九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

ニコライ堂に出張

先週末にニコライ堂で開催された全国公会に出席するため、東京に出張しています。

 

9日(土)の昼、ニコライ堂に到着。


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教団役員を除く代議員数は50人ですが、うち37人が出席。過去2年間はコロナ禍のため、事実上の専従職員会議のような状態でしたが、今回は出席者が増えて、代議員総会としては少し前進です。

 

午後の会議初日か終わり、18時から大聖堂で徹夜祷。

ニコライ堂での祈祷に与るのは1年ぶりです。


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翌日の日曜日は朝9時半から聖体礼儀。

コロナ対策で参祷者が限定されていたためか、男性の聖歌隊員が二人しか来ていなくて、急遽聖歌隊に引っ張られました。

混声四部合唱版の聖歌を歌うのも久しぶりです。


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聖体礼儀の中で、日本正教会の司祭団の筆頭者であるマルコ小池神父(一関教会)に、主教に準じる立場を示すミトラ(冠)、司祭叙聖10周年を迎えたルカ田畑神父(石巻教会)とフェオドシイ市村神父(東京に所属し、鹿沼と足利を牧会)の二人に金十字架とカミラフカ(帽子)が授与されました。

地方教会で頑張っている仲間が顕彰されるのは、自分のことのように嬉しいです。


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午後は会議2日目。

教団の会議ですから、こういう場で議事の内容を書くことはしません。

ただ、会議の最終議案は教団教職員の人事異動の発表と決まっています。

これはなぜか一番関心の集まる議案なのですが、今年度は管轄司祭の異動はありませんでした。

私も福岡に新教会を立ち上げるまで、九州から転勤することはないでしょう。何年かかるか分かりませんが。

 

会議が終了すると、再び大聖堂に移動し、日本正教会創立者・亜使徒聖ニコライに感謝祈祷を献じることになっています。


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全国公会は、現在は法令で定められた宗教法人の年次総会の位置づけですが、これはもともと明治7年(1874)から毎年続いている定例会議です。

本来の趣旨は、全国に派遣された伝教者(宣教師)たちの報告を聞き、労をねぎらい、そしてさらなる宣教方針を打ち出すためのものでした。

なお、明治8年の第二回会議から、開催日は亜使徒聖ニコライの司祭叙聖日である7月12日(聖使徒ペトロ・パウロ祭)の前後とすることとされ、今日に至っています。

それにしても、新政府発足から間もない明治初期に、他教派に先んじて日本人宣教師を養成し、全国に派遣していたニコライの力量には驚くべきものがあります。

 

私自身は信徒時代も、司祭になってからも、クリスチャンライフの大部分の年数を東京教区で送っていますので、今は年に一度の東京出張が同窓会みたいな感覚になってしまっています。

しかし、ここは明治時代の伝教者たちのような初心に帰って、地方での宣教の成果を堂々と東京で語れるように頑張りたいですね。

災害と人吉

異常に早い梅雨明けで、天候はもう真夏になってしまいました。

さらに一昨日は台風が九州に上陸。当地で大雨には慣れっこになってしまったので、この台風は大したレベルとは思えませんでしたが、7月になった途端に台風上陸というのも異常気象ですね。

 

昨日は台風が通り過ぎて雨が止んだので、参院選期日前投票のために人吉市役所に行きました。

人吉市役所は2016年4月の熊本地震で被災して取り壊され、以来ずっと市内に分散された仮庁舎で執務が行われてきました。市長室に至っては市立図書館の一室という有様でした。

当然ながら市役所の再建計画が進められてきたのですが、一昨年の大水害の影響もあって難航。地震から6年経った今年の5月にようやく新庁舎が完成しました。

新庁舎に入るのは完成して初めてですが、建物だけ見たらここは大都市かと思うような立派なものです。

5月にオープンした人吉市役所新庁舎

人吉市は水害からの復興はもちろんですが、高い高齢者人口比率、産業の誘致(銀行の支店以外に大企業の事業所は皆無)、高等教育機関の不在(大学がないので高校を卒業した若者は、進学であれ就職であれ都会に出てしまって戻ってこない)等々、自治体としての問題が山積しています。

