャンスキーは宮廷の中にいて広く社会に出なかったから目立たないだけで、時代としてはグリンカより半世紀も前の人物であるのは注目すべきことです。
中世のロシア社会は、正教会の強い影響下にありました。そのため、世俗の音楽は卑しいものとして疎んじられ、さらに正教会の典礼では楽器の使用を禁じていることから、器楽曲のジャンルが特に未発達のままでした。つまり、昔のロシアには「芸術音楽」という発想がなかったのです。
これを一変させたのが皇帝ピョートル一世(1682-1725)です。
ピョートル帝はロシアの西欧化・近代化を強く押し進めました。
西欧の街を模した新都市サンクトペテルブルクを造ってモスクワから首都を移し、イタリア人を中心とする西欧の音楽家を宮廷のお抱えにして演奏させました。
さらにはモスクワ総主教座を廃止するなど、国家による教会の統制を断行しました。その結果、ピョートル帝は、本来祈祷のためにあるはずの総主教聖歌隊に宮廷の酒宴で歌わせるなどしました。つまり西欧の王侯貴族にならって、音楽の世俗化を進めたのです。
この音楽に関する世俗化路線は、皇帝が代替わりしても継承され、宮廷聖歌隊が祈祷で歌う聖歌も、歌詞はスラブ語の祈祷文のまま、イタリア音楽的な旋律で歌うことが求められるようになりました。近代ロシアで始まった多声部合唱による聖歌は、それまでの正教会の伝統にはなかったことです。
ボルトニャンスキーが生を受け、幼くして宮廷聖歌隊に入ったのはまさにそういう時代だったのです。
ボルトニャンスキーはイタリア人の宮廷楽長ガルッピに音楽を学びました。さらに1769年、18歳でイタリアに行き、オペラ創作を学んで、オペラ作曲家として成功を収めました。
彼のオペラ作品は今日ではあまり演奏されないので、音源は少ないですが、聴いてみるとモーツァルトの曲風にそっくりです。
この実績を携えて、彼は1779年にサンクトペテルブルクに戻り、弱冠28歳でロシア出身者(ウクライナ人ですが)として初めて宮廷楽長に任命されました。そして亡くなるまで半世紀近くもその任にあったのです。
宮廷ではオペラの他、室内楽曲や器楽曲も作曲しています。
また、1794年に作曲した「Kol slaven」(栄光なるかな)はロシア帝国の国歌に採用されました。国歌は1816年に「神よ皇帝を守り給え」(英国国歌"God save the King"と同じ曲で歌詞だけロシア語)、1833年にアレクセイ・リヴォフ作曲「神よ皇帝を守り給え」(チャイコフスキーの序曲「1812年」のコーダのメロディとして知られる)に切り替えられましたが、「Kol slaven」はその後もずっと愛唱され、1917年のロシア革命までクレムリンのカリヨンで毎日正午に鳴らされていました。
ボルトニャンスキーの作品群で特に有名なのは、45曲の「合唱コンチェルト」(Хоровой концерт)です。
無伴奏の混声四部合唱曲(二重合唱による混声八部の曲もある)で、歌詞は主に詩編から採られています。
もっとも聖書の引用とはいえ、正教会の典礼文とは直結していないので、さすがに宮廷音楽の世俗化が進んだとはいえ、実際の教会の祈祷で歌われることは当時からありませんでした。
「コンチェルト」ということで「合唱協奏曲」という訳を見たことがありますが、器楽の協奏曲のようにソリストとトゥッティという構成ではありませんから、協奏曲という訳は不適切だと思います。ロシア語の「концерт」(コンツェルト)とは「コンサート」という意味なので、合唱コンチェルトも「(教会でない)演奏会用宗教合唱曲」と理解するのが正しいと考えます。
合唱コンチェルト曲集の中で一番有名なのは、第6番「いと高きには光栄 神に帰し」なのでご紹介しておきます。
私自身は、彼の楽曲は聖歌しか歌ったことがなく、合唱コンチェルトは未経験ですが、アカペラ合唱の美を極めたような曲ばかりで、合唱をある程度やっている人なら歌いたくなるはずです。
19世紀のロシア国民楽派のような、伝統音楽への回帰を重んじる視点からは、ボルトニャンスキーの作風は西欧の古典派音楽そのもので、かなり違和感があるといえます。わが国でも伊福部昭がボルトニャンスキーの聖歌作品について「安価にして軽薄なイタリアまがい」と酷評したそうです。
しかし私に言わせれば、それは後世のロシア音楽を知っているから言える後出しジャンケンのようなもので、極論すれば日本音楽は三味線や尺八で良いというのと同じになってしまいます。むしろ、それまで音楽未開国だったロシア・ウクライナに初めて西洋音楽をもたらした人物という意味において、ボルトニャンスキーのことがもっと評価されても良いのではないかと私は思っています。