会場の旧司祭館を開けましたが、コロナ感染拡大の影響か、我々お手伝いスタッフ以外に来場者はありませんでした。
それで今日は教会の敷地内の草刈りを実施。
復活祭の前後は忙しくて、境内を放置していたら、わずか1か月で腰の高さまで雑草が伸びてしまいました!!
2時間ほど作業して、とりあえず来客用の駐車スペースは綺麗にしましたが、先は長いです。
さて今日は作曲家フェリックス・メンデルスゾーンの姉、ファニー・メンデルスゾーン(1805-1947)が亡くなった日です。
フェリックス・メンデルスゾーンは私が大好きな作曲家の一人。管弦楽も室内楽も、ピアノ曲も合唱曲も、どれを聴いても秀逸です。
モーツァルトと同じく、10代でオーケストラ作品を書いていたのですから、やはり天才だったと言わざるを得ません。
しかし、彼に4歳年上のファニーという姉がいて、しかも弟に勝るとも劣らない作曲家だったとはずっと知りませんでした。
2006年、出版されたばかりのファニーの伝記『もう一人のメンデルスゾーン』を書店でたまたま見かけて購入。そこでファニーのことを初めて知り、俄然興味がわきました。
メンデルスゾーン家はユダヤ系の大富豪だったことは有名ですが、姉弟は家で高度なさまざまな教育、特に音楽教育を受けました。
それで二人とも音楽の才能が開花したわけですが、ファニーは自分が作曲や演奏活動をするかたわら、弟の音楽の紹介者・助言者でもあり続けました。
彼女は41年の短い生涯で約600曲を書いたと考えられています。そのほとんどはピアノ曲と歌曲でしたが、数少ないオーケストラ曲に「序曲ハ長調」があります。
ちょっとベートーヴェンのオマージュみたいな曲ですが、さらに上品な作風です。
一方フェリックスは姉の音楽の才能を理解していたものの、職業音楽家として自作を発表したり演奏したりするのを、必ずしも快く思っていませんでした。それは一つには、良家の子女が一般社会の前に出ること、とりわけ音楽家、今日でいう芸能人のようなことをするのは、はしたないという感覚がありました。
しかし、もう一つの理由として、フェリックスは姉との一体感を強く持っていたにも関わらず、あるいその故に、彼女をライバル視してもいたのです。
実際、フェリックスはファニーが1847年5月に急死したとの報を聞いて体調を崩し、自身も11月に姉の後を追うように、38歳の若さで亡くなってしまいました。
フェリックスが姉をライバル視し、しかし姉の才能を認めていた表れとしては、歌曲のようにメロディーと伴奏の旋律があって、それをピアノだけで弾く「無言歌」というピアノ曲のジャンルが挙げられます。
フェリックスのピアノ曲集として有名ですが、実際にジャンルとしての「無言歌」を作ったのはファニーです。つまり、弟は姉の作風をパクってしまったのです。さらには曲集の中の楽曲も、実際はファニーが書いたものも含まれていると考えられています。
参考にファニー作曲の「ピアノのための四つの無言歌」を挙げておきます。
また、フェリックスはファニーが書いた歌曲を自分の作品として発表したケースもありました。
「イタリア」(Italien)という歌曲は英国のヴィクトリア女王のお気に入りだったそうですが、フェリックスが女王に謁見してそのことを言われた時、「あの曲は実は姉の作品です」と白状(?)したというエピソードがあります。
そのような背景もあって、ファニーは「女性作曲家の草分け」という音楽史上重要な人物だったはずが、弟の名に隠れて近年まで知られて来なかったのです。
後年、クララ・シューマンが女性音楽家として名を遺しましたが、それはファニー・メンデルスゾーンという先駆者がいたので、社会に受け入れる準備ができたからかも知れません。
以前、日本初の女性西洋画家としてイコンを描いた山下りんについて書きましたが、洋の東西を問わず、女性が社会で活躍することへのハードルが高かった時代に、自分の才能に賭け、時代の先駆けとなった女性がいたことは尊敬すべきことだと思っています。