市も庁舎という器だけで満足せず、今後もしっかりと行政の役割を果たしてもらいたいと思っています。

 

さて人吉は1193年、遠江御家人・相良氏が源頼朝から地頭に任じられて下向したことに始まる、歴史ある城下町です。相良氏は1871年廃藩置県まで700年近く、人吉の領主であり続けたのであり、これは1185年に薩摩に来た島津氏に次ぐ、最長の大名家ということになります。

そのため、市内には何世紀も続く老舗の店がたくさんあるのですが、このところ水害とコロナ禍の影響で続々と閉店に追い込まれています。

 

つい一か月ほど前には、市内の鍛冶屋町で650年続いた(つまり創業は南北朝時代!)鍛冶屋の「正光刃物製作所」が廃業しました。

 

相良氏は旧領の遠江からたくさんの鍛冶職人を連れてきたため、刃物づくりは人吉の主産業となり、今でも手作りの包丁などが特産品として売られています。

その鍛冶職人を住まわせた地区が、今もある鍛冶屋町なのですが、この地域は2年前の水害で水没し、大変な被害を受けました。

鍛冶屋町で唯一残っていた鍛冶屋の正光刃物は、水害後に営業再開し、テレビのニュースでも取り上げられていましたが、コロナ禍で外部から来る人が減り、ついに営業が継続できなくなってしまったのです。

先祖代々、650年も受け継がれてきた家業があっけなく終わりを迎えるとは、コロナ禍恐るべしです。

 

つい先日、水害からちょうど2年の7月4日には、人吉駅前で110年続いた和菓子屋のいわみ商店が廃業しました。

 

こちらの店は「いわみまんじゅう」という、海苔巻きのように棒状になった大福もちが有名でした。ちなみに当地では「中にあんこが入った菓子」は全て饅頭と呼ばれます。

見た目が珍しいだけでなく、味も良かったので、私は気に入っていました。

人吉駅前も水害の時は大変な被害で、いわみ商店も被災。しかし、わずか2か月で営業を再開しました。

老舗の暖簾が守られて良かったと思っていたのですが、残念ながら2年で廃業してしまったのです。

直接的な理由は後継者がいないことですが、水害で今も鉄道が不通なのに加えてコロナ禍で観光客が全くいなくなり、売り上げが見込めなくなったことも大きかったと思います。

 

コロナも広義の災害と考えれば、人吉のように数百年の歴史を重ねて営みを続けてきた町を衰退、いや滅亡に向かわせるような途轍もない災いだと考えざるを得ません。

 

報道では全国的にコロナの新規感染者が急速に拡大し、第七波到来と見なされているようです。

その中で九州各県、特に熊本県は感染拡大が特にひどい状態です。県の人口は170万人にもかかわらず、一昨日から今日までの三日間、連日1500人前後の新規感染者数で推移しています。人口わずか3万人の人吉市も、毎日二桁の新規感染者がいます。

 

まさに憎むべき災いなのですが、いくら御託を並べても教会を預かる自分自身が感染してしまっては何にもなりません。今後も感染対策に緊張感をもって牧会活動に当たりたいと思っています。

大水害から2年 復興祈念の竹灯籠

人吉球磨地方に壊滅的な打撃を与え、67人(行方不明含む)もの方たちが犠牲になった令和2年7月豪雨災害から今日で2年です。

 

人吉市では午前10時に、犠牲者への黙祷を呼びかけるサイレンが鳴らされました。

 

人吉市など、自治体による犠牲者追悼の式典は今日ではなく、日曜日の昨日に行われています。

 

