九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

日本人初の正教会司祭・澤邊琢磨 キリストに仕えたサムライ

月に一度の鹿児島教会巡回では、聖体礼儀に引き続いてその月に永眠した信徒のためにリティヤ(短い永眠者祈祷)を献じています。

この間の日曜日は6月の永眠者として、1913年6月25日に永眠した長司祭パウェル澤邊琢磨師も記憶されました。

澤邊琢磨師(1834-1913)とは、亜使徒聖ニコライから最初に洗礼を受けた日本人であり、また日本人初の司祭となった人物です。

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澤邊琢磨長司祭(1834-1913)

生前の澤邊師は鹿児島教会とは直接関係ありませんが、師の曽孫にあたる鹿児島市在住の女性(故人)が鹿児島教会所属の信徒だったので、今でも鹿児島教会の永眠者名簿に澤邊師も含まれています。

私自身も澤邊師と、かつてリトアニアユダヤ人たちの命を救ったパウェル杉原千畝氏の二人を日本人正教徒として大変尊敬しています。前任地では毎年、復活祭の後に二人のお墓に行き(澤邊師は青山霊園、杉原氏は鎌倉霊園)、個人的に復活祭墓地祈祷(墓前の祈り)を献じていました。

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澤邊琢磨師の墓前で祈祷する筆者(青山霊園

 

澤邊師は旧姓山本。元土佐藩士で、坂本龍馬とは同い年の従兄弟同士です。武市半平太の門下で攘夷思想に傾倒し、また土佐藩きっての剣の達人でした。

しかし江戸の藩邸勤め時代、酔って絡んだ相手の商人が落とした舶来の時計を古道具屋に売ったことが発覚。切腹を迫られて出奔しました。そして流浪の果てに蝦夷・函館にたどり着き、神明社という神社の婿養子になって姓を澤邊に変え、宮司を継ぎました。

ちなみに2010年のNHK大河ドラマ龍馬伝」では、この山本琢磨出奔事件の話が出て来ました。この放送回の最後の「龍馬伝紀行」では、琢磨ゆかりの場所としてニコライ堂が取り上げられ、当時ニコライ堂勤務の司祭だった私も数秒間映っています。人生初のテレビ出演です(笑)。

 

さて1859年、日米通商修好条約にともない、横浜・函館・長崎の三つの港が開港。函館にはロシア領事館が建てられ、1861年に領事館のチャプレンとして当時25歳のニコライ神父(後の亜使徒聖ニコライ)が着任しました。

この領事館の敷地に建てられた日本初の正教会が、現在の函館ハリストス正教会です。(当時の聖堂は焼失、現聖堂は1916年に新築)

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函館ハリストス正教会(公式ページより転載)

領事のゴシケーヴィチは大変な親日家で、ロシア人館員たちに日本の剣術を学ばせたいと考えました。そこで指南役を捜していたところ、神明社の澤邊宮司が元武士で剣の達人と聞き、依頼しました。1864年のことです。

 当時、函館にはアメリカ密航を企てていた新島襄がいて、ロシア領事館でニコライから英語を教わり、ニコライは新島から日本語を教わっていました。澤邊も新島と面識ができ、密航の時は手助けしています。新島は帰国後、京都に同志社を創立し、日本のプロテスタント宣教のパイオニアとなったことは誰でも知っている通りです。

 

しかし、澤邊自身は攘夷派の元武士であり、キリスト教の宣教師は民衆を洗脳して日本を植民地化するために送り込まれた者だと思い込んでいました。

そして1865年のある日、彼は刀を持ってニコライの部屋に乱入し、厳しく詰問しました。

この時の会話は福永久壽衛『澤邊琢磨の生涯』に詳しく記載されていますが、長いので全部は引用しません。要旨は次の通りです。

澤邊は「武士は約束を破ると切腹する。切腹ができなければ殺される。それは承知か」と真実を言うように恫喝し、ニコライが密偵ではないのか、新島と会っていたのは日本の情報を入手するためではないかと問いました。

さらに「日本には日本の神がある。日本人はそれでよい。日本は神国だ。この日本においてそんな邪教キリスト教)を布教されては困る」と大声で迫りました。

それに対してニコライは落ち着き払って「澤邊さんは私たちの信ずるハリストス正教を邪教と言われましたが、それは聖書をお読みになってからのことでございますか。それとも想像してでございますか。(聖書など読んだことはないと言う澤邊に)読まずに邪教というのは道理に合わないのではないですか」と言いました。

