九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

神現祭の日に新たな挑戦

今日はユリウス暦で1月6日であり、正教会の大祭の一つである神現祭(Epiphany)の日となります。

神現祭とはイエスヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受け、三位一体の神の子であることを示した出来事(マタイ3章)を記念する祭です。

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イコン「主の洗礼」

西方教会カトリックプロテスタントのこと)では、神現祭は「主の公現」または「顕現祭」といった訳語が充てられていますが、記念するのは降誕したイエスに東方の三博士が会いに来て宝物を献じた出来事(マタイ2章)ですので、正教会とは趣旨が異なっています。ちなみに正教会では、東方の三博士の訪問は降誕祭で記念される出来事です。

 

さて私たちキリスト者は、一言でいえば「イエスは神であり、救世主(キリスト)である」と信じており、その証しとして洗礼を受けています。では、その信じる対象のはずのキリスト自身がなぜ洗礼を受ける必要があったのか。それについては、既に教会のウェブサイトに書いており、同じことを書くのも大変なので、リンクを貼っておきます。

 

その記事にも書いていますが、キリスト教の洗礼とは新約聖書のロマ書(ローマ人への手紙)第6章によれば、「古い自分が死に、新しい自分が再生する」ことを意味しています。

その意味では神現祭の今日、40年ぶりにあることに再挑戦することにしました。バイオリンの練習です。

 

私は小さい頃からクラシック音楽が好きで楽器、特にバイオリンを習いたかったのですが、家では「バイオリンなんか学校の勉強に役立たないのに、金ばかりかかるから駄目だ」と言われてきました。

しかし、高校に入学した時、たくさんある部活動の中でバロック音楽の室内合奏団があるのを見つけ、早速入部してゼロからバイオリンを始めました。勉強して第一志望の高校に受かったのだから、親も文句は言えません(笑)。

同じ曲でも漫然と聞いているのと、実際にアンサンブルで演奏してみるのとでは大違いで、もともと好きだったバロック音楽、特にバッハの作品が一層好きになりました。

ただ、私以外のバイオリンパートの部員は皆、幼稚園からやってきた人たちばかりでした。過去の経験の差は埋めようがないので、大学でオーケストラに入るのは技術的に無理だと思い、高校卒業と同時に楽器は止めて合唱に転向しました。

 

つい先月、妻の勤め先の保育園の関係者のMさんが、バイオリンを習っていると知りました。ご本人に聞いてみると、熊本市在住で週に2回、人吉に出張で来ている講師の方がいて、その先生にレッスンしてもらっているとのことでした。

人吉には大きな合唱団はなく、それに加えてコロナ禍のため、九州に来てから全くリアルな合唱をしていなかったので、違う音楽をやりたいと思っており、大いに心が動きました。

それでMさんに講師の先生を紹介してくれとお願いし、今日のMさんのレッスンに合わせて先生に会いに行きました。そして即、入門を申し込みました。

私はもちろん、妻もMさんとはあまり面識がないので、今になって思うと図々しかったかも知れません(笑)。

とりあえず私のレッスンは来月から開始です。

 

1982年に高校を卒業してからちょうど40年間、全く楽器を触っていませんので、ゼロからやり直すことにしました。

どのくらいの技術レベルを目標にしているのかと聞かれたので、具体的にヴィヴァルディの「調和の霊感」の協奏曲イ短調くらいと答えたら(高校時代は全く無理だったレベル)、4年かければ十分行けると思うので、それまで頑張りましょうとの話でした。

新たに挑戦するのに(正確には再開)遅すぎることはないと普段から思っていますが、これでまた少なくとも4年間、人吉で取り組めるものができました。

私も来年で還暦ですが、神からいただいたこの人生を、何歳になっても豊かなものにしていきたいと思っています。

くまもと復興国際音楽祭

先週の木曜日、9月30日に熊本県北の山鹿市まで「くまもと復興国際音楽祭」の演奏会を聴きに行きました。

 

