九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

五島の旅の振り返り ②五島のキリシタン迫害は政治問題以上に差別問題

一昨日の日曜日は福岡に巡回。信徒総会で福岡に新教会を造る構想と、そのための方策について説明し、信徒たちの賛同を得ました。

現在福岡伝道所として使用している建物は、福岡空港の近くで競売にかけられていた90㎡ほどの畑をある人が買い取り、そこに2010年に建てられたプレハブ小屋です。

道路の幅が2mほどなので、建築上の制約があり、建物は玄関やトイレなども含めて6坪(12畳相当)しかありません。祈祷で使えるスペースはせいぜい8畳分くらいでしょうか。

月に一度の巡回日には、その狭い伝道所に15名前後が参祷して、室内は人で一杯になります。

それはそれで熱気のある祈祷かも知れませんが、信徒の数に対して会堂があまりにも狭すぎるので、何とかして欲しいという気持ちは、皆が心の中で思っているのだろうなと思いました。

 

さて、日にちが開き過ぎてしまいましたが、先月末の五島の旅の総括の続きです。

 

江戸時代、徳川幕府キリスト教信仰を禁止しており、信徒を探索して棄教を強制していたこと、棄教を拒んだ者たちは残虐に殺害されたこと、またその結果、表面的には仏教徒を装って信仰を守ろうとした「潜伏キリシタン」と呼ばれる人々がたくさん存在したことは、日本史の授業で習うことなので誰でも知っています。

このキリシタン迫害の背景は、幕府がスペインやポルトガルによる侵略を警戒して鎖国し、彼らの手先となりかねないカトリックの布教自体を排除した、つまり幕府の「政策」とも説明されます。

しかし五島崩れ、すなわち五島のキリシタン大迫害が始まったのは明治元年(1868)。つまり徳川幕府を倒し、西洋に国を開いているはずの新政府のもとで起きています。

これをどう理解したら良いでしょうか。

 

この明治のキリシタン迫害の発端は1864年、長崎に大浦天主堂が建てられたことにあります。

大浦天主堂(筆者撮影)

1865年3月17日、浦上の潜伏キリシタンの女性が大浦天主堂を訪ねて来て、プティジャン神父に「サンタマリアの御像はどこ」と尋ねたことで、日本の250年に及ぶ禁教時代にも信仰を守り続けた信徒がいることが発見されました。このため、3月17日はカトリック教会で「日本信徒発見の日」として記念日になっています。

これは教会側だけでなく、長崎の潜伏キリシタンの側にも朗報となりました。「大浦にフランス寺(カトリック教会)が建ち、神父もいる」という情報が広まり、続々と大浦天主堂を訪ねて信仰を告白する人々が現れたのです。

上五島若松島の桐出身のガスパル与作も、大浦を訪ねて五島にもキリシタンがたくさんいることを告げました。そして五島に戻って、人々に大浦で信仰を表明するよう呼びかけたのです。

人々を長崎に導くガスパル与作像(若松島・桐教会)

しかし、キリシタンであることを表明する人々が増えてきて、当局も黙認できなくなり、ついに1867年7月、浦上のキリシタンが大量に逮捕され、拷問を受けるという事件が起きました。これは江戸時代以降、長崎で発生したキリシタン大規模弾圧の4回目であることから「浦上四番崩れ」と呼ばれます。

この直後に徳川幕府大政奉還で消滅しますが、新政府も禁教政策を維持し、西欧諸国からの猛抗議を黙殺して、キリシタン徳川時代以上に迫害しました。

発足当初の新政府は政策として、神道の国教化を進めるために仏教寺院を迫害(廃仏毀釈)していたのであり、いわんやキリスト教をや、ということでしょう。

 

明治新政府は1868年、五島藩にもキリシタン捕縛を命じました。

久賀島の大開では、6坪の牢に約200人のキリシタンを収容し、棄教させるための拷問が数か月にわたって連日行われました。その結果、老人や子どもを中心に42人が死亡しました。