つまりニコライは、「あなたは日本のサムライは嘘をついたら腹を切ると言ったが、あなたが道理もなしに刀を抜くことはサムライとして許されるのか」という「武士の本分」にそれこそ斬り込んできたのです。

澤邊は「それなら話を聞こう」と、ニコライから聖書の話を聞きました。それは創世記第一章の天地創造の話だったそうですが、澤邊は一度でニコライに心酔し、彼のもとに通って教理を教わるようになりました。

ロシア人ながら日本武士の本分を語ったニコライも、他の攘夷派の武士のように「問答無用」とニコライを斬らず、話に耳を傾けた澤邊も、二人とも立派です。

この二人こそ「本当のサムライ」ではないでしょうか。

 

3年後の1868年、澤邊は受洗の決意を固め、他の二人の日本人とともにニコライから洗礼を受けました。神主だった澤邊はもちろん仕事を続けられません。それどころか、まだわが国ではキリスト教は禁制であり、洗礼が発覚したら死を覚悟しなければなりません。しかし、彼はキリスト教信仰に「新しい生き方」を見出したのです。

ちなみに洗礼名のパウェルは、狂信的な迫害者から回心して使徒となったパウロのことです。

 

澤邊は受洗後、それこそ使徒パウロのように、函館にいた東北諸藩の武士たち、特に仙台藩士たちに教えを伝えました。明治維新後、 彼らが中心となって旧仙台藩領の宮城・岩手両県に多くの教会が創られ、司祭となった澤邊が牧会しました。今日でも、日本正教会で最も多くの教会がある地域は、この旧仙台藩領です。

函館で新政府軍に敗れ、武士の身分を失って賊軍の汚名を着せられた彼らは、同じ元武士の澤邊から伝えられたキリスト教に、新しい生き方、新しいアイデンティティを見出したと言えましょう。

つまり澤邊琢磨師は、土佐山内家からキリストという「新しい主君」に仕えたサムライとして、日本正教会の礎を築いた一人となったのです。

多くの日本人に、もっと知られて欲しいエピソードです。

コロナワクチンの接種券がきました

6月もあと二日。今日は真夏のような暑さでした。

先月投稿したツバメですが、ヒナ鳥たちもすっかり成長しました。

 

frgregory.hatenablog.com

 

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成長したツバメのひな(6月26日撮影)

昨日の朝、初めて飛び立ちました!

親鳥が卵を温めている間、驚かさないように巣に面した窓のシャッターを閉めたままにしていましたが、こうして一人前に飛び立つのを見ると、わが子(孫か?)の成長を見守るようで感無量です。

もっとも完全に独立したわけではなく、まだ練習段階なのか、我が家の周囲を飛び回っているだけで、日が暮れると巣に戻ってきてしまうのですが。

 

さて、わが人吉市も65歳未満の市民へのコロナワクチン接種が始まることになり、接種券が送られてきました。

もっとも、申込書を市に返送し、希望の接種場所の医療機関からの連絡を待たなければ接種できないのですが。

どうやら実際に接種できるのは1か月くらい先になりそうです。

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コロナワクチンの関係書類

ワクチンに対する考えについては既に投稿しましたが、私としては早く接種を受けたかったので、やっと来たかという思いです。

 

frgregory.hatenablog.com

たまたま、今日ネットで「ワクチン接種を拒む権利はあっても、コロナを他人に感染させる権利はない」 という言葉を見かけました(記憶で書いていますので細かい表現は違っているかもしれません)。私も全く同じ考えです。

私は教会を牧会し、多くの皆さんと接する立場です。私自身が病気になりたくないというより、もし自分が感染したために、教会に来た人に移してしまうことは絶対にしたくないし、またそれは許されないと考えています。

 

今は東京で感染再拡大が進んでいるようで、私も妻も東京在住の親族ばかりなので心配なのですが、ワクチン接種が進んで一日も早く感染が収束してほしいですね。

神でない聖人たちをなぜ敬い、祈るのか

今日は鹿児島ハリストス正教会で聖体礼儀を執り行いました。

 

毎年の教会の典礼のカレンダーは、常に復活大祭(今年は5月2日)が中心となり、その前の7週間の「大斎期間」と、復活大祭後7週間の「五旬祭期」があります。つまり、キリスト教信仰の根幹を成す「主の復活」を中心に、それに備える期間と祝う期間がシンメトリーに配置されているわけです。

そして、その祝う期間の最終日である聖五旬祭ペンテコステ)の後、「年間」と称する通常モードの教会暦となります。

 

