九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

人吉で降誕祭

昨日は人吉ハリストス正教会で降誕祭の聖体礼儀を行いました。日本正教会の降誕祭は1月7日ですが、私は一人で4教会を兼務している関係上、ローテーションで人吉の降誕祭は毎年「12月の第四日曜日」に行っています。今年はたまたま12月の第四日曜日が25日だったので、人吉では西方教会と同日にクリスマスとなりました。

降誕祭聖体礼儀(説教)


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雪でどうなることかと心配しましたが、土曜日の時点で教会の境内に積雪は全くなく、何の支障もなしに祈祷を行うことができました。神に感謝です。

高速道路の通行止めも昨日朝にようやく解除され、えびの市(宮崎県)から通っている人も参祷できました。

ただ、一家で保育園を経営しているO家は、保育園でのクリスマスイベントと重なって全員欠席でした。親子3代8人の大家族なので、トータルの参祷者数が見込みより大幅に変わってしまいました。それだけ人吉は小規模な教会ということですが…

 

昨年末はコロナが収束していたので、購入した弁当を参祷者に配り、祈祷後に会食できましたが、今はまた一層感染拡大しているので、弁当は参祷者に持ち帰ってもらい、祈祷後の会食はしませんでした。一昨年末と同じ対応です。

熊本県では連日4千人台の感染者が出ており、人口当たりの新規感染者数が全国トップクラスの状況。人口3万人しかいない人吉市でも、毎日数百人の感染者が出ています。県の当局はかなり危機感を持っています。

せっかくのクリスマスなのに残念ですが、教会として感染拡大防止を進めるためには仕方ありません。

 

滞りなく祈祷を終え、午後は毎週通っているバイオリン教室のクリスマスイベント兼保護者会へ。

私は2月から、40年ぶりにバイオリンを再開したと以前投稿しました。子どもが中心のバイオリン教室なのですが、シニア世代の生徒も数人だけいます。つまり、会場には多くの大人たちがいましたが、私は保護者のお爺ちゃんではなく、生徒の側だったということです。

もっともシニア生徒の中で男性は私一人だけなのですが。

 

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シニア組も合奏を披露。私は第二バイオリンです。

バイオリンの合奏

祈祷もプライベートも、充実したクリスマスの一日でした。

ホワイトクリスマス 教会としてはちょっと…

九州全域で昨夜から雪が降り続いています。

人吉でも朝、司祭館から外を見てみたら、5㎝ほど積もっていました。

人吉の朝(7時半頃)

九州でも熊本県と鹿児島県の県境の山間部が、特に積雪しているようです。

国道で車の立ち往生も発生しています。わが人吉からもそう遠くない場所です。

 

九州は温暖な場所で、雪道での車の立ち往生など北陸か東北の話だと思われる方も多いかも知れませんが、そんなことは全くありません。

九州で雪の時は、九州自動車道も八代とえびのの間は真っ先に通行止めになります。人吉はその中間地点にあります。

つまり、九州の中で夏も冬も自然災害が多く(大雨と雪)、すぐ陸の孤島になってしまうような場所に私は置かれて、九州全土の宣教を命じられているわけです…

 

ちょうど人吉ハリストス正教会では、この週末に降誕祭の祈祷を行うことになっています。

教会の敷地に入るには、狭い急坂を上らねばならないので、雪が積もったり凍結したりしたら車で来た参祷者が立ち入ることができず、降誕祭もできなくなります。

人吉教会の境内には全く照明がなく、悪天候の夜は危険なので、安全に配慮して明日夜の前晩祷(いわゆるクリスマスイブの祈祷)は中止するとネットで告知しましたが、さすがに降誕祭の聖体礼儀を止めることはできません。

そこで昼に教会に行って雪かきをしました。

 

教会に着いてみると、雪の水分が多くて溶けやすいせいか、坂道に雪は積もっておらず、敷地内も積雪は予想したほどではありませんでした。

人吉の聖堂前(11時半頃)

とりあえず聖堂の前を雪かきして駐車スペースを確保。

雪かきして駐車スペースを確保

しかし司祭館に戻った後、午後から雪の降りが一層激しくなり、ついに大雪警報が発令されました。

明日の朝まで降り続く予報なので、明日はまた教会に行って雪かきをしなければならないでしょう。さらに人吉の冬の夜は連日氷点下なので、凍結も予想されます。

つまり今日の雪はまだ序の口だったということです。

 