6坪とはわが福岡伝道所と同じ面積です。15人の参祷者でもぎっしりなのに、200人とは1㎡に10人ですから、キリシタンたちは呼吸すらままならなかったでしょう。

この牢の跡地には「牢屋の窄殉教者記念教会」が建っており、傍らには42人の一人ひとりの名や最後の言葉などが刻まれた慰霊碑があります。

牢屋の窄殉教者記念教会(久賀島

犠牲者の慰霊碑

また、福江島の楠原でも、帳方(村の責任者)・狩浦喜代助の家が牢として接収され、そこにやはり約200人のキリシタンが押し込められて43人が死亡しています。

現在は、楠原教会の近くに牢の柱や梁の部分が保存されています。

楠原牢屋の遺構(福江島

こうして見ると、政治的権力者は罪なき民に酷いことをするなと思うのですが、少なくとも五島においては、潜伏キリシタンの住民は江戸時代から人々から差別を受け続けていたのです。従って迫害にもキリシタンでない住民たちが協力し、捕縛されたキリシタンの家財や農作物が奪われたりしました。つまりこの迫害は権力者だけの問題ではなく、もっと根源的な地域社会の差別問題なのです。

 

そもそも、五島の潜伏キリシタンは昔からの住民ではなく、1797年以降に、大村藩領の外海地方から来た移民とその子孫です。

大村氏はかつて熱心なキリシタン大名で、領内にも多くの信徒がいましたが、徳川時代に棄教して迫害を行ったため、信徒は潜伏キリシタンとなりました。

寛政年間、人手不足に悩まされていた五島藩大村藩に移民を送るよう要請しました。これを機に、外海地方で迫害から潜伏していたキリシタンたちが大量に五島に移民したのです。

しかし、彼らキリシタン移民は先住の島民から嫌がらせを受け、山の上や海辺などの耕作に向かない土地しか与えられませんでした。

移民とその子孫は「居付」(いつき)という差別用語で呼ばれ、明治になって名字を名乗ることが許された後も「居付」の生まれだと分かるように、「下山」「下川」のように「下」という字が入った姓を名乗らされたとガイドさんから聞きました。

五島では生まれた場所の地名と名字を名乗ればクリスチャンか仏教徒かが分かると、以前聞いたことがありましたが、その理由はこういうことだったのかと思うと戦慄します。いわゆる被差別部落問題に類似した、すさまじい差別の実態があったのです。

五島のキリシタンたちの迫害への抵抗や教会への献身の並外れた姿勢は、揺るぎない信仰の表明以外の何ものでもなく、これはそういった差別に対して自己のアイデンティティを守りたいという思いの表れに違いないと思っています。

 

いま、元首相襲撃事件をきっかけに、ある宗教団体や、それと関わりがある人々への追及が報道などでエスカレートしています。

しかし私は、現代日本自由主義社会で、信仰の自由が基本的人権の一つとして保障されているのですから、特定の宗教、さらには宗教自体を忌まわしいものとして排斥するのはおかしいと考えます。

要は宗教団体であれ他の集団・組織であれ、彼らがしている「行い」の内容が違法であるか、反社会的であるかを追及し、もしそうであるなら法に基づいて取り締まるべきなのであって、信仰という「人の心の中」を追及するのは間違っています。

ましてその特定の信者だからという理由で、自分がその人々を差別したりいじめたりしたら、かつての狂気に満ちたキリシタンへの迫害者と一緒になってしまいます。

カルト宗教とは、自分たちを絶対に正しいと主張し、他の信仰、他の価値観を認めないことに特徴があると考えます。その意味では、「うちの教会は伝統のある、ちゃんとした教会です。いまマスコミで騒がれている○○教会みたいなカルトではありません」などと声高に主張すること自体が、自分たちもカルト化に足を一歩踏み入れていると言えないでしょうか。

もちろん、私自身は自分が信じ、また宣教者として教えを説いている宗教が正しいものであると確信しています。しかし、それは自分の心の問題であって、自分の宗教を他人に強制したり、まして違う信仰の人々を差別したりする考えは全くありません。