今日は「年間第一主日」、つまり今年の「年間」の最初の日曜日にあたるのですが、この年間第一主日で全ての聖人を記憶しますので「衆聖人の主日」(Sunday of All Saints)と呼ばれています。

全ての聖人を記憶する日はカトリック教会では「諸聖人の日」、聖公会では「諸聖徒日」と呼ばれ、ともに11月1日です。つまり、毎年日にちが変わらない固定祭日ということになります。

聖五旬祭の次の日曜日を「全ての聖人の記念日」とすることは、キリスト教ローマ帝国で公認された4世紀に、アンティオキアで始まりました。

後の8世紀、ローマ教皇グレゴリオ三世が聖ペトロ大聖堂に全ての聖人を記念する小聖堂を作り、11月1日に祝別(正教会でいう成聖)が行われたことから、カトリック教会でその日が固定祭日となりました。これが東西教会で記念日が異なる理由です。

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鹿児島ハリストス正教会での聖体礼儀


www.youtube.com

 

この「聖人を敬い、記憶する」という伝統的なキリスト教会の習慣について、「人間の神格化であり、真の神への冒涜だ」と批判的に捉える人が少なくないのですが、全く無理解にもほどがあると思っています。「正教会カトリックみたいにマリヤ信仰ですか」と尋ねてきた人が何人もいましたが、そもそもカトリック教会でも生神女マリヤは聖人であって神ではありません。

キリスト教では、キリストは目に見えない真の神が目に見える人となった方であるのに対して、聖人たちは人間であって神でないと理解しています。ここが日本人の伝統的な「人は死ぬと神仏になる」という感覚とのミスマッチで誤解に至るのでしょう。

 

聖人とは、突き詰めれば「見える神・キリスト」に倣う生き方を示したと、教会から認証された人ということです。

例えば「亜使徒」は福音を知らない人々に教えを宣べ伝えたこと、「克肖者」は修道によって清貧・従順・貞潔な生涯を送ったこと、「致命者」(殉教者)は十字架につけられたキリストのように、自らも最後まで信仰を貫いたこと…そういった彼らが示した「生き方」が人々の信仰生活の模範となるから、教会はその人を聖人として永遠に記憶し、讃えるということなのです。

 

もう一つ、教会が聖人に求めていることは「転達」(カトリック教会用語では「とりなし」)です。

聖人は全て、既に死んだ人々です。上記のように、その人の生涯の全てを検証して列聖に相応しいかどうか決めるのですから当然です。ということは、聖人は今生きている私たちよりも「一足早く天国にいる人々」とも言えます。

そこで、信者なら自分が神に祈るのは当然として、同時に天国において永遠の生命に生きている聖人に「私のことを天国で神によろしく伝えてください」「天国で私のために一緒に祈ってください」とお願いすることは、自分自身の祈りを補完できるという考えにつながるわけです。これが転達という概念の意味です。

つまり「聖○○への祈り」は、少なくともその聖人の数だけあることになりますが、それはその人を神格化して信仰の対象にしているのではなく、「転達」を求めて行っているのです。

 

以上のように、正教会は聖人たちに「キリストに倣う生き方の模範」と「神への転達」を求めて敬い、祈っているのです。このキリスト教会の伝統をしっかり守っていきたいと思っています。

京都から戻って、今日は鹿児島へ

昨日の夕刻に京都から人吉に戻りました。

飛行機が減便になり、それに伴って鹿児島空港から熊本に向かうリムジンバスが一日三往復(!)になってしまったので、本州への行き帰りは不便なことこの上ありません。

京都駅から伊丹空港行きのリムジンバスに乗車したのが13時過ぎ。伊丹空港で乗った飛行機が鹿児島空港に着いたのが16時過ぎ。その後1時間以上バスを待ち、人吉に着いたのは18時半でした。

出張の目的だった会議が終わってから24時間以上経っていました…

 

今日は明日の聖体礼儀のため、鹿児島に出張です。

毎週小旅行をしているようです。

 

ダイレクトに鹿児島まで行くのもつまらないので、阿久根市の笠山観光農園に寄って見ました。

観光農園というと果樹園をイメージするのですが、こちらはアジサイの栽培農家のようです。

 

対向車とすれ違えないほどの山道を分け行くと、広大なアジサイ園が出現。

見ごたえはあったのですが、花の盛りには遅すぎたようです。


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来年は花の見頃に再訪したくなりました。

西日本教区会議

今日は朝から京都ハリストス正教会で会議でした。


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午前中は司祭会議。13時から年次総会である教区会議でした。