これはNHK交響楽団コンサートマスターのMAROこと、篠崎史紀氏を音楽監督とする熊本県内のクラシックのコンサートツアーです。

本来は昨年から始まるはずでしたが、コロナのため1年延期となり、今回が第一回となりました。

 

このイベントの発端は2016年4月の熊本地震に始まります。

2回の最大震度7の大地震熊本県内が壊滅的な打撃を受けたのは誰でもご存じのとおりですが、地震の翌月に「くまもと音楽復興支援100人委員会」が結成され、避難所や仮設住宅でのクラシックの慰問演奏会「音楽の炊き出しコンサート」が行われました。

そして地震から1周年の2017年4月14日、「熊本地震復興祈念コンサート」としてマーラー交響曲第2番「復活」が熊本県立劇場で演奏されました。その後、「復興祈念コンサート」では2018年にベートーヴェン「第九」、2019年にヴェルディの「レクイエム」が演奏されています。

この100人委員会が「くまもと復興国際音楽祭実行委員会」にリニューアルされ、今回の開催に至ったものです。

 

今回の演奏会のオケは九州交響楽団ハンブルクフィルハーモニー管弦楽団のジョイント。指揮者はハンブルクフィル音楽監督ケント・ナガノ氏が招聘され、最初の演奏会場も山鹿の「八千代座」と決まっていました。

熊本市のような都会でなく、山鹿のような山奥の田舎の、さらに演芸場みたいなところでなぜ、と思いましたら、日系三世のアメリカ人であるナガノ氏の祖父母が山鹿のご出身とのこと。つまり熊本県とゆかりのある海外のマエストロを呼び、さらにゆかりの地で演奏してもらうという趣向です。

しかし1か月ほど前、コロナによる入国規制のため、ナガノ氏とハンブルクフィルの奏者が日本に入国できないことになってしまい、急遽指揮者は三ツ橋敬子氏、オケも九響単体に変更になりました。

事務局から内容変更のため、チケットの払い戻しに応じる旨のメールが来ましたが、数少ない女性指揮者である三ツ橋氏での演奏を聴いてみたかったので、もちろん払い戻しはしませんでした。

 

演奏会場の八千代座は1910年に建てられた芝居小屋で、国の重要文化財に指定されています。

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重要文化財・八千代座

私が取った席は正面の升席。畳敷きです。

こういうシチュエーションでクラシックの演奏会を聴くのは初めてなので、始まる前からワクワクしました。

 

演目の1曲目はシュテファン・シェーファー作曲「YAMAGA」。

作曲者はハンブルクフィルの首席コントラバス奏者で、この音楽祭のための委嘱作品です。ご本人もオンステージするはずでしたが、上記のとおり入国できず、それは果たせませんでした。

弦楽合奏曲で、後期ロマン派的な曲想の静かで上品な作品でした。

 

2曲目はモーツァルトの「2つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネ K190」です。

ヴァイオリンのソリスト篠崎史紀氏と、元ハンブルクフィルのコンサートマスターの塩貝みつる氏です。ちなみに塩貝氏は篠崎氏の弟子です。

これは初めて聴く曲だったのですが、モーツァルトが17歳の時の作品。二人のソリストの掛け合いと、さらにチェロとオーボエもソロで加わるので、四重奏曲とオケのジョイントのような面白い造りの曲です。

その実質4人のソリストたちのヴィルトゥオーゾな演奏が実に良く、引き込まれました。

 

最後はハイドン交響曲45番「告別」。

ハイドンが雇い主のエステルハージ公爵に、オケの楽団員の休暇を認めさせるために、第4楽章の演奏中に奏者がだんだんと退席してしまい、最後はヴァイオリン2人だけになってしまうという演出を加えていることで有名です。もちろん、こちらの演奏でもその演出は行われました。

もともとオペラの序曲の意味であった「シンフォニア」を拡大させ、今日の独立した音楽のジャンルとしての「交響曲」にしたのはハイドンです。この曲も演出を抜きにしても、従来のバロック音楽とは一線を画した重厚な音楽で、聴き応えがあります。

 