水害発生日の今日は、球磨村のラフティング発着場のランドアースに、球磨村復興祈念の竹灯籠を見に行きました。

球磨村では、あの水害で25名の方が亡くなっています。犠牲者数最多の自治体です。

竹灯籠点灯の案内

ちなみに、竹灯籠の制作には、人吉ハリストス正教会も作業場所を提供させていただきました。

 

司祭館から球磨村に向かう道の途中には、仮設住宅が立ち並んでいます。水害から2年経っても、自宅を失って仮設住宅に住んでいる人々はまだ2千人以上もいます。

 

19時の点灯時刻に合わせてランドアースに到着。

ランドアースの入口に飾られた竹のオブジェ

ちょうど台風4号が九州に接近中で、かなり雨が降っていたのですが、ボランティアの皆さんが灯籠に点灯していました。

雨の中、竹灯籠に点灯するボランティアの人々

九州の日の入り時刻は遅く、19時ではまだ明るかったので、眺めとしては今ひとつでしたが、周りに明かりがない場所なので、夜遅くなれば綺麗だろうと思います。

点灯された竹灯籠

敷地内にはキッチンカーも出て、納涼気分が味わえたはずなのですが、皮肉なことに災害発生の日と同じく雨降りで何とも残念…

会場に出店していたキッチンカー

会場のランドアースはJR肥薩線渡駅の前ですが、この渡地区は最も被害が大きかった地域です。

肥薩線は不通のままで、駅のホームも線路も荒れ果てています。

肥薩線渡駅。線路が見えないくらい雑草が生い茂っている。

球磨川の様子を見てみようと、土手を上りました。

土手に上る階段にも竹灯籠

今日はまだ雨がひどくないためか、流れはゆったりしていました。

2年前の今日、この川が溢れて、周囲の家々の2階の屋根まで水没したのが信じられない思いです。

ランドアースから見た球磨川の眺め

台風は明日、九州北部に上陸する見込みで、人吉球磨地方も大雨が予想されています。

もう二度とあの悲劇が繰り返されないように、そして人吉球磨が一日も早く復興できるよう祈りながら、球磨村を後にしました。

福岡巡回 教会も通信障害のとばっちり

今日は福岡伝道所に巡回しました。

福岡で聖体礼儀

聖体礼儀に引き続き、役員会で教会の決算にあたり、会計監査に立ち会いました。

福岡伝道所は宗教法人ではないため、決算書類の書式は法令上の縛りがなく、私も福岡の会計についてはやかましく言って来なかったのですが、決算の集計に誤りが発見されたりしましたので、これからはもっと細かく監督していこうと思います。

 

聖書には使徒たちが「日々の分配のこと」(使徒6:1)、つまり宗教と関係ない、信徒間のトラブル処理に忙殺される問題が生じ、その結果、「わたしたちが神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなた方の中から霊と知恵に満ちた評判の良い人を7人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。私たちは祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」(使徒6:2-4)ということになったと書かれています。

この時、選ばれたステファンら7人は「執事」(ギリシャ語でディアコノス)と呼ばれ、今日の正教会では聖職者としての「輔祭」(ディアコノス)の起源となっています。

しかし、これは正教会だけの話ではなく、聖書に書かれている通り、使徒が「本来業務」である祈祷と宣教に専念できるよう、教会の信徒の中から牧会上の事務仕事を担ってくれる担当者の任命が始まったということです。従ってこれは今日でも教派を問わず、キリスト教会で当たり前の考え方になっています。

どうも九州は人々の性格も大らかなのか、東京教区と比べて過去の教会の事務が大雑把だったように感じてきました。しかし、わが国で宗教団体は社会から誤解を受けやすい存在だと思っていますので、会計やコンプライアンスについては一般企業などより厳格になされなくてはならないというのが私の持論です。

そのようなわけで、今の管轄教会では私自身が教会の事務にもっと関わらなくてはならないようです。なかなか聖書のように「祈りと御言葉の奉仕に専念」できそうにありません。

 

