台風9号の九州上陸と鹿児島・宮崎両県の通過で、人吉でも今日の未明は家が吹き飛びそうな暴風雨で、ほとんど眠れませんでした。
しかし、夜が明けるととすっかり良い天気になり、朝9時に避難指示も解除になったので、ひとまず安心しました。
長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典をテレビで視聴。原爆投下時刻の11時2分から黙祷を捧げ、長崎市長のメッセージを聴いてから親子三人で西陣織の講演と展示会に出かけました。
会場は人吉市内のリゾートホテル「華の荘」です。
人吉市内の温泉旅館はほとんどが球磨川沿いにあり、昨年の水害で壊滅的打撃を受けてほとんどが再建途上ですが、このホテルは高台にあったため無事でした。そのため、しばらくの間、みなし避難所として使われていました。
講演まで時間があるので、1500円のランチ付き入浴券を買って、山の景色を見ながら食堂で昼食。なかなかゴージャスです。
食後に展示会場へ。
主催者は熊本の呉服屋さんなのですが、京都の西陣織あさぎ美術館の展示物をたくさん持って来ていました。国宝・文化財の襖絵や屏風絵の織物による模写です。
売り物の反物も飾られていましたが、さすがに見るだけです…
13時にあさぎ美術館の方による西陣織についての講演会が開始。
この美術館は京都の中心地の四条烏丸にあるとのことですが、全く聞いたことがなかったので後で調べてみたら、事業破綻した西陣織の高級ブランド「西陣あさぎ」を専門商社の塚喜商事が買収。展示場として美術館を2年くらい前に造ったようです。
西陣織は京都の高級織物で、「西陣」とは応仁の乱の西軍の陣地に由来する、というくらいしか予備知識がなかったのですが、そもそもわが国の絹織物産業の起源はどこにあるか、という話から始まったのでとても面白かったです。
日本に養蚕と機織りをもたらしたのは、3世紀に渡来した秦氏。
飛鳥時代の5世紀から6世紀にかけて、各地に散らばっていた秦氏は山城の太秦に集まり、そこで絹織物生産が一大産業化されました。当時の秦氏を重用したのが聖徳太子であり、太秦に聖徳太子を祀る広隆寺が建てられたのはまさにその証しとのこと。
日本の繊維産業は明治から戦前にかけて世界の最先端だったわけですが、イノベーションの最初の火をつけたのは古代の渡来人だったんですね。
京都の絹織物産業は、応仁の乱で都が荒廃したため堺に移転。戦後、御所に近い西軍陣地の跡地に再移転し、朝廷や公家へのマーケティングを展開することで今日の「西陣織」が誕生。
その後朝廷や公家ら、一部の階級だけが占有していた絹織物を、織田信長が武士への褒美として活用したことで裾野が広がりました。
さらに明治になり、これまで手織りしかなくて生産量に限界のあった織物が、豊田佐吉が自動織機を発明したことで大量生産が可能になり、流通拡大に繋がりました。
飛鳥時代の秦氏から始まる日本の繊維産業史…雄大なロマンです。
実際の西陣織の生地も見せてもらいましたが、反物一反で数十万本の金糸銀糸(純金とプラチナを使用)が使われていて、布自体がまさに芸術品だなあと思いました。
さて、どういうコネがあるのか知りませんが、わが教団から海外の正教会の要人へのプレゼントはいつも西陣織です。
昨年9月にニコライ堂で、「日本正教会自治50周年記念式典」が開催されました。これは第二次大戦後、帰属があいまいだった日本正教会が、1970年4月に「日本の府主教を主座とする、モスクワ総主教管下の自治教会」と正式に承認されて50年となることを記念するものです。
コロナ禍のため、主賓であるモスクワのキリル総主教の来日が見送られ、私たち地方教会の聖職者も呼ばれませんでしたが、キリル総主教には記念品として西陣織の反物が贈られました。
この生地で祭服を作ってくださいということでしょうが…いろいろ話を聞いた後では、自分だったら西陣織の祭服なんか勿体なくて、とても袖を通せません。もし裾をどこかに引っ掛けて糸がほつれたらと思うと、気が気でなくて祈祷どころではありません。
もっとも私は将来にわたって、西陣織の祭服を着るような特別な立場に就くことはありませんから(そもそも妻帯司祭ですから主教になる資格すらありません)、かえって気楽なのですが(笑)。