どのステージも、舞台のキャパの関係で室内楽的な小編成のオケでしたが、三ツ橋氏のきびきびしたテンポ感と九響のアンサンブルがじつに良く、大変満足のいく演奏会でした。

また、近代的なコンサートホールでなくて音響はどうかなと思っていましたが、八千代座は実に音響が良く、改めて日本の伝統的な芝居小屋の素晴らしさを実感しました。

クララ・シューマンについて

9月13日はクララ・シューマン(1819-1896)の誕生日です。

彼女は作曲家ロベルト・シューマン(1810-1856)の妻としてだけでなく、本人も女性作曲家のいわば草分けとして有名です。

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ロベルトとクララ・シューマン夫妻

ドイツがユーロを導入する以前の100マルク札には、クララの肖像が描かれていました。彼女がドイツを代表する人物の一人だと社会で認知されていたことの表れでしょう。

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旧100ドイツマルク札

また、2019年9月には彼女の生誕200年を記念して、出身地のライプツィヒで音楽祭「Schumannfest」(シューマン祭)が開催されました。夫のロベルトやメンデルスゾーンなど、同時代の男性の作曲家と比べても遜色のない扱いです。

 

女性作曲家の草分けとしては、彼女より先輩格のファニー・メンデルスゾーン(1805-1847)の方が先駆けかとは思いますが、歌手やピアニストなどの演奏者でなく、男性の分野であった作曲の世界にジェンダーの風穴を開けたという意味で、両者とも注目度が高いと言えるでしょう。

 

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クララは1819年9月13日、高名な音楽教育者のフリードリヒ・ヴィークの娘としてライプツィヒで生まれました。

ヴィークはクララを「第二のモーツァルト」に育てようと目論み、幼い頃からピアノの厳しい英才教育を施しました。

その甲斐あって、彼女はピアニストとして9歳でプロデビュー。

「Wundermädchen」(天才少女)として彼女の名はヨーロッパ中に知れ渡りました。

ヴィークはクララの生活の全てを監督し、日記に書く内容まで指示していたそうです。そのような背景から思うに、彼が娘に音楽を教えたのは、娘のためではなくて、自分自身の名誉と収入のためだったに違いありません。とんでもない毒親だったと私は思います。

 

その意味で彼女が9歳の時、ピアノを習うためにヴィーク家に下宿した18歳の大学生ロベルト・シューマンとの出会いは、大きいものがあったと思うのです。もちろん大学生と小学生の兄妹みたいなものですから、最初から恋愛感情があったとは到底思えませんが。

しかし、クララが思春期を過ぎて、ロベルトを「お兄ちゃん」でなく「男性」として見られるようになった時、一般的な恋愛感情以上に、日記をチェックして娘を監視するような異常な毒親から自分を解放してくれる白馬の騎士のように見えたと考えます。

 

ロベルトが16歳のわが娘と恋仲になったと気づいたヴィークは、二人を引き離すために酷い妨害を繰り返します。しかしロベルトはクララとの結婚を求めて訴訟を起こし、ヴィークと闘いました。

4年後の1840年、ロベルトはようやく勝訴。クララが21歳になる前日の9月12日に、二人は晴れて結婚式を挙げました。

 

ロベルトは裁判に勝ってから結婚するまでの数か月間で、彼の歌曲作品を代表する5つの歌曲集を立て続けに書きました。二つの『リーダークライス』(作品24と39)、『ミルテの花』、『女の愛と生涯』、『詩人の恋』です。

この中では『ミルテの花』の第一曲「献呈」(Widmung)が特に有名です。まさにクララに捧げた歌と言われますが、裁判に勝ってクララとの結婚が認められたロベルトの喜びの感情がストレートに伝わって来て、私も大好きな曲です。


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これらを含めて1840年の一年間に彼は歌曲を120曲以上、つまり彼の歌曲の全作品の大部分を書いています。このため、1840年シューマンの「歌曲の年」と呼ばれています。

 

