一昨日の日曜日は福岡に巡回。信徒総会で福岡に新教会を造る構想と、そのための方策について説明し、信徒たちの賛同を得ました。
現在福岡伝道所として使用している建物は、福岡空港の近くで競売にかけられていた90㎡ほどの畑をある人が買い取り、そこに2010年に建てられたプレハブ小屋です。
道路の幅が2mほどなので、建築上の制約があり、建物は玄関やトイレなども含めて6坪(12畳相当)しかありません。祈祷で使えるスペースはせいぜい8畳分くらいでしょうか。
月に一度の巡回日には、その狭い伝道所に15名前後が参祷して、室内は人で一杯になります。
それはそれで熱気のある祈祷かも知れませんが、信徒の数に対して会堂があまりにも狭すぎるので、何とかして欲しいという気持ちは、皆が心の中で思っているのだろうなと思いました。
さて、日にちが開き過ぎてしまいましたが、先月末の五島の旅の総括の続きです。
江戸時代、徳川幕府がキリスト教信仰を禁止しており、信徒を探索して棄教を強制していたこと、棄教を拒んだ者たちは残虐に殺害されたこと、またその結果、表面的には仏教徒を装って信仰を守ろうとした「潜伏キリシタン」と呼ばれる人々がたくさん存在したことは、日本史の授業で習うことなので誰でも知っています。
このキリシタン迫害の背景は、幕府がスペインやポルトガルによる侵略を警戒して鎖国し、彼らの手先となりかねないカトリックの布教自体を排除した、つまり幕府の「政策」とも説明されます。
しかし五島崩れ、すなわち五島のキリシタン大迫害が始まったのは明治元年(1868)。つまり徳川幕府を倒し、西洋に国を開いているはずの新政府のもとで起きています。
これをどう理解したら良いでしょうか。
この明治のキリシタン迫害の発端は1864年、長崎に大浦天主堂が建てられたことにあります。
1865年3月17日、浦上の潜伏キリシタンの女性が大浦天主堂を訪ねて来て、プティジャン神父に「サンタマリアの御像はどこ」と尋ねたことで、日本の250年に及ぶ禁教時代にも信仰を守り続けた信徒がいることが発見されました。このため、3月17日はカトリック教会で「日本信徒発見の日」として記念日になっています。
これは教会側だけでなく、長崎の潜伏キリシタンの側にも朗報となりました。「大浦にフランス寺(カトリック教会)が建ち、神父もいる」という情報が広まり、続々と大浦天主堂を訪ねて信仰を告白する人々が現れたのです。
上五島・若松島の桐出身のガスパル与作も、大浦を訪ねて五島にもキリシタンがたくさんいることを告げました。そして五島に戻って、人々に大浦で信仰を表明するよう呼びかけたのです。
しかし、キリシタンであることを表明する人々が増えてきて、当局も黙認できなくなり、ついに1867年7月、浦上のキリシタンが大量に逮捕され、拷問を受けるという事件が起きました。これは江戸時代以降、長崎で発生したキリシタン大規模弾圧の4回目であることから「浦上四番崩れ」と呼ばれます。
この直後に徳川幕府は大政奉還で消滅しますが、新政府も禁教政策を維持し、西欧諸国からの猛抗議を黙殺して、キリシタンを徳川時代以上に迫害しました。
発足当初の新政府は政策として、神道の国教化を進めるために仏教寺院を迫害(廃仏毀釈)していたのであり、いわんやキリスト教をや、ということでしょう。
明治新政府は1868年、五島藩にもキリシタン捕縛を命じました。
久賀島の大開では、6坪の牢に約200人のキリシタンを収容し、棄教させるための拷問が数か月にわたって連日行われました。その結果、老人や子どもを中心に42人が死亡しました。
6坪とはわが福岡伝道所と同じ面積です。15人の参祷者でもぎっしりなのに、200人とは1㎡に10人ですから、キリシタンたちは呼吸すらままならなかったでしょう。
この牢の跡地には「牢屋の窄殉教者記念教会」が建っており、傍らには42人の一人ひとりの名や最後の言葉などが刻まれた慰霊碑があります。
また、福江島の楠原でも、帳方(村の責任者)・狩浦喜代助の家が牢として接収され、そこにやはり約200人のキリシタンが押し込められて43人が死亡しています。
