九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

山下りんの命日にあたって

1月26日は、昭和14年に日本人初のイコン画家・山下りん(1857-1939)が永眠した日です。

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山下りん

幕末に現在の茨城県笠間市で生まれたりんは、絵描きになりたいという夢を抱いて上京。紆余曲折を経て、開校後間もない工部美術学校(現・東京芸術大学)に1877年に入学しました。

彼女は同級生に誘われて、神田の正教会(現ニコライ堂)に通うようになり、ニコライ主教(当時。現・亜使徒聖ニコライ)から洗礼を受けました。

彼女は美術学校でも絵の才能が女子で一番だったそうですが、ニコライはその才能に注目し、イコン画家として育てるために1880年、彼女をサンクトペテルブルクに留学させました。

日本が開国してわずか20年しか経っていない時代に、茨城県の田舎から出てきた少女が、言葉も通じないロシアに留学するとは、私にはそのチャレンジャーぶりが驚きです。

慣れないロシアでの生活で体調を壊すなどしたため、わずか2年で帰国しましたが、その後彼女はニコライ堂の敷地内に住み、日本正教会専属のイコン画家として多くのイコンを残しました。

彼女は1912年2月、ニコライの永眠を看取った一人でもあります。

1916年、火事で焼けた函館ハリストス正教会(現・重要文化財)が再建された時にも彼女はイコンを描いていますが、これがほぼ最後の仕事となりました。

還暦を迎えて視力が衰えた彼女は、自分の満足できるイコンが描けなくなったと悟り、1918年に潔く画家を辞めて故郷の笠間に帰りました。生涯独身だった彼女は、弟の小田峯次郎宅の離れで約20年の余生を送り、そこで亡くなりました。

小田家も生家の山下家もクリスチャンホームでなく、りん自身も自分の画家としてのキャリアについて周囲にほとんど話しませんでした。そのため彼女が亡くなった時は仏式で葬られ、また彼女の遺品も柳行李に入ったまま放置されていたそうです。

1970年代になって山下りんが注目され始め、小田家にあった彼女の柳行李を開けたところ、おびただしい数のイコンの下絵や風景のスケッチなどが発見されて、彼女の業績が死後数十年もたって明らかになったそうです。

 

私は山下りんの作品や日本人女性初の西洋画家というキャリアもさることながら、彼女の生き方にぞっこん惚れ込んで、約7年前の2013年暮れに彼女の故郷の笠間まで行ったことがあります。

笠間には峯次郎の孫の小田秀夫氏(故人)が、小田家の敷地内に山下りんの記念館「白凛居」を建て、そこに彼女の遺品や資料が公開されています。現在は秀夫氏の娘にあたる方が館長です。

上記の彼女の逸話は、白凛居に行って館長に聞いたものです。

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山下りん記念館「白凛居」

山下りんの墓は市内の光照寺という寺にあると事前に調べていましたので、カーナビを頼りに光照寺にも行き、たくさん並んでいる墓の中から彼女の墓を発見。お参りして来ました。

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山下りんの墓

彼女の作品は全てが明治時代後半から大正初期にかけて描かれたものであり、従ってその時代に建てられた教会には今も残っています。わが人吉教会にも一枚だけあります。

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山下りん「主の晩餐」、人吉ハリストス正教会

しかし、残念ながら戦災や自然災害で教会が被災したところでは彼女のイコンも失われてしまいました。直近では2011年の東日本大震災で、岩手県山田町の山田ハリストス正教会が全焼し、彼女の作品も焼失しています。

 

彼女が永眠して80年以上が過ぎましたが、19世紀の日本女性としては考えられないような稀有な人生、そして描くことに対する妥協のない信念は、今も私の心をとらえて離さないように感じています。