神は全ての人間を等しく造っており、一人ひとりに自由な意思を与えてくださっていると考えるのが、私たちの教義です。だから、世の中にいろいろな考え、いろいろな価値観があるのは「神の御旨」として当然であり、そのいろいろな人々を分け隔てせずに愛することが「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)というキリストの言葉に適うものと考えます。

自分に五島の人々ほどの堅固な信仰があるかどうかは甚だ疑問ですが、自分の信仰は人を攻撃するためでなく愛するためにあることを自覚して、今後も歩んでいきたいと思います。

これから信徒総会ラッシュ 準備の一週間 

先週は五島列島の旅を満喫しましたが、明後日の福岡を皮切りに、14日は熊本、28日は鹿児島の各教会の信徒総会が目白押しとなっています。
宗教法人法では、宗教法人は会計年度末から4か月以内に決算書や役員名簿などの書類を監督官庁、すなわち当該宗教法人がある都道府県庁に提出しなくてはなりません。概ねどこの地方教会も、決算年度は教団に合わせて5月末締めなので、そこから考えると7月後半から8月には信徒総会を開催し、前年度決算と新年度予算案の承認を取りつけて官庁への提出書類を作る必要があるわけです。

 

決算書類は事業収入のある鹿児島教会では、法人税の計算のために税理士に作成を依頼していますし、熊本教会のように信徒数が極端に少なくてお金の動きがあまりない教会では、会計を担当してもらっている信徒に手書きの集計メモをもらって、私が帳票を作成するなどしています。要するに教会によって事務のスタイルは様々ですが、法人である以上、法令を遵守した事務取り扱いをしなくてはならないし、その責任は代表役員(会社の代表取締役に相当)である私に帰する、というわけです。

神父というのは、お祈りや聖書の話ばかりしていれば済む仕事ではなく、法人の経営者として事務能力も試されているわけです。私自身は教会より会社での生活の方が長かったので、そっちの方が得意ですが(笑)。

 

そんなわけで、五島から帰ってすぐ、私が編集した教区報の印刷を業者に発注してから、今週は各教会の決算書類や今年度の年間行事計画などの関係資料づくりに忙殺されていました。

 

今回それに加えてまとめたのは、福岡の教会の設立計画書です。

福岡の教会設立計画書

6月の教区会議で、西日本教区として、福岡に司祭常駐で九州を統括する教会を造るという方針が示されました。

福岡は九州の中で経済面でも人口の面でも抜きん出ており、教会単体の成長性でも、また九州を統括する事務局としても、教会を置くのに最適な場所であることは間違いありません。

しかし、現状は2010年に設立された仮設の集会所(それも私有地)があるだけですので、新規に用地を入手して聖堂と司祭館を建てるという作業が必要になってきます。

現在の九州管轄司祭は私ですので、この作業を進めるのも私に命じられたミッションということになります。

 

手元に教団から十分なバジェットを預かっている、あるいは五島のカトリック信徒のように、聖堂建立となれば皆が百万円でも二百万円でも喜んで献金してくれる、ということなら何も苦労はないのですが、もちろんそんな甘い話はありません。今の手元資金はせいぜい400万円くらいです。

そこで自分なりに秘策(?)を考え、また2027年度を教会完成の目標年度として工程プロセスを組みました。

その内容をここで書くことはできませんが、当事者である福岡伝道所の総会で発表し、信徒の理解と支持を求めていくつもりです。

 

もし教団のおひざ元である東京教区に留まっていれば、こういう事務方の苦労を背負い込むこともなかったのですが、還暦近くなって新しい教会を立ち上げるというミッションを与えられたのは、むしろ希望のある「楽しい苦労」かも知れません。

前向きにやっていきたいと思っています。

五島の旅の振り返り ①信徒にとって聖堂とは

木曜日の夜、三泊四日の五島の旅を終えて人吉に戻りました。

初日は投稿しましたが、夜は夕食のアルコールと日中の疲れがあってすぐに寝てしまい、二日目以降は投稿できませんでした…

そこで今後何回かに分けて、五島の旅の総括をしたいと思います。

 