クララはロベルトと結婚し、13年間で8人の子を設けました。ほとんど切れ目なく妊娠と出産を繰り返していたのですが、著名ピアニストとして活躍していただけではなく、作曲もしていました。

上記のように作曲は男の仕事と思われていた時代によく頑張ったと思いますが、さすがに育児と音楽活動の両立が厳しかったのか、作曲は37歳で止めてしまいました。

そのため、彼女の作品として残っているのは三十数曲しかなく、クララより格段に早く亡くなったのに数百曲の作品を残したファニー・メンデルスゾーンとはかなり異なります。

またクララの作品はほとんどがピアノ曲と歌曲なのですが、唯一の大作といっていいのがピアノ協奏曲作品7です。


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この曲は何と彼女が13歳の時に作曲しました。

オーケストレーションはロベルトが手伝ったとはいえ、とてもちゃんとした良い曲です。特筆すべきは第二楽章が全てピアノとチェロのデュエットということです。ピアノ協奏曲の緩徐楽章で、ピアノと何か楽器の二重奏というのはよくありますが、始めから終わりまでというのは大変珍しいです。

 

ピアノ協奏曲はクララ「ヴィーク」時代の作品ということになりますが、クララ「シューマン」になってからの作品としては、27歳の時に書いたピアノ三重奏曲作品17がとても良いです。重厚で落ち着いた曲です。


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さて、ロベルトとクララの結婚生活はたった16年で悲劇的な終焉を迎えました。

ロベルトは1854年2月に精神に異常をきたし、ライン川に飛び込んで自殺未遂を起こしました。そして療養所から退院することなく、1856年7月に死去したのです。

 

ロベルトの死後のクララとブラームスとの関係について、二人は相思相愛で男女の関係だったとか、いやプラトニックラブだとか、いろいろな説があって音楽史上の議論となっています。

私自身は、少なくともクララはブラームスに対して恋愛感情は全くなかったと考えます。前述のように、幼少期から彼女を支配してきた暴君は毒親のフリードリヒ・ヴィークであり、ロベルトは父と闘って彼女を救ってくれた人なのですから、彼女の中でロベルトは神格化された存在であり、他の男性とは明らかに位置づけが違っていたはずです。

また、ブラームスシューマンの弟子になってわずか半年でシューマンは発狂してしまったのであり、幼子を抱えているクララがいきなり生活面の苦境に立たされ、まして夫が精神異常ということで中傷の危機にもさらされたわけです。そういう状況だから、自分がクララを何とか助けてあげたいと思ったと考えるのが自然です。ブラームスが14歳も年上のクララに対して恋愛感情を持ったかどうかは分かりませんが、持ったとしてもクララが相手をするわけがないので、完全に心の中の片思いでしょう。

クララとの関係においてロベルトが「白馬の騎士」なら、ブラームスは「憧れのマドンナのために尽くす車寅次郎」みたいな存在だったと私は考えています。

 

いずれにせよ、女性作曲家の世界を切り開いたクララ・シューマンは、ブラームスほどではないにしても(笑)、私にもファニー・メンデルスゾーンと並んで愛する女性です。

カール・ベーム没後40年

8月11日から降り始めた大雨も、今日で四日目を迎えました。

今は雨雲の中心は同じ九州でも北西部の方へ移っていて、72時間で8月1か月分の3倍の雨を降らせています。熊本県内も2倍超です。

来週以降も降り続くようで今後が心配です。

 

さて今日は1981年8月14日に、大指揮者のカール・ベームが永眠してちょうど40年となる日です。

 

私は小学生の頃からクラシック音楽を聴くのが好きでしたが、小5だった75年3月のベームウィーンフィル(VPO)の来日公演は、間違いなく完全に私のクラシック好きを燃え上がらせました。

当時、わが国はまだクラシック向きの良いコンサートホールがない時代で、この公演もなんと紅白歌合戦と同じNHKホールで行われたのですが、NHKは連日この公演を放送しました。当時のテレビはまだステレオ放送などなく、普通のテレビ音声でしたが、それでもかじりつくように視聴しました。

