九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。2019年から九州全域を担当しています。

人吉が生んだ偉人 犬童球渓

本日、10月19日は唱歌旅愁』『故郷の廃家』の作詞者である犬童球渓(いんどうきゅうけい 1879-1943)の命日です。

犬童球渓(1879-1943)

 

人吉市では毎日正午に、『旅愁』のメロディーが防災放送で時報代わりに流されます。事実上の市歌のように親しまれている歌です。

それはもちろん、人吉が生んだ人物の作詞によって有名な歌となったからに他なりません。また今も人吉では、作詞者を呼び捨てではなく、「犬童球渓先生」と呼ぶ人が少なくありません。

恥ずかしながら私は人吉に来るまで、『旅愁』や『故郷の廃家』は歌としては知っていても作詞者の名前までは知らなかったし、ましてその人物が人吉の人だったとはもっと知りませんでした。


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その功績ゆえに、球渓の肩書きは「詩人」「作詞家」と書かれることが多いのですが、本職はあくまでも学校の音楽教師でした。

それでは犬童球渓はどのような生涯を送ったのでしょうか。

 

犬童球渓は明治12(1879)年3月、人吉市で生まれました。本名は信蔵といいますが、故郷の人吉が球磨川の渓谷にあることにちなんで、後に「球渓」というペンネームを名乗りました。

彼が生まれ、また亡くなるまで住んでいた家は今も残っていて、「犬童球渓記念館」となっています。

球渓の旧宅・犬童球渓記念館(筆者撮影)

球渓の音楽室と愛用のピアノ(筆者撮影)

高等小学校を卒業後、小学校の代用教員を経て、明治34年に熊本師範学校を卒業。翌年、東京音楽学校に23歳で入学しました。

ちなみに球渓は滝廉太郎と同い年ですが、滝はストレートに東京音楽学校を卒業してドイツに留学し、しかも球渓が在学中の明治36年に亡くなったので、二人が東音で一緒だったことはありません。

 

明治38年音楽学校を卒業した球渓は、兵庫県立柏原中学校(現・柏原高校)に音楽教師として赴任しますが、ここで事件が起こりました。

時代はまさに、日露戦争で日本軍が勝利を重ねている時期であり、軍国主義に感化された生徒たちが「男のくせに音楽など軟弱だ」と、音楽の授業を集団でボイコットしたのです。

私が教師だったら「アホか。音楽の授業がいけないなら文部省が廃止してるだろう。そもそもお前らの好きな軍隊にだって軍歌もあるし軍楽隊もある。お前らみたいな単純な馬鹿どもは留年だ」といって全員に赤点をつけるところですが、球渓は私と違って性格が優しかったのか、心を患ってしまいました。

もしかしたら戦時下の異常な社会で、学校側も教師である球渓でなく、生徒の側に味方したのかもしれないと、私は勘ぐっています。

いずれにせよ、このために球渓は着任して8か月で柏原中学から新潟高等女学校(現・新潟中央高校)に転任することになりました。

以後、球渓は女学校でしか教鞭を執っていませんが、軍国主義にかぶれた男子(旧制中学は男子校)に振り回されなくて良かったかもしれません。

 

新潟では2年勤務しましたが、在任中の明治40年、遠く離れた故郷の人吉を思い起こして訳したのが『旅愁』の歌詞です。

旅愁の原曲は、アメリカの作曲家ジョン・オードウェイの歌曲「Dreaming of Home and Mother」ですが、球渓は歌詞を直訳するのではなく、自分の心情を詩にしました。よって私は訳詞と呼ぶより作詞といって良いものと思っています。

彼が訳した『旅愁』と『故郷の廃家』は、同年8月に文部省が発行した音楽教科書「中等教育唱歌集」に採用され、一躍人々に知られるようになりました。

 

以後、球渓は明治41年熊本県立高等女学校(現・熊本県立第一高校)、大正7年に人吉高等女学校(現・人吉高校)に転任し、昭和10年に56歳で教師を定年退職しました。

彼はその間、約250曲もの西洋歌曲の訳詞を遺したのです。

退職の翌年の昭和11年には、『球渓歌集 四季』という歌曲集を出版しています。

 

このように、日本の「唱歌」のジャンルに足跡を残した球渓でしたが、昭和18(1943)年10月19日、自ら命を絶ってしまいました。

 

私は着任翌月の2019年11月、上記の犬童球渓記念館を訪ねた時、偶然東京から来ていた球渓のお孫さんに会って話を聞きました。

お話によれば、当時球渓は体調を崩していて、「この非常時にお国のために何の役にも立たない」と言って悩んでおり、それで自殺してしまったとのことでした。球渓は大変生真面目で細かい性格だったそうで、子どもたちに宛てて事細かにいろいろな指示を書き連ねた長文の遺書があったそうです。

私に言わせれば、そんな延々と遺書を書く気力があるのなら、何で生きて家族と語り合わないかなと思うのですが、上記のように授業をボイコットされて心を病むくらい繊細な人だったようですから、生きること自体が苦痛だったのかも知れません。

しかし、直接的な原因でなかったとはいえ、授業ボイコット事件のきっかけは日露戦争、自殺のきっかけは太平洋戦争の戦時社会だったのであり、その意味で彼は間接的な戦争の犠牲者だったといえるかも知れません。返す返すも残念です。

 

球渓の死から4年後の昭和22年11月、人吉市の主催で「犬童球渓顕彰音楽祭」が開催され、現在に至っています。

 

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残念ながら2020年以降は水害とコロナ禍の影響で公開の演奏会は行われず、高校生の音楽コンクールだけしか開催されていません。

人吉市はただでさえお金のない田舎の自治体であり、それに加えて水害からの復興もあって、この歴史ある音楽祭の継続も風前の灯火なのですが、何とかまた軌道に乗ってほしいものです。

 

人吉出身の有名人といえば、かつては巨人の川上哲治、今はたぶんタレントの内村光良でしょうが、知られざる偉人・犬童球渓も皆さんにぜひ知っていてもらいたいと思っています。