九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。2019年から九州全域を担当しています。

五島の旅の振り返り ①信徒にとって聖堂とは

木曜日の夜、三泊四日の五島の旅を終えて人吉に戻りました。

初日は投稿しましたが、夜は夕食のアルコールと日中の疲れがあってすぐに寝てしまい、二日目以降は投稿できませんでした…

そこで今後何回かに分けて、五島の旅の総括をしたいと思います。

 

今回、五島に51か所あるカトリック教会のうち、4日間で24か所を訪問しました。市街地にある教会は少なく(そもそも五島に市街地と呼べる場所はいくらもありませんが)、中にはチャーター船でないとたどり着けない教会もありました。

旧聖堂を文化財として残していて、ミサは新聖堂で行っている教会もありましたが、それをおいても訪問先の全てにおいて、それも過疎化の著しい辺鄙な集落にあっても、ちゃんと信徒が通っていて定期的な教会活動が行われていることにまずは驚きます。

 

明治・大正期に建てられた聖堂も多く残っています。

中に入れた聖堂は少なかったのですが、扉が開いていた聖堂は、たとえ古い建物でも内部はちゃんとメンテナンスされていて、信徒の聖堂への愛着が伝わってきました(内部の写真はありません)。

重要文化財・五輪教会旧会堂(1881年

福見教会(1913年)

中ノ浦教会(1925年)

 

こちらの江袋教会は、1882年に建てられた聖堂が2007年に火事で全焼しましたが、全国からの寄付で元通りに復元されています。しかも、現在でも司祭が巡回して月に二回、ミサが行われています。つまり、展示物でない「140年間、活きている教会」です。

長崎県指定有形文化財・江袋教会(1882年)

こういった立派な聖堂が、場違いなくらいの辺鄙な漁村や山村に建てられているのを見ると、「どうせ宣教会が本国から資金を持って来て建てたんじゃないの」と思ってしまうのですが、そうではなく、地域の信徒がお金を出し合って建てたものばかりです。

しかも、古くからの五島の信徒に富裕層はほとんどおらず、不便で貧しい土地にしか住むことを許されなかった漁師や小作農ばかりでした。理由はキリシタンへの差別問題があるのですが、これは重要なテーマなので、後日改めて書きたいと思います。

ちなみに明治期の日本正教会は、財政的にはロシアからの資金提供に依存し、旧士族や豪農などの知識層・富裕層を主なターゲットとして宣教していました。今日も地方にある日本正教会の会堂の多くは、地域の大地主から提供された土地に建てられたものです。五島のカトリック教会は、それとは明らかに異なっています。

 

上五島地方・中通島の北部の仲知は鄙びた漁村ですが、1978年に新築された立派な聖堂が建っています。信徒数は70戸ほどですが、一戸あたり140万円のお金を拠出し、さらに信徒が建設作業のボランティアまでして建てられたそうです。

仲知教会の現聖堂(1978年)

聖堂の窓はイタリアで造られた、数千万円するステンドグラスです。聖書のいろいろな場面を描いたものです。

面白いことに「弟子たちの召命」(マタイ4章)の絵で、漁師であったペトロたちが当時の姿でなく、現代の地元漁師の姿で描かれていることです。

ステンドグラス「弟子たちの召命」(左)

また、キリストが弟子たちの足を洗う場面(ヨハネ13章)のステンドグラスには、弟子たちの中に混ざって、この集落出身の島本要・浦和司教(後に長崎大司教。故人)の姿が描かれています。

ちなみに、現・大阪大司教の前田枢機卿もこの集落出身です。こんな小さな漁村が、司祭どころか複数の司教まで輩出していることに驚きます。

ステンドグラス「弟子たちの洗足」(左)

こういった変則的な構図は正教会のイコンでは絶対に許されないことであり、従って正教会の聖堂ならばあり得ないものですが、それに対して「この聖堂は地域社会で生きる私たち信徒の象徴であり、共通財産だ」という強烈な意識が感じられました。

 

さて、先日の元首相襲撃事件をきっかけに、霊感商法や高額献金でトラブルを起こした某宗教団体が問題となった結果、今「カルト宗教」という言葉が独り歩きしているような印象を受けています。

本来カルト宗教とは、過激な教義を標榜して反社会的な行動をする宗教を指すはずなのに、なぜか高額献金のことだけが問題視されていて、その結果「人々からの寄付で運営される宗教団体の存在自体が悪」という、変な流れになっているように感じます。

そういう目で見たら「田舎の貧しい漁師たちから一戸あたり140万円ももらうような五島の教会は霊感商法と一緒だ」と、おかしなことを言い出す人もいるかも知れません。

しかし私に言わせれば、わが国では信仰の自由が認められているのですから、自発的な意思で信仰を持つ人が、同じく自発的な意思で献金し、それで信仰の共同体(寺院であれ神社であれ教会であれ)が維持されるというのは、当たり前で健全なことです。逆に宗教団体が収益事業に血道を上げることの方が異常です。

要するに宗教とは、どれだけ教団が金銭的な収益を上げられるかではなく、信者の精神的な救い、および一般社会の人々との関わり方において評価されなければならないと考えます。

 

その意味において信徒の献金が教団組織や、そこの指導者個人の金銭的利益になるのではなく、「信徒の共通財産」としての聖堂となることは、最高の「使いみち」だと言えるでしょう。なぜなら聖堂は、仮にその地域が過疎化・高齢化し、今いる信者が死んでいったとしても、この五島の教会群のように時代を超えて地域社会のシンボルとして存続していくことができるからです。

わが日本正教会でも、創立者のニコライ大主教がアジアで最大規模の大聖堂を東京に建てる計画を打ち出した時、教団内で猛烈な反対運動が起きました。聖堂なんかに大金を投じるのは無駄遣いであり、そんなお金があるなら専従教役者の給料を上げることの方が優先だという声が大多数だったからです。

しかし、ニコライ大主教は「何百年も残る教会のシンボルを造ることの方が大切だ」と言って、大聖堂建立を強行しました。これが今も建っているニコライ堂です。ちなみに建設資金の大半は日本人の献金ではなく(そもそも彼らは建設に反対)、ニコライがロシア本国に行って集めた寄付でした。

ニコライ堂の完成は1891年ですが、それから130年を経た今、日本正教会の信徒数は全国で正味数千人ほどまで減っています。しかし、ニコライ堂は宗教を超えて全国的に知られる東京名所の一つであり、そのおかげで私たちの地方教会も「あのニコライ堂と同じ系列の教会」と名乗ることで一定の認知を受けています。

もしニコライが建設反対運動に屈して、スタッフの給料アップでお茶を濁していたら、その時は教団内で人気者になったかも知れませんが、日本正教会が存続し続けることは難しかったでしょう。

 

まさに五島に生きるカトリック信者にとっても、聖堂は「わが信仰のシンボル」だったのであり、それが今も生き続けているのです。

自分たちの信仰のシンボルより、毎月の給料の方が大切だった、つまり教会に自分をどれだけ捧げるかより、教会から自分がどれだけ貰えるかの方が関心事だった当時の日本正教会の人々の信仰心は所詮その程度であり、それが今のカトリック教会とわが教団のレベルの差に繋がっていると認めなければならないのは残念ですが。

しかし、この五島のカトリック信徒の熱烈な信仰の背景には、「迫害」とか「殉教」といった高尚な言葉よりも、「差別」という生々しい言葉の方があてはまる、過酷な実態がありました。そのことについては前述のように、日を改めて書きたいと思います。