幸いなことに現在は当時の映像と音声をYouTubeで視聴できますが、今聴いてもこの75年来日公演のベームとVPOの演奏は、ベートーヴェンブラームスといったドイツ・オーストリア系音楽の一つの模範演奏のように私は思います。

 

これは75年3月17日に演奏されたブラームス交響曲1番のライブ録音動画です。

最近の指揮者はかなり速く演奏する傾向にありますが、第一楽章の速過ぎず遅過ぎずのどっしり感といい、第四楽章のレガートを多用し、川の流れが迫ってくるような圧力の出し方といい、この曲の史上ベスト演奏の一つではないかと思っています。

この時、ベームは80歳ですが、指揮している本人もかなり熱気がこもっているように感じられます。


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 ベームは日本が気に入ったようで、その後77年、80年と立て続けに来日しました。

私はテレビでしか視聴していませんが(当時中高生ですからライブでVPOを聴きに行くなんて到底無理)、ベームは年を追うごとに体の衰えが進んでいたせいか、75年の時ほどの鮮烈な印象には乏しかったように思いました。以前よりは音楽がちょっと緩慢になって来たという感じでしょうか。しかし、もちろんベームとVPOですから、演奏のレベル自体はとても良かったです。

 

これは80年10月6日、完成直後の人見記念講堂で行われたベームとVPOによるベートーヴェン交響曲7番のライブ動画です。

ベームが亡くなる前年で、これが1938年から彼が振ってきたVPOとの最後の演奏になりました。

本番中も椅子に座ったままで、もともと動きの少ない指揮がさらに緩慢になっていて、ちょっと痛々しくも見えるのですが、死力を振り絞ってベートーヴェンに向き合っているように私には思えてなりませんでした。


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ベームの指揮による録音はたくさん持っているのですが、自分が特に気に入っている演奏のものをご紹介しておきます。

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私の愛聴盤・ベーム指揮による演奏

写真の左上は63年から71年にかけてのベルリンフィルBPO)による「シューベルト交響曲全集」。

シューベルトは「歌曲王」だったわけですが、そういう歌心がよく表わされていて心地よく聴けます。どれも良い演奏ですが、特に5番と8番「未完成」が秀逸です。

 

右上は60年代にBPOと演奏したモーツァルト交響曲全集から、有名な9曲だけ抜粋した「モーツァルト九大交響曲集」。

どれもメリハリがあって素晴らしい演奏です。特に41番「ジュピター」が良いです。

 

左下は75年にVPOと演奏したブラームス交響曲4番。

ベームの指揮によるブラームス交響曲は4曲とも録音を持っていますし、「一つの模範演奏」と書いたようにどれもとても良いのですが、4つから1枚選べと言われたら私はこの4番を挙げます。

緊張感のみなぎった第一楽章を過ぎて、第二楽章の第二主題をチェロが歌うように弾き始めると、それまでの緊張感が解き放たれて魂を揺さぶられます。それから第三楽章がスケルツォをドンチャカと奏でた後、また第四楽章でぐっと締め付けてきます。そういう楽章間の曲想の色分けが実に見事な演奏です。

 

右下は73年にVPOと演奏したブルックナー交響曲4番「ロマンティック」。

ブルックナーは私の大好きな作曲家の一人ですが、昔は曲が長いばかりでどこが良いのかさっぱり分かりませんでした。

その印象を変えたのがこの演奏です。

冒頭のホルンのソロは、ブルックナーベームの故郷のオーストリアの山並みから朝日が昇ってくるような清々しさ(実際に見たことはありませんが)。いきなり虜になってしまう感があります。

ロマンティックはあまりブルックナーぽくない(?)曲ではあるのですが、この盤を聴いて初めて「ああ、ブルックナーっていいな」と思い、今に至っています。

 

どのCDも30年ほど前に買ったものばかりです。当時のCDは1枚3000円くらいしましたので高い買い物になりましたが、良い音楽、良い演奏というのは不滅の価値があると考えています。そういう意味では、半世紀も前のベームの演奏を今も聴くことができるのは、大きな財産だと思っています。