今日はそれに加えて、もう一つの問題がありました。

昨日から続いているKDDIの通信障害です。

私自身はauスマホユーザーですが、電話代が勿体ないので、こちらから通話することはしませんし、メールもネットもwifiが接続されている状態でないと使いません。そのため、通信障害が起きていることに全く気付かず、テレビの報道で初めて知りました。

 

今日は決算の集計をした役員が急用で遅れてきたのですが、携帯が通じなかったために連絡が取れず、どうしようか困りました。

さらに役員会が終わったら、遠方の家族が車で迎えにくる話になっていた一人が、やはり携帯が通じなくて、帰るに帰れなくなってしまいました。

妙なところで、教会も通信障害のとばっちりを食らったわけです。

 

考えてみますと、携帯電話が普及したのは私が社会人になった後のことです。それまでは外出先で連絡を取る手段は公衆電話しかなく、また誰かと会うには待ち合わせの場所と時間を事前に決めておくのが当たり前でした。また、駅などには必ず伝言板が設置されており、急な予定の変更によるすれ違いを防ぐ仕組みがありました。

当時は不便とは思わず、それを当たり前と考えていたわけですが、携帯電話が「当たり前」になった途端、そのようなリスク管理の仕組みも退化してしまったのかも知れません。

今日は個人間で連絡が取れないということで済んだからまだ良いのですが、火災や事故、急病などで緊急通報しなくてはならない事態だったら由々しいことになります。

 

たまたま今日の聖体礼儀で朗読した福音書に「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)と書いてありましたが、auの回線は未だに繋がりません。

私自身は上記のように、wifiさえ繋がっていれば何も困らないのですが、社会にはこの未解決の通信障害のために「明日のことまで思い悩まざるを得ない」人々がたくさんいることと思います。

早く解決してほしいですね。

猛暑の鹿児島に巡回

今日、私が住む熊本県が梅雨明けしました。

先週はずっと猛暑が続いていたので、梅雨はどこに行ったのかと思っていましたが、まさか梅雨明けとは。まだ6月なのに。

梅雨入りは6月11日でしたので、梅雨の期間は2週間ほどしかなかったことになります。

もちろん梅雨明けは観測史上最速、梅雨の期間も史上最短です。

熊本県は水資源が豊かなので(むしろ大雨による水害の方が脅威)、あまり水不足の心配はしていませんが、これまで住んでいた首都圏などはとんでもないことになりそうです。旱魃といっても良いレベルではないでしょうか。

 

さて、一昨日は鹿児島ハリストス正教会に巡回していました。


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コロナの感染状況は寒くても暑くても変わらないようで、特に鹿児島県や熊本県は全国でも新規感染者が多い地域になっています。

そのため、聖体礼儀の時も冷房を入れずに窓を開放しているのですが、司祭の祭服はかなり厚着なので本当に厳しいものがあります。

この日は特に暑くて…来月以降も心配です。

 

さて、祈祷後に来客がありました。プロテスタント教会の穂森牧師と、曹洞宗直指庵の鎌田住職です。

先月、私が熊本で行ったウクライナについての講演をオンライン視聴してくださり、私に会いたいとのことで訪ねて見えたのです。

お二人は今回のウクライナ戦争の開戦後、鹿児島市内で諸宗教合同の祈りの集いを定期的に続けています。

 

どんな宗教でも、それがまともな教えならば、戦争に反対し平和と人間愛を希求するのは当然のことです。よって、その共通項において宗教者たちが教義の違いを超えて、それぞれのスタイルで祈りを共にしようという理念は、私も大いに共感するところです。

そこで私も可能な限り参画することにし、まずは9月、鹿児島市内のキリスト教の超教派の定例勉強会に出席し、正教会の考えについてお話しさせていただくことになりました。

 

「祈りなんかしても戦争は止められない。所詮は宗教者の自己満足であり、無益なことだ」という人は少なくありません。この鹿児島での諸宗教者の取り組みに対しても、そのようなネット上のコメントを見ました。