現在は、楠原教会の近くに牢の柱や梁の部分が保存されています。
こうして見ると、政治的権力者は罪なき民に酷いことをするなと思うのですが、少なくとも五島においては、潜伏キリシタンの住民は江戸時代から人々から差別を受け続けていたのです。従って迫害にもキリシタンでない住民たちが協力し、捕縛されたキリシタンの家財や農作物が奪われたりしました。つまりこの迫害は権力者だけの問題ではなく、もっと根源的な地域社会の差別問題なのです。
そもそも、五島の潜伏キリシタンは昔からの住民ではなく、1797年以降に、大村藩領の外海地方から来た移民とその子孫です。
大村氏はかつて熱心なキリシタン大名で、領内にも多くの信徒がいましたが、徳川時代に棄教して迫害を行ったため、信徒は潜伏キリシタンとなりました。
寛政年間、人手不足に悩まされていた五島藩が大村藩に移民を送るよう要請しました。これを機に、外海地方で迫害から潜伏していたキリシタンたちが大量に五島に移民したのです。
しかし、彼らキリシタン移民は先住の島民から嫌がらせを受け、山の上や海辺などの耕作に向かない土地しか与えられませんでした。
移民とその子孫は「居付」(いつき)という差別用語で呼ばれ、明治になって名字を名乗ることが許された後も「居付」の生まれだと分かるように、「下山」「下川」のように「下」という字が入った姓を名乗らされたとガイドさんから聞きました。
五島では生まれた場所の地名と名字を名乗ればクリスチャンか仏教徒かが分かると、以前聞いたことがありましたが、その理由はこういうことだったのかと思うと戦慄します。いわゆる被差別部落問題に類似した、すさまじい差別の実態があったのです。
五島のキリシタンたちの迫害への抵抗や教会への献身の並外れた姿勢は、揺るぎない信仰の表明以外の何ものでもなく、これはそういった差別に対して自己のアイデンティティを守りたいという思いの表れに違いないと思っています。
いま、元首相襲撃事件をきっかけに、ある宗教団体や、それと関わりがある人々への追及が報道などでエスカレートしています。
しかし私は、現代日本は自由主義社会で、信仰の自由が基本的人権の一つとして保障されているのですから、特定の宗教、さらには宗教自体を忌まわしいものとして排斥するのはおかしいと考えます。
要は宗教団体であれ他の集団・組織であれ、彼らがしている「行い」の内容が違法であるか、反社会的であるかを追及し、もしそうであるなら法に基づいて取り締まるべきなのであって、信仰という「人の心の中」を追及するのは間違っています。
ましてその特定の信者だからという理由で、自分がその人々を差別したりいじめたりしたら、かつての狂気に満ちたキリシタンへの迫害者と一緒になってしまいます。
カルト宗教とは、自分たちを絶対に正しいと主張し、他の信仰、他の価値観を認めないことに特徴があると考えます。その意味では、「うちの教会は伝統のある、ちゃんとした教会です。いまマスコミで騒がれている○○教会みたいなカルトではありません」などと声高に主張すること自体が、自分たちもカルト化に足を一歩踏み入れていると言えないでしょうか。
もちろん、私自身は自分が信じ、また宣教者として教えを説いている宗教が正しいものであると確信しています。しかし、それは自分の心の問題であって、自分の宗教を他人に強制したり、まして違う信仰の人々を差別したりする考えは全くありません。
神は全ての人間を等しく造っており、一人ひとりに自由な意思を与えてくださっていると考えるのが、私たちの教義です。だから、世の中にいろいろな考え、いろいろな価値観があるのは「神の御旨」として当然であり、そのいろいろな人々を分け隔てせずに愛することが「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)というキリストの言葉に適うものと考えます。
自分に五島の人々ほどの堅固な信仰があるかどうかは甚だ疑問ですが、自分の信仰は人を攻撃するためでなく愛するためにあることを自覚して、今後も歩んでいきたいと思います。