9月13日はクララ・シューマン(1819-1896)の誕生日です。
彼女は作曲家ロベルト・シューマン(1810-1856)の妻としてだけでなく、本人も女性作曲家のいわば草分けとして有名です。
ドイツがユーロを導入する以前の100マルク札には、クララの肖像が描かれていました。彼女がドイツを代表する人物の一人だと社会で認知されていたことの表れでしょう。
また、2019年9月には彼女の生誕200年を記念して、出身地のライプツィヒで音楽祭「Schumannfest」(シューマン祭)が開催されました。夫のロベルトやメンデルスゾーンなど、同時代の男性の作曲家と比べても遜色のない扱いです。
女性作曲家の草分けとしては、彼女より先輩格のファニー・メンデルスゾーン(1805-1847)の方が先駆けかとは思いますが、歌手やピアニストなどの演奏者でなく、男性の分野であった作曲の世界にジェンダーの風穴を開けたという意味で、両者とも注目度が高いと言えるでしょう。
クララは1819年9月13日、高名な音楽教育者のフリードリヒ・ヴィークの娘としてライプツィヒで生まれました。
ヴィークはクララを「第二のモーツァルト」に育てようと目論み、幼い頃からピアノの厳しい英才教育を施しました。
その甲斐あって、彼女はピアニストとして9歳でプロデビュー。
「Wundermädchen」(天才少女)として彼女の名はヨーロッパ中に知れ渡りました。
ヴィークはクララの生活の全てを監督し、日記に書く内容まで指示していたそうです。そのような背景から思うに、彼が娘に音楽を教えたのは、娘のためではなくて、自分自身の名誉と収入のためだったに違いありません。とんでもない毒親だったと私は思います。
その意味で彼女が9歳の時、ピアノを習うためにヴィーク家に下宿した18歳の大学生ロベルト・シューマンとの出会いは、大きいものがあったと思うのです。もちろん大学生と小学生の兄妹みたいなものですから、最初から恋愛感情があったとは到底思えませんが。
しかし、クララが思春期を過ぎて、ロベルトを「お兄ちゃん」でなく「男性」として見られるようになった時、一般的な恋愛感情以上に、日記をチェックして娘を監視するような異常な毒親から自分を解放してくれる白馬の騎士のように見えたと考えます。
ロベルトが16歳のわが娘と恋仲になったと気づいたヴィークは、二人を引き離すために酷い妨害を繰り返します。しかしロベルトはクララとの結婚を求めて訴訟を起こし、ヴィークと闘いました。
4年後の1840年、ロベルトはようやく勝訴。クララが21歳になる前日の9月12日に、二人は晴れて結婚式を挙げました。
ロベルトは裁判に勝ってから結婚するまでの数か月間で、彼の歌曲作品を代表する5つの歌曲集を立て続けに書きました。二つの『リーダークライス』(作品24と39)、『ミルテの花』、『女の愛と生涯』、『詩人の恋』です。
この中では『ミルテの花』の第一曲「献呈」(Widmung)が特に有名です。まさにクララに捧げた歌と言われますが、裁判に勝ってクララとの結婚が認められたロベルトの喜びの感情がストレートに伝わって来て、私も大好きな曲です。
これらを含めて1840年の一年間に彼は歌曲を120曲以上、つまり彼の歌曲の全作品の大部分を書いています。このため、1840年はシューマンの「歌曲の年」と呼ばれています。
クララはロベルトと結婚し、13年間で8人の子を設けました。ほとんど切れ目なく妊娠と出産を繰り返していたのですが、著名ピアニストとして活躍していただけではなく、作曲もしていました。
上記のように作曲は男の仕事と思われていた時代によく頑張ったと思いますが、さすがに育児と音楽活動の両立が厳しかったのか、作曲は37歳で止めてしまいました。
そのため、彼女の作品として残っているのは三十数曲しかなく、クララより格段に早く亡くなったのに数百曲の作品を残したファニー・メンデルスゾーンとはかなり異なります。
またクララの作品はほとんどがピアノ曲と歌曲なのですが、唯一の大作といっていいのがピアノ協奏曲作品7です。
この曲は何と彼女が13歳の時に作曲しました。
オーケストレーションはロベルトが手伝ったとはいえ、とてもちゃんとした良い曲です。特筆すべきは第二楽章が全てピアノとチェロのデュエットということです。ピアノ協奏曲の緩徐楽章で、ピアノと何か楽器の二重奏というのはよくありますが、始めから終わりまでというのは大変珍しいです。
ピアノ協奏曲はクララ「ヴィーク」時代の作品ということになりますが、クララ「シューマン」になってからの作品としては、27歳の時に書いたピアノ三重奏曲作品17がとても良いです。重厚で落ち着いた曲です。
さて、ロベルトとクララの結婚生活はたった16年で悲劇的な終焉を迎えました。
ロベルトは1854年2月に精神に異常をきたし、ライン川に飛び込んで自殺未遂を起こしました。そして療養所から退院することなく、1856年7月に死去したのです。
ロベルトの死後のクララとブラームスとの関係について、二人は相思相愛で男女の関係だったとか、いやプラトニックラブだとか、いろいろな説があって音楽史上の議論となっています。
私自身は、少なくともクララはブラームスに対して恋愛感情は全くなかったと考えます。前述のように、幼少期から彼女を支配してきた暴君は毒親のフリードリヒ・ヴィークであり、ロベルトは父と闘って彼女を救ってくれた人なのですから、彼女の中でロベルトは神格化された存在であり、他の男性とは明らかに位置づけが違っていたはずです。
また、ブラームスがシューマンの弟子になってわずか半年でシューマンは発狂してしまったのであり、幼子を抱えているクララがいきなり生活面の苦境に立たされ、まして夫が精神異常ということで中傷の危機にもさらされたわけです。そういう状況だから、自分がクララを何とか助けてあげたいと思ったと考えるのが自然です。ブラームスが14歳も年上のクララに対して恋愛感情を持ったかどうかは分かりませんが、持ったとしてもクララが相手をするわけがないので、完全に心の中の片思いでしょう。
クララとの関係においてロベルトが「白馬の騎士」なら、ブラームスは「憧れのマドンナのために尽くす車寅次郎」みたいな存在だったと私は考えています。
いずれにせよ、女性作曲家の世界を切り開いたクララ・シューマンは、ブラームスほどではないにしても(笑)、私にもファニー・メンデルスゾーンと並んで愛する女性です。