しかし、その人は信仰という心の問題を無視して「地上のロジック」だけで物を言っているのであり、戦争を「聖戦」として美化・正当化するために、宗教を地上的な民族主義国家主義に紐づけようとしている侵略者たちと結局は一緒です。

信仰は自由ですから、自分が神を信じないのも自由ですが、神を信じて祈る人をけなすのは、はっきり言って余計なお世話です。

私は宗教者としての矜持を失わず、また日本正教会の「内輪の世界」に引きこもることもせずに、平和の実現のために沢山の方たちと祈りを共にしていこうと思っています。

 

午後、教会を後にして指宿までドライブしました。

夏空の下、池田湖越しに開聞岳の姿が美しく見えました。

池田湖の向こうに見える開聞岳

この空のように晴れ渡り、湖水のように澄み、山のように動じない心が与えられますように、神に祈りました。

帰って来た愛車 これで心置きなく巡回へ

週末の大阪出張から戻ってから、人吉では連日真夏のような猛暑が続いています。梅雨はどこに行ったのかと思います。

時たま短時間の大雨が猛烈に降り、それが上がると強い日差しが照りつけるのですが、日本ではなく、まるで熱帯の国にいるようです。他の地域ではどうなのでしょうか。

さすがに稲は東南アジア原産の植物だからか、猛暑で成長著しいです。司祭館の周りにはいかにも日本という感じの、田んぼの風景が広がっています。

司祭館の前の田んぼの風景

 

さて先月、九州道で追突事故に遭い、車が損傷して5月25日に修理に出しました。

 

frgregory.hatenablog.com

 

ようやく昨日、ディーラーから修理が完了したと連絡があったので、今日引取りに行ってきました。

ちょうど1か月ぶりに愛車と対面です!

修理が完了した愛車

綺麗に洗車されていて気分爽快です!

もっとも司祭館の周りは畑ばかりで、駐車しているとすぐ土ぼこりだらけになってしまうのですが…

 

それにしても大した損傷でもないのに作業に1か月とは、ずいぶん時間がかかるものだと思いましたが、今は「車の部品不足」が深刻で、その結果、新車の納車遅延が大問題になっているそうです。

 

要するに、コロナ禍の影響で工場の生産ラインが世界的規模で止まったため、どこでも「車が作れない」状態が続いているようです。

私の車も後ろのバンパーが変形してしまって、新品に交換しなければならない状態でしたので、図らずも「部品不足」問題のあおりを食らってしまったのでしょう。

どんな工業製品でも、オートメーション化が進んできたはずなのに、コロナで労働者が出て来られないから工場がストップとは…工業生産のマンパワー依存は未だに変わらないようです。

 

何はともあれ、この一か月もの間、傷つけないよう腫れ物に触るように代車に乗っていたので、今週末の鹿児島出張はマイカーで心置きなく行くことができます。

もっとも、これで自分が事故を起こしたら、元の木阿弥になってしまうので、調子に乗らないように安全運転を心がけます!

大阪での日曜日

昨夜遅く、大阪での出張を終えて人吉に戻りました。

 

日曜日の午前中は大阪ハリストス正教会で聖体礼儀。

西日本教区の司祭全員が(全員といっても6人ですが)陪祷する聖体礼儀は、コロナ禍以降では初めてです。

私の九州着任直後の2019年10月に、大阪での聖体礼儀に陪祷して以来ですから、もう2年半ぶりということになります。

私の感覚ではコロナが収束しているとは思えませんが、社会の流れとしてはコロナとの共存を図っていくということなのでしょう。その意味では、教会に多くの聖職者と信徒が集まって祈る光景を見ることができて、気分が高揚しました。まさに希望の光です。

 

大阪教会は西日本教区では信徒数最多の大教会で、戦前まで大阪市の中心地にありましたが、空襲で焼失。ようやく1962年に現在地の吹田市に再建されました。

イコノスタシスは19世紀のロシアで造られた大変貴重なものです。

これは元々、明治時代に建てられた松山教会のものでしたが、1923年の関東大震災ニコライ堂が倒壊したことにともない、松山教会は東京の仮聖堂としてニコライ堂の敷地内に移設されました。