今回、五島に51か所あるカトリック教会のうち、4日間で24か所を訪問しました。市街地にある教会は少なく(そもそも五島に市街地と呼べる場所はいくらもありませんが)、中にはチャーター船でないとたどり着けない教会もありました。

旧聖堂を文化財として残していて、ミサは新聖堂で行っている教会もありましたが、それをおいても訪問先の全てにおいて、それも過疎化の著しい辺鄙な集落にあっても、ちゃんと信徒が通っていて定期的な教会活動が行われていることにまずは驚きます。

 

明治・大正期に建てられた聖堂も多く残っています。

中に入れた聖堂は少なかったのですが、扉が開いていた聖堂は、たとえ古い建物でも内部はちゃんとメンテナンスされていて、信徒の聖堂への愛着が伝わってきました(内部の写真はありません)。

重要文化財・五輪教会旧会堂(1881年

福見教会(1913年)

中ノ浦教会(1925年)

 

こちらの江袋教会は、1882年に建てられた聖堂が2007年に火事で全焼しましたが、全国からの寄付で元通りに復元されています。しかも、現在でも司祭が巡回して月に二回、ミサが行われています。つまり、展示物でない「140年間、活きている教会」です。

長崎県指定有形文化財・江袋教会(1882年)

こういった立派な聖堂が、場違いなくらいの辺鄙な漁村や山村に建てられているのを見ると、「どうせ宣教会が本国から資金を持って来て建てたんじゃないの」と思ってしまうのですが、そうではなく、地域の信徒がお金を出し合って建てたものばかりです。

しかも、古くからの五島の信徒に富裕層はほとんどおらず、不便で貧しい土地にしか住むことを許されなかった漁師や小作農ばかりでした。理由はキリシタンへの差別問題があるのですが、これは重要なテーマなので、後日改めて書きたいと思います。

ちなみに明治期の日本正教会は、財政的にはロシアからの資金提供に依存し、旧士族や豪農などの知識層・富裕層を主なターゲットとして宣教していました。今日も地方にある日本正教会の会堂の多くは、地域の大地主から提供された土地に建てられたものです。五島のカトリック教会は、それとは明らかに異なっています。

 

上五島地方・中通島の北部の仲知は鄙びた漁村ですが、1978年に新築された立派な聖堂が建っています。信徒数は70戸ほどですが、一戸あたり140万円のお金を拠出し、さらに信徒が建設作業のボランティアまでして建てられたそうです。

仲知教会の現聖堂(1978年)

聖堂の窓はイタリアで造られた、数千万円するステンドグラスです。聖書のいろいろな場面を描いたものです。

面白いことに「弟子たちの召命」(マタイ4章)の絵で、漁師であったペトロたちが当時の姿でなく、現代の地元漁師の姿で描かれていることです。

ステンドグラス「弟子たちの召命」(左)

また、キリストが弟子たちの足を洗う場面(ヨハネ13章)のステンドグラスには、弟子たちの中に混ざって、この集落出身の島本要・浦和司教(後に長崎大司教。故人)の姿が描かれています。

ちなみに、現・大阪大司教の前田枢機卿もこの集落出身です。こんな小さな漁村が、司祭どころか複数の司教まで輩出していることに驚きます。

ステンドグラス「弟子たちの洗足」(左)

こういった変則的な構図は正教会のイコンでは絶対に許されないことであり、従って正教会の聖堂ならばあり得ないものですが、それに対して「この聖堂は地域社会で生きる私たち信徒の象徴であり、共通財産だ」という強烈な意識が感じられました。

 

さて、先日の元首相襲撃事件をきっかけに、霊感商法や高額献金でトラブルを起こした某宗教団体が問題となった結果、今「カルト宗教」という言葉が独り歩きしているような印象を受けています。