「ホワイトクリスマス」という言葉は響きとしては良いかもしれませんが、正直なところ教会を運営している側としてはちょっと勘弁、という気持ちです。

北海道や日本海側の地方はもっと大変な災害レベルの豪雪になっていますから、そちらの方面の教会は教派を問わず、今週末のクリスマスも大変なことでしょう。

どなたも大雪への備えを万全にして、平穏なクリスマスを迎えることができるよう、お祈りするばかりです。

鹿児島の降誕祭 3年ぶりのクリスマス会

昨日は鹿児島ハリストス正教会で降誕祭の聖体礼儀を執り行いました。


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午後からはいよいよ、地域の子ども会「平之町あいご会」とのファミリークリスマス会。過去20年以上にわたって毎年開催してきましたが、直近ではコロナ禍のため中止が続き、ようやく3年ぶりの開催となりました。

鹿児島教会のある平之町地区は鹿児島市の中心部ですが、最近大型マンションが次々と建てられたためか、若いファミリーが多く、小学生だけで120人以上も住んでいます。

今回は事前の参加申し込みが64人もいたので、密を避けるために初めて13時30分と15時の二回開催としました。

 

教会でのイベントですから、まずは「神父さんのお話」。「最初のクリスマスプレゼント」である東方の三博士の贈り物をテーマに、与えられるより与えることについてチビッ子向けにお話ししました。

写真では乳香について説明するために、実物を香炉で焚いています。

神父さんのお話

次に、信徒の知り合いの女性ミュージシャンたちがクリスマスキャロルを演奏。

音楽演奏

子どもたちによるクイズ大会。毎年のメインイベントであり、司会と出題者はその年の6年生と決まっています。3年ぶりの開催なのでクイズ大会自体、初めて経験する子も多くてどうなるかと思いましたが、そつなくこなしました。

子どもたちによるクイズ大会

そして待望のサンタクロースからのプレゼント。以前は子どもたちのお父さんに教会の備品の衣装を着てもらいましたが、今回から米国人信徒のアーロン兄が参入。体格がビッグサイズなので、自前の衣装を購入して現れました。

本物感(?)がハンパでないレベルです。

サンタクロース登場

私からは子どもたちに、かねてから用意しておいた自作のクリスマスカードを進呈しました。山下りんのイコンをプリントして作ったものです。

自作のクリスマスカード

この日はいつも温暖な鹿児島も凍えるような寒さで、終日冷たい雨が降ったり止んだりしていました。郊外は鹿児島では珍しく、雪が降りました。

さらに、コロナ防止で換気のために窓を開けていましたので、聖堂内の気温もかなり下がっていました。

しかし、聖堂内は久しぶりに子どもたちの熱気に溢れていて、私たち大人まで体も心も温かくなりました。

九州ではコロナ感染が再拡大していて、今後に不安はありますが、このような形で教会が自分の信者だけでなく地域の皆さん、特に子どもたちのために貢献できるよう、努めていきたいと思っています。

鹿児島でクリスマス会の設営

明日は鹿児島ハリストス正教会で降誕祭を執り行います。

さらに午後から、地元地域の子ども会「平之町あいご会」と共催のクリスマス会を開催します。

そのようなわけで、今日は昼過ぎに鹿児島教会に来て設営をしました。

 

13時にクリスマス会の音楽をお願いしている演奏者の皆さんが着いたので、リハーサルをしてもらいました。

彼らもコロナ禍で、長いこと人前で演奏していなかったそうで、時間をかけて練習していました。

 

14時には今年度のあいご会の幹事をしているお母さんたちと、その子どもたちが来訪。

明日のイベントの進行の打合せと並行して、子どもたちにはクリスマスツリーや聖堂内の飾りつけをしてもらいました。


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彼らのおかげで、聖堂もクリスマスらしい雰囲気になりました!


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鹿児島教会では過去20年以上、地域の子ども向けのクリスマスイベントを行って来ましたが、コロナ禍以降は取り止めていました。

ようやく明日は3年ぶりに、この聖堂に子どもたちの声が満ち溢れることになります。

明日が待ち遠しいです!

