九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

日本軍国主義の殉教者 セルギイ府主教

8月10日は、日本正教会の第二代首座主教・セルギイ府主教が永眠した日です。

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セルギイ府主教(1871-1945)

 セルギイ師は1871年、ロシア北部の古都ノブゴロドで生まれました。ノブゴロドの神学校を経て、サンクトペテルブルクの神学アカデミア(大学院に相当する神学教育機関)を優秀な成績で卒業。在学中の1895年、修道司祭に叙聖されています。

アカデミア卒業後はペテルブルク神学校の校長と皇帝ニコライ二世の聴罪司祭を務めました。聴罪司祭とは、痛悔機密(司祭の前で自分の罪を告白して神の赦しを得る祈祷)の担当司祭という意味ですが、皇帝の罪の告白を聴くということで、優秀で信用のおける司祭が専属として特別に選ばれていたのです。

1905年11月、セルギイ師は34歳の若さで主教に叙聖。ペテルブルク教区の補佐主教と神学アカデミアの学長に就任しました。

これはいかに彼が優秀であったか、また将来のロシア正教会のリーダーとしていかに期待されていたかを示すものといえます。

 

1908年、セルギイ師は東京のニコライ大主教の将来の後継者として、京都の主教に任じられ、6月に来日しました。

本来、その役割は前年に京都に着座したアンドロニク主教が担うはずでしたが、病気ですぐに帰国してしまい、セルギイ師が後任となったのです。

アンドロニク主教(後に大主教)はロシア革命ボルシェビキに殺害され、いまは殉教者として列聖されています。

 

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一般論として、当時のセルギイ師の地位を考えれば、首都サンクトペテルブルクから極東の島国、それも直近の戦争の敵国であった日本に異動するというのは左遷以外の何ものでもありません。

この辺りの事情については、日本正教会史研究者の長縄光男氏(横浜国立大学名誉教授)が数年前の講演で、教区内の金銭トラブルの責任を取らされたものという分析を述べていました。

しかし本当の事情は今となっては分からないのであり、はっきり言えるのはこの日本赴任がセルギイ師のその後の人生を大きく変えたということだけです。

 

セルギイ師の来日から4年後の1912年2月、ニコライ大主教が永眠。日本正教会の全国266か所の教会と3万3千人の信徒がセルギイ師の手に託されました。ニコライ大主教の半世紀にわたる働きで、日本国内で正教会は当時、カトリックとほぼ同等の教勢を持つ教団に成長していました。

 

しかし5年後の1917年、ロシア革命が勃発。帝政ロシア時代の日本正教会は運営資金のほとんど(予算の9割以上)を本国から得ていましたが、共産主義体制の発足で打ち切られ、それにともない専従の聖職者やスタッフの雇用を維持できなくなりました。 

その結果、大正の後半から昭和初めにかけて多くの関係者が教会を去り、また維持できなくなって閉鎖する教会も続出しました。

信仰の世界で「金の切れ目が縁の切れ目」が起こるというのは残念でならないのですが、当時の人々の信仰がニコライ大主教の個人的なカリスマに依存していただけで、真のキリスト教信仰に至っていない発達途上の段階であったことは認めざるを得ません。

 

さらに追い打ちをかけた不幸は1923年9月の関東大震災でした。

教勢減退の中で最後の拠り所というべきニコライ堂が震災で倒壊・全焼。敷地内の教団本部や神学校も、内部の書類書籍や聖器物もろとも全て焼失しました。

日本正教会は収入だけでなく、持っている財産も失ったのです。

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損壊したニコライ堂(右奥)と建設中の仮聖堂

(河村以蔵神父撮影・データは筆者所蔵)

 

大震災の翌月の臨時全国公会でニコライ堂の再建が決定。それからセルギイ師は自ら全国の信徒の家を一軒残らず戸別訪問し、再建資金の寄付をお願いして回りました。

再建費用の見積もり24万円に対して、寄付は5万5千円しか集められませんでしたが、ニコライ堂の再建は着工され、震災から6年後の1929年12月にようやく成聖式(いわゆる竣工式)に至りました。

予算の大幅ショートで当初予定していたレベルの大聖堂は建てられませんでしたが、それでも国の重要文化財として、今でも東京名所であるニコライ堂を再建したことはセルギイ師の最大の功績です。

最初の東京復活大聖堂はニコライ大主教の名にちなんで「ニコライ堂」と呼ばれたのだから、現大聖堂はニコライ堂ではなく「セルギイ堂」と呼ぶべきだとさえ、私は思っています。

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再建直後のニコライ堂清水建設撮影)

 

さてニコライ堂の再建後、1931年の満州事変勃発を皮切りに、わが国が軍国主義、言い換えれば過激で極端に偏狭なナショナリズムの道をたどったのはご承知のとおりです。

特に37年の日中開戦から41年の真珠湾攻撃にかけて戦局が拡大していく中で、国は思想や言論の統制を強めていったのですが、宗教に対しても例外ではありませんでした。

39年に成立した「宗教団体法」は宗教団体、とりわけ外国由来の宗教であるキリスト教を規制するものでした。プロテスタントは18教団が統合されて「日本基督教団」が設立され、日本正教会も国内宗教団体「日本ハリストス正教会教団」となりました。

この法律は宗教団体の代表者は日本人でなければ認可しないと定めていました。つまりキリスト教迫害の一環として外国人指導者を排除するのが目的でした。

セルギイ師は本国のモスクワ総主教庁との繋がりを保つためにソ連国籍を取得し、ニコライ大主教を上回る地位の府主教にまで昇叙されていたのですが、それがかえって仇となりました。

セルギイ府主教は教会法的には日本正教会の代表であるはずが、外国籍を理由に解任され、自分が再建したニコライ堂から追放されてしまいました。まさに政治の宗教への介入の犠牲者です。 

 

41年1月、セルギイ府主教は東京の世田谷区太子堂にあったプロテスタントの旧牧師館に転居。そこに支持者の亡命ロシア人や日本人信徒が集まって祈祷を守る生活を続けました。

しかし、ソ連国籍のセルギイ師のもとに人々が集まることは、警察や軍に睨まれる結果を生みました。

 

ついに45年5月、セルギイ府主教はソ連のスパイの容疑で憲兵隊に連行され、一か月以上連日厳しい取り調べを受けました。それは74歳のセルギイ師の心身に重い負担でした。

容疑不十分で6月に釈放されたものの、太子堂の家は5月25日の山の手大空襲で焼けて無くなっていました。

健康を害し、何もかも失ったセルギイ師はやむなく板橋のあばら屋で生活を始めましたが、ついに8月10日、5日後の終戦を見ることなく寂しく永眠しました。

 

 歴史に「もし」は禁物ですが、もし京都のアンドロニク主教が病気にならなかったら、もしロシア革命が起きなかったら、もし関東大震災がなかったら、もし日本が戦争をしなかったら…セルギイ府主教の人生はかなり違ったものになっていたでしょう。

 しかし、ニコライ堂再建の偉業を成し遂げながら、過酷な時代の荒波を受け入れて、最後は日本軍国主義の犠牲となったセルギイ府主教の生涯は紛れもない事実なのであり、私たち日本正教会関係者は今もセルギイ師の安息を祈り続けています。