本来カルト宗教とは、過激な教義を標榜して反社会的な行動をする宗教を指すはずなのに、なぜか高額献金のことだけが問題視されていて、その結果「人々からの寄付で運営される宗教団体の存在自体が悪」という、変な流れになっているように感じます。

そういう目で見たら「田舎の貧しい漁師たちから一戸あたり140万円ももらうような五島の教会は霊感商法と一緒だ」と、おかしなことを言い出す人もいるかも知れません。

しかし私に言わせれば、わが国では信仰の自由が認められているのですから、自発的な意思で信仰を持つ人が、同じく自発的な意思で献金し、それで信仰の共同体(寺院であれ神社であれ教会であれ)が維持されるというのは、当たり前で健全なことです。逆に宗教団体が収益事業に血道を上げることの方が異常です。

要するに宗教とは、どれだけ教団が金銭的な収益を上げられるかではなく、信者の精神的な救い、および一般社会の人々との関わり方において評価されなければならないと考えます。

 

その意味において信徒の献金が教団組織や、そこの指導者個人の金銭的利益になるのではなく、「信徒の共通財産」としての聖堂となることは、最高の「使いみち」だと言えるでしょう。なぜなら聖堂は、仮にその地域が過疎化・高齢化し、今いる信者が死んでいったとしても、この五島の教会群のように時代を超えて地域社会のシンボルとして存続していくことができるからです。

わが日本正教会でも、創立者のニコライ大主教がアジアで最大規模の大聖堂を東京に建てる計画を打ち出した時、教団内で猛烈な反対運動が起きました。聖堂なんかに大金を投じるのは無駄遣いであり、そんなお金があるなら専従教役者の給料を上げることの方が優先だという声が大多数だったからです。

しかし、ニコライ大主教は「何百年も残る教会のシンボルを造ることの方が大切だ」と言って、大聖堂建立を強行しました。これが今も建っているニコライ堂です。ちなみに建設資金の大半は日本人の献金ではなく(そもそも彼らは建設に反対)、ニコライがロシア本国に行って集めた寄付でした。

ニコライ堂の完成は1891年ですが、それから130年を経た今、日本正教会の信徒数は全国で正味数千人ほどまで減っています。しかし、ニコライ堂は宗教を超えて全国的に知られる東京名所の一つであり、そのおかげで私たちの地方教会も「あのニコライ堂と同じ系列の教会」と名乗ることで一定の認知を受けています。

もしニコライが建設反対運動に屈して、スタッフの給料アップでお茶を濁していたら、その時は教団内で人気者になったかも知れませんが、日本正教会が存続し続けることは難しかったでしょう。

 

まさに五島に生きるカトリック信者にとっても、聖堂は「わが信仰のシンボル」だったのであり、それが今も生き続けているのです。

自分たちの信仰のシンボルより、毎月の給料の方が大切だった、つまり教会に自分をどれだけ捧げるかより、教会から自分がどれだけ貰えるかの方が関心事だった当時の日本正教会の人々の信仰心は所詮その程度であり、それが今のカトリック教会とわが教団のレベルの差に繋がっていると認めなければならないのは残念ですが。

しかし、この五島のカトリック信徒の熱烈な信仰の背景には、「迫害」とか「殉教」といった高尚な言葉よりも、「差別」という生々しい言葉の方があてはまる、過酷な実態がありました。そのことについては前述のように、日を改めて書きたいと思います。

五島の旅 初日

今日から三泊四日で長崎県五島列島に来ています。

声楽家・合唱指揮者の青木洋也先生と五島を巡るツァーに、夫婦で参加したものです。

 

4月に青木先生がご自身のfacebookで、ツァーについて書かれていたのを見て、取り扱いの旅行会社から資料を取り寄せました。

五島は多くの潜伏キリシタンが住んでおり、明治以降もカトリック信徒が多い地域なので、ずっと以前から歴史的な聖堂や、潜伏キリシタンの遺構を見に行きたいと思っていました。