キリシマ祝祭管弦楽団の演奏会へ

昨日は鹿児島の宝山ホールへ。

霧島国際音楽祭のメイン公演ともいうべき、キリシマ祝祭管弦楽団の演奏会を聴くためです。

このオケは音楽祭のために、国内のプロオーケストラのコンサートマスターや首席奏者を集めて編成したもの。そこに音楽祭のマスタークラスを受講している若手奏者がジョイントしています。

指揮は鈴木優人さん。プロ野球のオールスターのようなオケです。

チケットを買った時から聴くのが楽しみでワクワクしていました。

 

 

鹿児島に着いた時は開場時間までかなり余裕があったので、ホールの周りを少し歩きました。暑かったですが。

宝山ホール鹿児島市の中心地、島津氏の居城・鶴丸城の向かいにあります。周囲には、明治から戦前にかけて建てられた豪華な洋風建築がたくさんあり、ヨーロッパの街を歩いているような気分になります。

 

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鹿児島県政記念館(旧鹿児島県庁本庁舎・1925年)

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旧鹿児島県立興業館(1883年)

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鹿児島市中央公民館(1927年)

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鹿児島県教育会館(1931年)

さて、ホールに入って19時に開演。一曲目はシューベルト交響曲第8番「未完成」です。

速度は速めで、明るめの音作り。若々しい印象です。

私自身は、この曲をゆっくり演奏されると曲調がおどろおどろしくなってしまい、好きではありません。ですので、自分にはとても心地よく聴けました。

 

二曲目はベートーヴェン交響曲第5番「皇帝」。ピアノのソリスト上原彩子さんです。

彼女は2002年の第12回チャイコフスキー国際音楽コンクールピアノ部門で、日本人として、かつ女性として初めてグランプリを獲った人です。しかも、ピアノをヤマハ音楽教室で学んだだけで、音大を出ていません。

彼女の録音も何枚か持っていますが、技術力で聴かせるよりも自然に歌心が沸き上がってくるような演奏をするタイプです。天才肌なのでしょう。

今回の演奏も素晴らしかったです。オケはかなり速めで力強さを強調した演奏でしたが、ピアノがオケと一緒になっている箇所はオケの方にテンポをしっかり合わせ、ソロになる箇所では自分のテンポで、ルバート気味に歌うように弾くのです。

その自由自在さがとても良かったです。

 

最後はベートーヴェン交響曲第7番。これでもかと言うくらい有名な曲が続きます。

ワーグナーはこの曲を「舞踏の神化」と呼んだのは有名な話ですが、マエストロも曲全体を「舞曲的」に統一しようとしていたのが感じられました。

この交響曲は、終始「タンタタ タンタタ」というリズムを、楽章ごとにテンポや調性を変化させているのですが、マエストロはちょっとスタッカート気味の軽快な感じにしていました。

第二楽章をテヌート気味に演奏する指揮者もいますが、私にはそれが葬送行進曲みたいに聞こえてしまい、好きではありません。鈴木マエストロの演奏では王宮の舞踏会のように優雅でとても好感が持てました。

そして第四楽章。速度指示はアレグロ・コン・ブリオですが、完全にプレストでした(笑)。こんなに速く振ったらオケがズレちゃうでしょ、と思いましたが、さすが一流の奏者が集まっているだけあって全くズレませんでした。

そのまますごい迫力で終了。コロナ対策で「ブラボー禁止」のため、手を叩くしかないのですが、私も他の聴衆も熱狂しました。

 

アンコールの後は聴衆の拍手とともにヨハン・シュトラウス一世の「ラデツキー行進曲」。ウィーンフィルニューイヤーコンサートみたいなノリで、21時半に終演しました。

 

