本日、12月9日は文豪・夏目漱石(1867-1916)の命日です。
漱石はわが熊本とも縁の深い人物です。
1893年に東京帝国大学英文科を卒業した漱石は、東京高等師範学校(現・筑波大学)、旧制松山中学(現・松山東高校)の英語教師を経て、1896年に旧制第五高等学校(現・熊本大学)に英語科教授として赴任しました。
ちなみに五高での彼の前任者はラフカディオ・ハーン(1850-1904。後の小泉八雲)でした。
彼の松山時代は小説『坊ちゃん』に描かれて今も有名ですが、実際にいたのは1年だけでした。それに対し、熊本での五高時代は1900年に英国に留学するまで4年間続きました。
彼は熊本に着任するにあたって官僚の娘と結婚しましたが、妻は慣れない熊本での生活でヒステリーとなって自殺未遂を起こし、漱石自身も癇癪持ちな性格に加え神経衰弱(当時の病名。今日のうつ病)の病歴もあって、幸せな家庭生活とは言えなかったようです…
その代わり、彼は東大時代の同窓生の正岡子規の影響で、俳句をたしなんでいました(彼のペンネームの漱石はもともと俳号)。そして彼は熊本で俳人として名を挙げたのです。
1898年、漱石から俳句の指導を受けていた寺田寅彦(後の地球物理学者)ら五高の学生が俳句団体「紫溟吟社」を立ち上げ、漱石が主宰となりました。漱石の五高離任にともなって、この紫溟吟社は1902年に活動を停止してしまいましたが、それまで九州の俳壇を代表する団体だったそうです。
漱石が教鞭を執った旧制五高の校舎は、現在も熊本大学のキャンパス内に「五高記念館」として残っています。「ナンバースクール」と呼ばれた一高(現・東大)から八高(現・名古屋大)までの8つの旧制高校のうち、現在も校舎が残っているのは五高だけです。
五高記念館は1889年に建てられ、いまは国の重要文化財に指定されていますが、2016年4月の熊本地震で被災し、修復のためずっと閉鎖されていました。
しかし今年4月、ようやく修復が完成して一般公開が再開されたので、10月の熊本出張に合わせて訪ねてきました。
館内には明治30(1897)年10月の開校記念日の式典で、漱石が教授総代として読み上げた祝辞の原稿が展示されています。もちろん本人の直筆で、署名も本名の「夏目金之助」と書かれています。
さて、漱石は1903年に英国留学から帰国し、一高と東京帝大の英語講師に着任しました。それに伴って東大講師を解任されてしまったのは、何と五高時代の前任者だったラフカディオ・ハーン改め小泉八雲でした。何という因縁でしょうか。
しかし、評判の良かった八雲の講義に比べて、漱石の講義はつまらないと学生たちの評判が悪く、小泉留任運動が起こるなど、夏目講師の評判は散々でした。
さらに、漱石から叱責を受けた学生の藤村操が、日光の華厳の滝に投身自殺するという事件が起きて社会問題となりました。遺書によれば自殺の直接の原因は漱石とは無関係だったものの、「夏目が藤村を自殺に追いやった」という誹謗中傷が相次ぎ、ついに漱石の神経衰弱が再発してしまいました。
しかし、皮肉なことにこの事件が文豪・夏目漱石を生み出すことになりました。
俳人・高浜虚子から神経衰弱の治療の一環として小説の創作を勧められ、彼は処女作『吾輩は猫である』を書きました。1905年1月、これを『ホトトギス』に掲載したところ大ヒット。一躍人気作家として世に知られました。
翌年発表した『坊ちゃん』も大ヒット。ついに1907年、教職を辞めて朝日新聞に入社し、同紙専属の専業作家として連載小説を生涯にわたって書き続けたのです。
さて本日、私の母校・早稲田大学の公式ツィッターで漱石の命日であることがツィートされました。漱石は早稲田とも縁が深い人物だからです。
1916年12月9日は #夏目漱石 の命日です。
— 早稲田大学 (@waseda_univ) 2022年12月9日
江戸の牛込馬場下で生を受けた漱石は、#東京専門学校 で教鞭をとったり、晩年を早稲田で過ごしたりと #早稲田大学 と縁が深い偉人の一人です。#早稲田 界隈には #夏目坂 や石碑など漱石ゆかりの史跡や記念館が点在します。#wasedahttps://t.co/M27DKx2Hh9 pic.twitter.com/JRVh1raHaB
漱石は江戸牛込馬場下、現在の東京メトロ早稲田駅の辺りで生まれました。もちろん早稲田大学のキャンパスのすぐそばです。
生家跡には漱石生誕100周年を記念して、1966年に「夏目漱石誕生の地」の石碑が建てられています。
1966年に建てられたということは、私の在学中には当然あったのですが、恥ずかしながら当時は全く気がつきませんでした…
また、漱石は東大在学中の1892年に、学費を稼ぐために東京専門学校(後の早稲田大学)で英語を教えていました。
さらに専業作家となった1907年、彼は生家近くの早稲田南町に家を購入しました。この家は「漱石山房」と呼ばれ、亡くなるまでの9年間、創作の拠点となりました。いまの早稲田大学戸山キャンパスの近くです。
漱石山房は空襲で焼失しましたが、跡地は戦後に「漱石公園」として整備されました。
さらに2017年9月、漱石生誕150年を記念して新宿区が漱石公園に「漱石山房記念館」をオープンさせ、今に至っています。残念ながら私自身は未訪問なので、東京に行く機会があったら訪ねてみようかと思っています。
さて1903年、漱石の東大赴任とともに解任されてしまった小泉八雲は、早稲田大学に転職して英語を教えました。しかし、残念なことに翌年9月、54歳で急死してしまいました。
つまり小泉八雲は現職の「早稲田大学教職員」として生涯を終えたのです。
ちなみに八雲の墓も漱石の墓も、偶然ながら同じ雑司ヶ谷霊園にあります。どこまでも一緒ですね。
夏目漱石と小泉八雲という二人の大文学者が熊本と早稲田という同じ接点で、今の私ともご縁があるということに不思議なめぐり合わせを感じています。