しかし、それらの多くは交通が不便な場所にあり、中には定期船の行かない島にあったりします。個人で回るにはかなり無理があります。

ところが資料を見ると、現地でバスと船をチャーターして、私が行きたいと思っていた場所を4日で回り切るという内容なのです。

もう矢も盾もたまらず、妻と参加を申し込みました。

 

今朝、長崎空港で羽田から来るツァーの皆さんと合流し、長崎港から高速船で五島・福江島へ。


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13時に到着して、教会を訪ねて回りました。

ただしコロナ感染拡大のため、長崎大司教区では今、ミサのない時の教会への立入りを認めない方針だそうで、実際どこの聖堂にも入れませんでした。そこは残念なところです。

 

しかし、明治から昭和の初めにかけて建てられた聖堂は、外観だけでも見る価値があります。

(写真は上から堂崎、水ノ浦、楠原の各聖堂)


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今日は現地ガイドの方がずっと付きっきりで、各教会の由来やキリシタン迫害の歴史について、実に詳細に説明してくれました。

 

明日はチャーター船で島々を回ります。楽しみです。

広報部員(?)に徹した一週間 教会報と教区報について

今週は教会報の作成と発送、教区報の編集作業で、ずっとデスクの前に座りっぱなしの一週間でした。ネットを眺めたり、まして投稿して暇つぶしなんか到底無理でした。

 

日本正教会では司祭が常駐している地方教会ならどこでも、毎月一回(教会によっては二か月に一回)、広報物として教会報を出しています。他教派の週報のようなスタイルを取っている教会は、私の知る限りではありません。

私自身は、印刷物としての週報を作成していたら、それにかかりっきりになってしまうので、小さな出来事やお知らせはSNSの自教会アカウントに適宜アップするのが良いと思っており、実際そうしています。

 

各教会で教会報を交換し合っているのですが、教会報にはその教会、というかその管轄司祭のカラーが出ていて面白いです。

神父が神学に造詣が深く、いつも何ページにもわたって長文の神学的な文章を掲載している教会報も多いです。私には勉強になってとても良いのですが、そこの信者さんたちはちゃんと読んでいるのかな、読んでついて行けるのかなと心配になったりします。自分のレベルで物を決めつけてはいけないのですが…

私自身がそこで信者となり、かつ後に管轄司祭でもあった前任教会では、以前の管轄司祭(故人)が「教会報は信者から読まれなければ意味がない。信者にとって必要な情報を簡潔に掲載すべき」という考えで、毎月の教会報も本文4ページ(一枚の紙の裏表)プラス日程表1枚にまとめられていました。

私も当時の一信徒として、また司祭としても全く同じ考えなので、自分がその教会を管轄するにあたり、教会報も神学的メッセージ、お知らせ事項、教会内外の出来事の振り返りを4ページ以内に収まるように編集して、発行していました。

前任者と唯一スタイルが違うのは、おそらくコストの節約のために全て白黒印刷だったものを、カラー印刷に切り替えたことです。正教会は聖堂も祭服も色とりどりで、ビジュアル的に「見て美しい教会」なのであり、教会報を読む側の気持ちとしても、カラーで印刷されている方が快く感じると思ったからです。これは現教会でも全く同じで、やはり教会報を白黒コピーで印刷していましたが、私が着任した第一号からカラーに切り替えて、今に至っています。

なお、前任教会は信徒数が多かったので、教会報の印刷と発送は信徒が奉仕してくれましたが、今は全て私個人の手作業です。

 

8月号は先々週の全国公会の報告記事に加え、祈祷中の熱中症対策や再拡大しているコロナ感染への注意喚起なども加えて、平日である昨日のうちに、人吉郵便局から発送することができました。

封筒詰めされた教会報

 

さて、私が所属する西日本教区では年に二回、教区報「西日本正教」を発行しています。16ページないし20ページの小冊子です。

教区報「西日本正教」(前回号)

 