クリスマスに向けて

昨日は鹿児島に出張。
カトリック鹿児島司教座のザビエル教会で行われた「牧師・神父の会」に出席するためです。

カトリック鹿児島ザビエル教会

鹿児島はカトリックプロテスタントとの超教派の交流が積極的なようで、「牧師・神父の会」も鹿児島市内の両教会合同の教職者の勉強会として、3か月に一回開催されています。

私も9月に講師の立場で初めて参加し、今回も聴講者側として参加しました。

私はカトリックでもプロテスタントでもないですし、鹿児島にある教会を管轄しているとはいえ、自分自身は熊本県民であって鹿児島在住ではありませんから、本来参加する理由はないかも知れないのですが、他教派の牧師・司祭のお話を聞いたり情報を得たりすることは有意義だと思うので、可能な限り参加することにしたのです。

 

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今回は最近、ヨハネによる福音書の註解書を出されたメソジスト派教会の牧師先生の講話でした。

本題のヨハネ伝もさることながら、ブラジルで8年間宣教活動をされていたとのことで、そちらのお話の方が興味深く思いました。

というのも、ブラジルは世界最大のカトリック信徒人口を誇る国であり、自分の印象として当然「カトリック国」だと思っていたのですが、移民の国ということもあってプロテスタントのコミュニティもそれなりに多いのだそうです。

何事も断片的な印象で決めつけてはいけないなと、改めて思わされました。

 

講話の後のミーティングでは、「鹿児島市民クリスマスを今後どうするか」が議題となりました。

鹿児島市民クリスマスとは、1961年から毎年12月に、カトリックプロテスタント合同で開催されてきたクリスマスイベントです。


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私の着任直後の2019年12月に第59回が開催され、鹿児島ハリストス正教会にも案内が来たのですが、開催日が日曜日であり、自分の教会の巡回を休むことはできないため、申し訳ないですが無視してしまいました…

その後のコロナ禍のため、このイベントは中止が続き、今年も中止が決定しています。

 

ミーティングでは「正式に廃止する」か「来年再開する」かが話し合われました。

その結果、従来のイベントの「日曜日開催」「お金をかけて音楽家や外部講師を招聘」「チケット販売により参加者から入場料を徴収」といった、主催者と参加者双方のハードルを上げている要素を廃して、「土曜日開催」「教会の教職者と信徒のみによる運営」「入場料ではなく任意の献金」といったシステムに切り替えて、可能な形で開催を試みようという方向になりました。

いずれにせよ、西方教会にとってクリスマスは大きな位置づけであり、それに向けて教派を超えて鹿児島独自で何かをやろうという取組みは大変良いことだと思いました。

 

さて、わが日本正教会の降誕祭は1月7日(ユリウス暦の12月25日)ですが、私は一人で4教会を兼務していますので、年末年始は「毎週どこかでクリスマス」ということになります。

人吉の降誕祭は12月25日(日)の予定ですが、時間のあるうちに準備を済ませておこうということで、一昨日に妻が聖堂に行ってクリスマスツリーを飾り付けてきました。

人吉の聖堂のクリスマスツリー

今週末の18日(日)は鹿児島教会で降誕祭です。

今年は地元の子ども会と合同の「ファミリークリスマス会」を3年ぶりに再開することが決まったので、前日の17日に準備することにしています。

3年前の2019年は私の着任直後で、当然クリスマス会も引き継いでから初めての開催でしたが、近所にこんなにたくさん子どもたちが住んでいるのかと驚くくらい、たくさんの参加者で聖堂が埋め尽くされ、嬉しくなりました。

 

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しかし2020年はコロナ禍で、学校行事自粛の流れに従ってクリスマス会も中止。昨年はイベントは行わず、降誕祭の午後、聖堂に来た子どもたちにプレゼントを配ることに留めました。

 

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今年は子どもだけで3年前を上回る60人以上の参加申し込みがあったので、密集を避けるために二回開催とします。嬉しい悲鳴です。

 

クリスマスプレゼントも子ども会が用意した物品を配るだけでは教会でやる意味がないので、山下りんのイコンをプリントしたクリスマスカードを自作しました。

正教会のクリスマスの挨拶は「ハリストス生まる」(Christ is born!)ですが、あまりにも一般になじみがなさ過ぎますし、「メリークリスマス」は逆に正教会の言い回しではないので、妻の意見を入れて無難な「クリスマスおめでとう」にしました。

自作のクリスマスカード

教会も祭も遊びのためではなく、祈りのためにあるとはいえ、楽しいものは率直に楽しいに決まっています。皆が、とりわけ子どもたちが教会に来て良かったと思えるような降誕祭にしていきたいと思っています。

熊本に巡回 夏目漱石の足跡探訪

今週末は熊本ハリストス正教会に巡回しました。

熊本ハリストス正教会での聖体礼儀


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K執事長と結婚して60年近くも連れ添い、今月で米寿を迎えた妻のM子さんが来月に洗礼を受けることが決まったのですが、今日はさらに別の80代女性のOさんから洗礼の申し出がありました。