1929年のニコライ堂再建後も小聖堂として使われてきましたが、昭和40年台に現在のニコライ会館(信徒会館)を建築するために解体されてしまいました。

旧松山聖堂は函館や豊橋の聖堂(ともに国重要文化財)と同じく、河村以蔵の設計によるものであり、現存していれば文化財になっていた可能性があったので、失われたことは残念に思っています。

しかし、イコノスタシスだけは大阪に新築された聖堂に移設されたおかげで、生き残ることができました。

聖堂・二階席からの眺め

説教者はソロモン伝教者(仮名)

司祭発放(聖体礼儀終了時の祝福)

今年、大阪教会管轄司祭のゲオルギイ神父(仮名)が70歳の誕生日を迎えたので、聖体礼儀の最後にお祝いしました。もしコロナの影響で、今でも公開での聖体礼儀ができないままだったら、このような教会としての祝意も示せなかったのですから、とても喜ばしいことだったと思います。

正教会の祝賀の祈り「幾とせも」

ゲオルギイ神父(仮名)の挨拶

午後は会議室で教区会議(年次総会)。

私は毎年、教区会議では司会を担当しています。前任地の東京教区の教区会議でも毎年司会者でしたし、さらには以前の会社でも、支社の会議では司会担当でした。もちろん自分で希望したのではなく、そういう役職だったからですが、つくづく司会業(?)と縁が深いものだと思っています。

司会者としては「何か質問はございませんか」と尋ねて、みな黙っていればスムーズに議事を進められるので楽なのですが、西日本教区では代議員が発言内容への指摘や質問をガンガンしてきますので、会議が取り留めもない方向に行かないよう、司会者が差配するのが大変です。およそ総会というものは、「異議なし」で粛々と進んでいくことが普通ですが、この教区会議では議論が白熱し、予定時間を1時間もオーバーしてしまいました。もっとも、会議は儀式ではないので、本来その方が健全なのですが…

 

組織内の会議ですので、こういうところで議事内容の情報を公開することはしませんが、一つだけ記すなら、「九州の司祭常駐拠点を現行の人吉から福岡に移転させる構想」について表明しました。

もちろん、九州担当の私の発言の形を取ってはいますが、これは西日本教区の司祭団の総意です。

九州に司祭を配属しているのが、既存の信徒の冠婚葬祭要員としてだけなら、居住地はよほどの山間地や離島でない限りどこでも良いでしょう。また、そもそも九州は信徒自体が少ないのですから、普段は地元の人に教会を管理してもらって、誰かが亡くなった時だけ大阪などの都会の神父が現地に出張すれば十分対応できます。

しかし、わざわざ中堅クラスの専従聖職者である私を派遣するということは、九州でのより本格的かつ積極的な開拓宣教が期待されているということでしょう。

それを一人の司祭でやれということならば、活動拠点は九州の中心地である福岡市をおいて他に考えられません。

現在は福岡市内に伝道所があって、月に一回出張していますが、そもそもこの伝道所自体、これまで教会のなかった福岡市周辺を開拓するための、いわば仮設教会として2011年に開設されたものです。

開設から10年を経て、一定の信徒数も得ましたので、さらに進んで本格的な教会を造り、福岡から九州全体をも開拓していこうという構想です。目標は5年後の2027年オープンです。

もちろん私一人が勝手にするのではなく、教区事務局と連携して進めていくプロジェクトなのですが、還暦近くなっても新しいことに挑戦するのは楽しいですね。

 

人吉を金曜日の早朝に発って日曜日の深夜に帰宅するという、長丁場の出張でしたが、いろいろな意味で将来の希望を感じ取ることができて、疲れもなく晴れ晴れとした気持ちに満たされています。