今回の演奏会はコロナが一旦収束した時期にチケットが販売されたためか、席の間隔を開けずにぎっしり聴衆で埋まっていました。

しかし、これまでコロナ禍でクラシックの演奏会の多くは中止となりましたし、今また感染が再拡大したことで、また演奏会ができなくなることも予想されます。

その意味で、今回はこういう良い演奏会を聴くことができたのはラッキーでした。

本当に早くコロナが収束して、音楽に限らずいろいろなエンタテインメントを楽しめるようになってほしいものです。


カラヤンについて

火曜日に東京で父の墓参に行ったと書きました。

父の実際の命日は今日、7月16日です。

 

7月16日に亡くなった人物で最も有名なのは、たぶん指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンだろうと思います。

カラヤンが亡くなったのは1989年。そのちょうど20年後の2009年7月16日に、私の父が亡くなりました。ただの偶然であって、父は音楽に縁もゆかりもないですが(笑)

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ヘルベルト・フォン・カラヤン

ちなみにカラヤンが亡くなったわずか1年後の1990年10月、レナード・バーンスタインが亡くなっています。私はクラシック音楽を聴くのが好きなのですが、こんなに立て続けに超大物の巨匠がいなくなってしまい、クラシック音楽の世界はどうなっていくのかと思った記憶があります。

そもそも89年は11月にベルリンの壁が崩壊し、東欧の「共産主義体制」自体が消滅に向かっていて、世界がこれからどうなるのかと思われていました。

また、私が結婚したのはカラヤンが亡くなった2か月後の89年9月。長男が生まれて初めて人の親になったのは、バーンスタインが亡くなった2か月後の90年12月でした。今から思うと、自分自身の人生もこれからどうなっていくかなと、初々しい新婚生活でウキウキしていた時期でもあります。

社会面でもプライベートでも、いろいろな意味でこの時期は思い出深いものがあります。

 

さてカラヤンは多くの録音を残しており、私も彼の指揮による演奏のCDをたくさん持っています。カール・ベームオイゲン・ヨッフムのような同時代のドイツ人の指揮者は、ベートーヴェンブラームスブルックナーなどのドイツ・オーストリア系の作曲家の作品ばかり演奏しているのですが、カラヤンはかなりレパートリーが広いです。

しかし私自身の好みからいうと、カラヤンの演奏は速さがインテンポすぎて、聴いていてあまり面白みを感じません。音楽評論家でもないのに偉そうですが(笑)

 

彼の生涯最後の録音は亡くなる3か月前にウィーン・フィルを指揮して演奏したブルックナー交響曲7番です。

カラヤンは外見にもこだわりがあったと言われており、実際指揮する立ち姿はなかなか美しいものがありましたが、さすがに晩年の数年間は映像を見てもヨボヨボで、ちょっと痛々しい姿でした。(最後の演奏の映像は格好良かった頃の写真の固定画像であり、実際の演奏の時の映像は残していない)

他の指揮者も晩年で体が衰えてくると、総じてテンポがもたつき気味になります。

しかし、このカラヤン最後の演奏は比較的早めの淡々としたテンポです。個人的には「淡々としたブルックナー」というのは好きではないのですが…


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しかし、カラヤンの指揮によるチャイコフスキー作品の演奏だけは、とても歌心があって引き込まれます。よほどチャイコフスキーの作風がカラヤンの好みに合っているのではないかと思います。要するに指揮者の感情移入の度合いが、他の作曲家の作品を指揮する時と極端に違うように感じられるのです。

ですのでチャイコフスキーのオーケストラ作品を聴くときだけは、カラヤン指揮の録音を選んでいます。

 

ご紹介するのはカラヤンが亡くなる前年の88年5月、サントリーホールベルリン・フィルを指揮して演奏したチャイコフスキー交響曲6番「悲愴」です。カラヤンは何回も来日していますが、これは日本での最後の演奏ということになります。


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カラヤンチャイコフスキー…私の中ではいつも最高の組み合わせです。

もう一人のメンデルスゾーン

今日は人吉ハリストス正教会での、子育て支援サロンの開催日。

会場の旧司祭館を開けましたが、コロナ感染拡大の影響か、我々お手伝いスタッフ以外に来場者はありませんでした。

それで今日は教会の敷地内の草刈りを実施。

復活祭の前後は忙しくて、境内を放置していたら、わずか1か月で腰の高さまで雑草が伸びてしまいました!!