Oさんも幼児洗礼のご主人と結婚してから50年以上、熊本ハリストス正教会に熱心に通ってきたのですが、熱烈な信者だったお姑さんとの確執が過去にあったようで、洗礼を受けることだけは拒み続けていました。

ご主人は2年前に亡くなりましたが、今日になって「自分も信者として夫と同じ墓に入りたい。だから洗礼を受けたい」と初めて言ったのです。

M子さんにもOさんにも、こちらから洗礼を受けるように勧めたことは一度もないのですが、純粋に自分の意思で「自分の終末を正教徒として迎えたい」(まだお元気ですが)と決心したことに、神の導きを感じます。

そして私自身も九州に来てわずか3年で、過去数十年も洗礼をためらい続けていた人たちの入信をお手伝いすることができて、感慨深いものがあります。

 

さて一昨日は夏目漱石の命日だったので、昨日は漱石の足跡をたどろうと思い、彼の旧居を訪ねてみました。

漱石は旧制五高の教授だった熊本時代の4年間で6回も転居しました。その6軒の家のうち、3番目の住まいだった「大江旧居」と5番目の住まいだった「坪井旧居」の2軒だけが現存しています。

もっともそれらの家は2016年4月の熊本地震で大きな被害を受けました。坪井旧居の方はまだ修復中ですが、大江旧居は1年ほど前に修復が終わり、一般公開されています。

かつて大江旧居があった場所は、なんと熊本ハリストス正教会の隣のブロックで、教会からは100mも離れていません。しかし、今の地権者の病院の増築工事にともない、1972年に水前寺公園に移築されて今に至っています。

移築されていなければ「うちの教会は夏目漱石の家のそばですよ!」と宣伝できたのですが…

夏目漱石大江旧居

入館は無料で、内部には当時の史料が展示されています。一見の価値があります。

熊本時代の漱石(31歳)の写真

漱石が詠んだ俳句の直筆の短冊

漱石の作品の初版本

漱石が生涯最後に書いた漢詩(1916年11月20日


漱石旧居を見た後はレトロな市電に乗り、熊本城下の下町の「新町」へ。


ここにある長崎次郎書店は明治7(1874)年創業の、熊本で一番古い書店です。

今の建物は1924年に建てられ、国の有形文化財に指定されています。

長崎次郎書店

江戸時代までは古物商だったそうですが、明治新政府が学校教育を導入したことにともない、教科書の販売業に商売替えし、今も店を続けています。

森鴎外はここで本を買っていたと記しているそうです。漱石自身はこの店について言及していませんが、明治時代に熊本で大きな本屋といえば長崎次郎書店と決まっていたのですから、きっと漱石もお得意さんだったに違いありません。

 

書店の2階は実に趣のある喫茶店になっていて、1階の書店で買った本を読めるようになっています。

私も熊本時代の漱石ラフカディオ・ハーンについて書かれた本を買って、小一時間読書を楽しみました。

長崎次郎書店の2階で読書

歴史上の有名人と同じ空気を吸っているような感覚で、いい気分で午後のひと時を過ごすことができました。

漱石と八雲 熊本と早稲田

本日、12月9日は文豪・夏目漱石(1867-1916)の命日です。

漱石はわが熊本とも縁の深い人物です。

夏目漱石(1867-1916)

 

1893年東京帝国大学英文科を卒業した漱石は、東京高等師範学校(現・筑波大学)、旧制松山中学(現・松山東高校)の英語教師を経て、1896年に旧制第五高等学校(現・熊本大学)に英語科教授として赴任しました。

ちなみに五高での彼の前任者はラフカディオ・ハーン(1850-1904。後の小泉八雲)でした。

ラフカディオ・ハーン小泉八雲

 

彼の松山時代は小説『坊ちゃん』に描かれて今も有名ですが、実際にいたのは1年だけでした。それに対し、熊本での五高時代は1900年に英国に留学するまで4年間続きました。

彼は熊本に着任するにあたって官僚の娘と結婚しましたが、妻は慣れない熊本での生活でヒステリーとなって自殺未遂を起こし、漱石自身も癇癪持ちな性格に加え神経衰弱(当時の病名。今日のうつ病)の病歴もあって、幸せな家庭生活とは言えなかったようです…

 

その代わり、彼は東大時代の同窓生の正岡子規の影響で、俳句をたしなんでいました(彼のペンネームの漱石はもともと俳号)。そして彼は熊本で俳人として名を挙げたのです。

1898年、漱石から俳句の指導を受けていた寺田寅彦(後の地球物理学者)ら五高の学生が俳句団体「紫溟吟社」を立ち上げ、漱石が主宰となりました。漱石の五高離任にともなって、この紫溟吟社は1902年に活動を停止してしまいましたが、それまで九州の俳壇を代表する団体だったそうです。