編集(印刷の手配まで含む)担当は教区内の司祭の当番制で、持ち回りで順番が回ってくるのですが、今回の「2022年夏号」は私が当番となりました。

8月末に信徒宛てに発送しなくてはならないので、そこから逆算すると印刷の手配は印刷業者がお盆休みに入る前の8月上旬、さらに当番以外の各司祭による校正の時間を考えると遅くとも7月末には初校を上げる必要があります。

そのようなわけで、6月の末には全体の構成を考えて、各司祭に書いてもらいたい原稿のテーマを提示。今週の締切りまでに続々と上がって来た原稿と写真を、レイアウトを考えながら編集しました。

広報物は原稿が集まらなくて苦労するとよく聞きますが、わが教区は健筆家の人が多くて(皮肉ではなく嬉しい悲鳴という意味)、原稿集めには困りません。むしろ、全文載せたら紙数がオーバーしてしまうので、どう編集してページ内に収めるかが苦心惨憺、というか編集者の腕の見せ所です。

教区報を編集中

 

何とか、自分で設定したリミットの今日中には、初校を各司祭に提示できそうです。

 

教会報の発送も教区報の初校も、7月末日までに済ませれば問題ないのに、なぜ1週間も早くやり上げようとしたかというと、今度の月曜(大村に前泊するので正確には明日の夜)から五島列島に行き、現地のカトリック教会やキリシタンの遺構を見て回る予定を入れているからです。つまり純粋に自己都合です(笑)。

やるべき仕事を片付けないと、楽しいことも楽しめなくなります。その意味では、来週は天気も良さそうだし、楽しい取材(教会的には司祭夏季休暇)になりそうです。

鹿児島に巡回 日曜学校用の本について

昨日は鹿児島ハリストス正教会に巡回しました。


www.youtube.com

 

アメリカ在住のナオコさんとリュウキくん母子が半年ぶりに鹿児島に里帰り。聖体礼儀に参祷したので、私たちも再会を喜びました。

いま、わが国ではコロナの感染が再拡大していて、鹿児島県も過去最多を更新中。もちろんアメリカは今でも、わが国よりはるかに感染者が多いのですが、マスクの着用は「本人の自由」とされていて、人前でマスクをしている人は少ないそうです。

もちろん、わが教会ではマスクを着用してもらいましたが。

 

ナオコさんには3月の一時帰国時に、お友達でイベント企画会社「宙の駅」の代表の本田さんを紹介してもらいました。

その本田さんが進めているウクライナ避難民のための義援金募集イベントとして、講演会でお話をさせていただいたことは既に記したとおりです。

 

frgregory.hatenablog.com

 

本田さんは来月、8月13日(土)に宝山ホールを借り切り、音楽関係者を集めてウクライナ避難民支援のチャリティコンサートを開催します。ちなみに宝山ホール鹿児島市内のコンサートホールで、私も霧島音楽祭の演奏を聴きに何回も行っています。

そのコンサートのトリとして、リュウキくんがバイオリンの演奏をするとのことで、招待状をもらいました。

リュウキくんのバイオリンは、3月に参祷した時に聴かせてもらいました。彼はまだ小学生ですが、とても上手です。

私も今年の2月から、40年ぶりにバイオリンを再開しましたが、楽器演奏というのは幼児の時からやっている人には全く敵いません。

もちろん、そのコンサートには妻と行くことにしています。

チャリティコンサートの招待状


ナオコさんからは英語話者の子どものために、ということで、アメリカの日曜学校で使う書籍類を鹿児島教会へのお土産にいただきました。

アメリカ正教会の子ども向け書籍

『The Law of God』というタイトルを見て、これは『ザコン・ボージイ』かなと思って開いて見ると、確かに『ザコン・ボージイ』の英訳本でした。

ザコン・ボージイ』とは、ロシア語で「神の法」という意味です。旧約聖書の律法書を思わせるような物々しいタイトルですが、実際は子ども向けの易しい本です。キリスト教の基本的な教理から、正教会の習慣や聖堂内のマナー、それこそ十字を描く時の指の形に至るまでこと細かく書いてあり、ロシアでは日曜学校のテキストとして昔から使われています。