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おびただしい境内の雑草(本来は駐車場の通路)

2時間ほど作業して、とりあえず来客用の駐車スペースは綺麗にしましたが、先は長いです。

 

さて今日は作曲家フェリックス・メンデルスゾーンの姉、ファニー・メンデルスゾーン(1805-1947)が亡くなった日です。

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ファニー・メンデルスゾーン

 

フェリックス・メンデルスゾーンは私が大好きな作曲家の一人。管弦楽室内楽も、ピアノ曲も合唱曲も、どれを聴いても秀逸です。

モーツァルトと同じく、10代でオーケストラ作品を書いていたのですから、やはり天才だったと言わざるを得ません。

しかし、彼に4歳年上のファニーという姉がいて、しかも弟に勝るとも劣らない作曲家だったとはずっと知りませんでした。

 

2006年、出版されたばかりのファニーの伝記『もう一人のメンデルスゾーン』を書店でたまたま見かけて購入。そこでファニーのことを初めて知り、俄然興味がわきました。

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ファニーの伝記『もう一人のメンデルスゾーン

メンデルスゾーン家はユダヤ系の大富豪だったことは有名ですが、姉弟は家で高度なさまざまな教育、特に音楽教育を受けました。

それで二人とも音楽の才能が開花したわけですが、ファニーは自分が作曲や演奏活動をするかたわら、弟の音楽の紹介者・助言者でもあり続けました。

彼女は41年の短い生涯で約600曲を書いたと考えられています。そのほとんどはピアノ曲と歌曲でしたが、数少ないオーケストラ曲に「序曲ハ長調」があります。

ちょっとベートーヴェンのオマージュみたいな曲ですが、さらに上品な作風です。


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一方フェリックスは姉の音楽の才能を理解していたものの、職業音楽家として自作を発表したり演奏したりするのを、必ずしも快く思っていませんでした。それは一つには、良家の子女が一般社会の前に出ること、とりわけ音楽家、今日でいう芸能人のようなことをするのは、はしたないという感覚がありました。

しかし、もう一つの理由として、フェリックスは姉との一体感を強く持っていたにも関わらず、あるいその故に、彼女をライバル視してもいたのです。

実際、フェリックスはファニーが1847年5月に急死したとの報を聞いて体調を崩し、自身も11月に姉の後を追うように、38歳の若さで亡くなってしまいました。

 

フェリックスが姉をライバル視し、しかし姉の才能を認めていた表れとしては、歌曲のようにメロディーと伴奏の旋律があって、それをピアノだけで弾く「無言歌」というピアノ曲のジャンルが挙げられます。

フェリックスのピアノ曲集として有名ですが、実際にジャンルとしての「無言歌」を作ったのはファニーです。つまり、弟は姉の作風をパクってしまったのです。さらには曲集の中の楽曲も、実際はファニーが書いたものも含まれていると考えられています。

参考にファニー作曲の「ピアノのための四つの無言歌」を挙げておきます。


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また、フェリックスはファニーが書いた歌曲を自分の作品として発表したケースもありました。

「イタリア」(Italien)という歌曲は英国のヴィクトリア女王のお気に入りだったそうですが、フェリックスが女王に謁見してそのことを言われた時、「あの曲は実は姉の作品です」と白状(?)したというエピソードがあります。


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そのような背景もあって、ファニーは「女性作曲家の草分け」という音楽史上重要な人物だったはずが、弟の名に隠れて近年まで知られて来なかったのです。

後年、クララ・シューマンが女性音楽家として名を遺しましたが、それはファニー・メンデルスゾーンという先駆者がいたので、社会に受け入れる準備ができたからかも知れません。

 

以前、日本初の女性西洋画家としてイコンを描いた山下りんについて書きましたが、洋の東西を問わず、女性が社会で活躍することへのハードルが高かった時代に、自分の才能に賭け、時代の先駆けとなった女性がいたことは尊敬すべきことだと思っています。

 

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