 

漱石が教鞭を執った旧制五高の校舎は、現在も熊本大学のキャンパス内に「五高記念館」として残っています。「ナンバースクール」と呼ばれた一高(現・東大)から八高(現・名古屋大)までの8つの旧制高校のうち、現在も校舎が残っているのは五高だけです。

五高記念館は1889年に建てられ、いまは国の重要文化財に指定されていますが、2016年4月の熊本地震で被災し、修復のためずっと閉鎖されていました。

しかし今年4月、ようやく修復が完成して一般公開が再開されたので、10月の熊本出張に合わせて訪ねてきました。

重要文化財熊本大学五高記念館(旧制五高本館)

館内には明治30(1897)年10月の開校記念日の式典で、漱石が教授総代として読み上げた祝辞の原稿が展示されています。もちろん本人の直筆で、署名も本名の「夏目金之助」と書かれています。

漱石が読んだ開校記念日の祝辞の原稿

 

さて、漱石1903年に英国留学から帰国し、一高と東京帝大の英語講師に着任しました。それに伴って東大講師を解任されてしまったのは、何と五高時代の前任者だったラフカディオ・ハーン改め小泉八雲でした。何という因縁でしょうか。

しかし、評判の良かった八雲の講義に比べて、漱石の講義はつまらないと学生たちの評判が悪く、小泉留任運動が起こるなど、夏目講師の評判は散々でした。

さらに、漱石から叱責を受けた学生の藤村操が、日光の華厳の滝に投身自殺するという事件が起きて社会問題となりました。遺書によれば自殺の直接の原因は漱石とは無関係だったものの、「夏目が藤村を自殺に追いやった」という誹謗中傷が相次ぎ、ついに漱石の神経衰弱が再発してしまいました。

 

しかし、皮肉なことにこの事件が文豪・夏目漱石を生み出すことになりました。

俳人高浜虚子から神経衰弱の治療の一環として小説の創作を勧められ、彼は処女作『吾輩は猫である』を書きました。1905年1月、これを『ホトトギス』に掲載したところ大ヒット。一躍人気作家として世に知られました。

翌年発表した『坊ちゃん』も大ヒット。ついに1907年、教職を辞めて朝日新聞に入社し、同紙専属の専業作家として連載小説を生涯にわたって書き続けたのです。

 

さて本日、私の母校・早稲田大学の公式ツィッター漱石の命日であることがツィートされました。漱石は早稲田とも縁が深い人物だからです。

 

漱石は江戸牛込馬場下、現在の東京メトロ早稲田駅の辺りで生まれました。もちろん早稲田大学のキャンパスのすぐそばです。

生家跡には漱石生誕100周年を記念して、1966年に「夏目漱石誕生の地」の石碑が建てられています。

夏目漱石誕生の地の石碑

1966年に建てられたということは、私の在学中には当然あったのですが、恥ずかしながら当時は全く気がつきませんでした…

 

また、漱石は東大在学中の1892年に、学費を稼ぐために東京専門学校(後の早稲田大学)で英語を教えていました。

 

さらに専業作家となった1907年、彼は生家近くの早稲田南町に家を購入しました。この家は「漱石山房」と呼ばれ、亡くなるまでの9年間、創作の拠点となりました。いまの早稲田大学戸山キャンパスの近くです。

漱石山房での夏目漱石

漱石山房は空襲で焼失しましたが、跡地は戦後に「漱石公園」として整備されました。

さらに2017年9月、漱石生誕150年を記念して新宿区が漱石公園に「漱石山房記念館」をオープンさせ、今に至っています。残念ながら私自身は未訪問なので、東京に行く機会があったら訪ねてみようかと思っています。

漱石山房記念館

さて1903年漱石の東大赴任とともに解任されてしまった小泉八雲は、早稲田大学に転職して英語を教えました。しかし、残念なことに翌年9月、54歳で急死してしまいました。

つまり小泉八雲は現職の「早稲田大学教職員」として生涯を終えたのです。

ちなみに八雲の墓も漱石の墓も、偶然ながら同じ雑司ヶ谷霊園にあります。どこまでも一緒ですね。

 

夏目漱石小泉八雲という二人の大文学者が熊本と早稲田という同じ接点で、今の私ともご縁があるということに不思議なめぐり合わせを感じています。