九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

榎本武揚 ニコライ大主教との接点

本日、10月26日は旧幕臣榎本武揚(1836-1908)の命日です。

榎本武揚(1868年)

榎本は戊辰戦争の最終決戦である箱館戦争で、旧幕府軍の最高指導者だったにもかかわらず、生き延びて明治新政府で活躍し、後に大臣も歴任するという極めて珍しい経歴の持ち主です。「明治最高の官僚」と呼ばれて、有能さを高く評価されていました。

しかも、日本正教会創立者・ニコライ大主教と「函館」という接点を共有しており、私にとって大変興味深い人物です。

ニコライ大主教

 

榎本は1836年、江戸御徒町で下級旗本の家に生まれました。

偶然とはいえ、ニコライ大主教と同い年です。

 

旗本の子弟の学校・昌平坂学問所での成績は最低レベルでしたが、1857年に入った長崎海軍伝習所で能力が開花。一年間の講習を経て、江戸の築地軍艦操練所の教授になりました。

さらにジョン万次郎の私塾で学んで、英語に堪能となりました。

幕府の学問所で画一的に教える儒学より、近代西洋の工学や語学の方が向いていたのでしょう。適性に合った専門教育は大事ですね。

 

まさにその頃、幕府は鎖国政策を廃止して、1859年に横浜、長崎、箱館(現函館)の三つの港を海外への窓口として開きました。

箱館にはロシア領事館が置かれ、1861年夏、前年にサンクトペテルブルク神学大学を卒業したばかりのロシア人青年司祭が、チャプレンとして赴任しました。後のニコライ大主教です。

このチャペルが後に、日本初の正教会・函館ハリストス正教会に成長します。

函館ハリストス正教会

ニコライの来日と入れ替わるように、榎本は幕府のオランダ留学生に選抜され、1862年6月に出発しました。

彼は現地でただ勉強だけしていたのではなく、幕府の命でオランダやフランスなどの友好国と軍艦や兵器の購入を交渉。幕府がオランダに発注した最新鋭の軍艦「開陽丸」が1866年に完成すると、それに乗って翌年3月に帰国。早速幕府に召し出されて、開陽丸の乗組頭取(艦長)と軍艦頭(幕府艦隊司令官)に任命されました。学問も仕事もできるのだから当たり前ですが、生まれた時の身分からは考えられない出世です。

 

一方、箱館のニコライは日本語やその他の日本関連のことについて勉強していました。西洋に開国したとはいえ、日本人へのキリスト教の布教はまだ御法度でしたが、日本での宣教を夢見て来日したニコライは、将来に向けて準備を怠らなかったのです。

この時、彼の弟子になったのが澤邊琢磨(1834-1913)です。

晩年の澤邊琢磨

澤邊はあの坂本龍馬の従兄弟です。剣の達人でしたが、不祥事を起こして土佐藩を脱藩し、箱館に流れ着いて神主をしていました。

彼はロシア領事館員に日本の剣術を習わせたいというゴシケーヴィチ領事の意向で、領事館に剣術の指南に来ていました。攘夷派の拠点だった土佐出身の彼は、「邪教」のキリスト教の宣教師は日本侵略のために送られたスパイだと本気で思っており、ついにニコライに刀を向けて、問い詰めるに至りました。

しかしニコライに「あなたはキリスト教邪教というが、キリスト教について知っているのですか。知らないのに邪教と決めつけて相手を斬るのはサムライとして道理にかなっているのですか」と日本語で反論されました。そして「ならば話を聞かせてもらおう」といって聞いたニコライの講話にすっかり魅了され、熱心な弟子になりました。迫害者から使徒になったパウロのようです。

 

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さて1867年に榎本が幕府艦隊を率いることになったのも束の間、同年の大政奉還徳川幕府は消滅。ほどなくして薩長軍と旧幕府軍の間で戊辰戦争が始まりました。

1868年1月、榎本艦隊は薩摩の軍艦を撃破しましたが、鳥羽伏見の敗戦で徳川慶喜が江戸に逃亡しました。

よく「幕府軍の兵器は旧式で、最新鋭の兵器を備えた新政府軍に太刀打ちできなかった」と言われるのですが、それは全くの誤りであり、幕府は西洋から輸入した最新式の兵器を配備していました。特に榎本率いる海軍力は薩長を圧倒していました。そこで榎本は列強諸国の支援を獲得できれば勝てると徹底抗戦を主張しましたが、慶喜は聞き入れず、4月に江戸城無血開城されました。

新政府軍は江戸無血開城の条件に、幕府艦隊の引き渡しを要求しましたが、榎本は拒否して開陽丸などの主力艦4隻で逃亡。奥羽列藩同盟に協力して海で戦いました。

 

同じ頃の箱館で、1868年4月、澤邊琢磨ら3人がニコライから日本人として初めて洗礼を受けました。キリスト教禁制下のため、秘密裏に行われたものですが、ニコライは来日から7年かかって、ようやく最初の日本人信徒を獲得できたのです。

ちなみに澤邊の洗礼名はパウェル使徒パウロ)でした。

 

一方、会津陥落後の同年10月、榎本は箱館に進撃。五稜郭を占拠して「蝦夷共和国」を宣言し、自身は総裁に就きました。

函館・五稜郭

これは新政府に対する反乱政権という意味ではなく、新政府とはあくまでも反乱者の薩長の自称に過ぎず、自分たちが日本の正統な政権である幕府の継承者だと対外的に宣言し、西洋列強諸国の支持を求めたものです。

榎本は東北地方から逃れて来た武士たちと共に抗戦しましたが、既に新政府承認に傾いていた列強諸国の支援は得られず、ついに1869年5月、薩摩の黒田清隆率いる新政府軍に降伏しました。

 

さて同年、ニコライは日本宣教について報告するためロシアに帰国。留守を守った澤邊は、函館(箱館から改称)で敗れて賊軍とされた東北諸藩の武士たちに教えを宣べ伝えました。そしてロシアで主教に叙聖されたニコライが1871年に函館に帰ってくると、彼らはこぞって受洗。特に小野荘五郎ら旧仙台藩出身者は12名が洗礼を受け、一大勢力となって仙台に戻り、宣教活動を行いました。

今日でも日本正教会で一番多くの教会がある地域は宮城県岩手県南部、すなわち旧仙台藩領の地域ですが、それには彼ら「箱館で戦ったサムライたちの宣教」という背景があるのです。

 

ちなみに降伏した榎本は処刑されて当然のところ、敵将の黒田清隆が彼の人柄を認めて政府に助命を嘆願。一命を取り留めました。

後の1872年、黒田が北海道開拓長官に就任した時、榎本も釈放されて黒田の部下となり、社会復帰を果たしました。

同じ1872年、ニコライは日本の新首都・東京神田に進出。函館から本拠を移転しました。現在も東京復活大聖堂(ニコライ堂)が立つ、日本ハリストス正教会教団本部です。

 

榎本は社会復帰の2年後の1874年、難行していたロシアとの国境交渉にあたり、語学力と交渉力を買われて駐露特命全権公使に抜擢されました。そしてニコライの祖国でもあるロシアに赴き、翌年5月に千島樺太交換条約の調印を達成。千島列島の全てを日本領とすることに成功しました。

ちなみに条約調印と同年の1875年7月、澤邊琢磨が日本人として初めて、ニコライから正教会司祭に叙聖されています。

 

以後、榎本武揚もニコライ大主教も、それぞれの立場で成功を収めていくのですが、同年齢の二人が若き日に函館で時間を共有していたことに、歴史の巡り合わせの面白さを感じるばかりです。