なぜ内容まで知っているかというと、私が神学校在学中、『ザコン・ボージイ』がロシア語読解の授業のテキストだったからです。ロシア人の子どもには簡単な文章でも、40代になって初めてロシア語を習ったオジサン神学生の私には読むのが大変でしたが。

 

『He is risen』という本は、キリストの受難から復活と昇天に至るまでの物語でした。広義の絵本ですが、描かれた絵ではなく、様々な形の石を並べて聖書の場面を表現したもので、ページごとに子ども向けの簡単な英語のタイトルと聖書の該当箇所からの引用が書いてあります。とても良くできています。

 

鹿児島教会へのプレゼントとはいえ、鹿児島には英語話者どころか子どもの参祷者自体がいないので、私の方で保管して福岡などの子どもが参祷する教会への巡回の時に持参することにしました。

 

妻に言わせれば「日本人が見ても、聖書の日本語(日本正教会訳の聖書は文語体)よりこっちの英語の方がよっぽど分かりやすい」とのこと。それはそれで困るのですが、確かに妻の言うとおりです。

私が17年前に神学校に入ってから、教団でも教区単位でも、現代人向けの書籍をずいぶん出すようになりましたが、子ども向けの本はあまり出ていません。

一部の教会で自主出版した本が多少ありますが、教団レベルで常時刊行しているものはありません。

私自身は外国で出ているような子ども向けの日曜学校用書籍は、今の日本正教会では子どもよりも、幼児洗礼を受けたあと全く教理の勉強をして来なかった大人の信徒にこそ必要なものと考えています。「それがないと嘆くなら、あなたが自分で書けば」と言われそうですが…

とりあえず、『ザコン・ボージイ』を日本語に訳して紹介するだけでもプラスになるかな、とは思っています。

 

ナオコさんとリュウキくん母子はチャリティコンサートの後、8月19日にアメリカに戻ると言っていました。

8月の鹿児島教会巡回日は28日なので、もう彼らと教会では会えませんが、素敵なプレゼントに感謝するとともに、アメリカでの良き信仰生活を祈っています。

大雨の人吉 皆さんの地域でも警戒を

一昨日、東京出張から戻りました。

教会報に先週末の全国公会の報告記事を載せることに加え、年に二回発行している西日本教区の教区報の編集当番が回ってきたので、この二日間は原稿書きと編集作業に追われています。神父というより完全にライターになっています。

 

明後日は鹿児島へ巡回予定。

妻は聖体礼儀で用いるパンを焼きました。正式にはプロスフォラといいますが、一般的には「聖パン」(英語ではHoly Bread)と呼びならわされています。

今日焼いた聖パン

前任地のような比較的大きな教会では婦人会などの奉仕、小さな教会では神父本人が焼いているところが多いようですが、私のところは妻がこういうものを作るのが得意なので、妻に任せています。

聖パンの材料は小麦粉と水とイースト菌だけと決められているので、店屋で売っているような一般的なパンを用いることはできません。そのため世界のどこの国でも、正教会では、自教会で使う聖パンは自家製が基本だろうと思います。

よって金曜日か土曜日には、世界中の正教会でパンを焼いているに違いありません。

 

さて今日は、朝から雨が降り続いており、これは屋内の仕事がはかどっていいなと思っていたら、夕方になるにつれて雨は収まるどころか、バケツをひっくり返したような勢いになってきました。

市は16時に高齢者避難指示を出しました。

近所の小さい河川では既に溢れたところがあるようです。

 

どうやら九州に線状降水帯が発生するおそれがあるとのこと。

線状降水帯などという用語はこれまで全く知らなかったのですが、ちょうど2年前に人吉を襲った豪雨災害の時に初めて知りました。

深夜に避難指示が出たらすぐ逃げ出せるよう、今夜は枕元に市から支給された防災ラジオと懐中電灯を置いて寝ることにします。

 

豪雨災害は人吉だけではなく、どこでも起こる恐れがあります。

どうか皆さんの地域でも、普段から警戒なさってください。