西日本教区は京都主教が代表となりますが、空席のため、東京の府主教が兼務しています。

今回は教区会議としては初めての試みとして、府主教には東京からZoomで出席してもらいました。


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私は教団専従の聖職者ですし、教区の役員で、さらに会議の司会者でもありますので出席しましたが、信徒代議員はコロナ感染防止のため、ほとんどが欠席しました。会議場もソーシャルディスタンスを考慮してがらんとしています。やむを得ません。

 

毎年、教区会議の議事の中心は、年度の宣教イベント案の決議なのですが、コロナの収束が見込めないのでほとんどが開催未定です。そこで、今後は主に動画のネット配信のスタイルで、教区の情報発信を強化する方向です。

 

教区会議自体は2時間くらいで終わりましたが、日本の西半分を司祭6人で管轄する態勢ですので、マンパワーには限度があります。日本正教会の中でも他教区に先駆けて、宣教のネット活用を充足させたいと考えています。

明日から京都に出張

日本正教会には三つの主教教区(略称:教区)があり、私が所属している西日本教区の主教座(一般でいう本部)は京都ハリストス正教会にあります。

明後日は一般の企業や団体の年次総会にあたる「教区会議」が京都教会で行われます。

京都の主教はずっと空席であり(日本正教会では昨日投稿したアンドロニク主教以来、実際に西日本に主教が常駐していた時期がほとんどない)、教団代表である東京のダニイル府主教が京都主教も兼務しています。そのため、通常は6月の第三日曜日の朝、京都教会または大阪教会で、府主教の司祷による聖体礼儀を行い、教区会議は午後開始というスケジュールでした。

結果として、東京から来る府主教とその随行者や、私のように遠方から出席する代議員は皆、前日から泊まり込みとなります。

 

しかし、コロナ禍で状況が一変。

昨年から、宿泊を伴う出張とならないよう、教区会議は平日の午後開催となりました。府主教や長距離の移動をともなう代議員は、感染リスク回避のため多くが欠席です。

しかし、さすがに専従の司祭である私は教区の役員も兼ねているため、他の会議はZoom参加でも総会である教区会議は出席しなくてはなりません。

他の専従司祭は皆、本州在住なので新幹線で日帰りできますが、私は飛行機で行かざるを得ません。しかも会議当日は朝から別の会議がありますので、前日から京都に行っていなくてはなりません。

 

それに加えてコロナ禍で飛行機の本数が減便になっているので、明日は京都に移動して泊まるだけなのに午前中に出発です。

また会議終了後も、その日は帰りの飛行機がないため京都泊まり。数時間の会議に出るために二泊三日の出張になってしまうのです。

 

ちなみに京都の聖堂は1903年建立。実に優美です。

私が最後に京都教会に出張したのは、着任直後の2019年11月の司祭会議の時でした。その後、コロナの感染拡大で京都教会で行われる教区のイベントは全て中止。年に数回ある司祭会議もZoomに切り替わったため、もう一年半も主教座である京都教会には顔を出していないことになります。

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京都ハリストス正教会(2019年11月撮影)

そのようなわけで仕事とはいえ、京都への小旅行と割り切って、久しぶりに京都教会やその他もろもろを見物して来ようかと思っています。

 

初代京都の主教 聖アンドロニク

昨日、6月20日は「神品致命者・ペルミの大主教聖アンドロニク」の祭日(記念日)でした。

彼は最初の京都主教であり、わが西日本教区では、主教座である京都ハリストス正教会の聖堂建立100周年にあたる2003年に、日本語で「初代京都の主教」という文言を入れたイコンの作成をロシアに発注。現在、イコンの現物は京都教会にあり、九州管区を含めた西日本教区の各教会にはレプリカが置かれています。

なお、後述しますが、彼が殉教した時の職位は「ペルミの大主教」なので、聖人としての正式な呼称に「京都の主教」は入りません。あくまでも日本正教会西日本教区としての呼称です。

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イコン「初代京都の主教聖アンドロニク」

 聖アンドロニク(1870-1918)は、若手司祭時代の1898年にニコライ大主教(現・日本の亜使徒聖ニコライ)の要請で来日し、1年ほど日本で奉職しました。

そして1906年、ニコライ大主教の将来の後継者として「京都の主教」に叙聖され、翌1907年3月に再来日しました。しかし、体調不良のためわずか3か月で離任し、ロシアに帰国してしまいました。

後年、彼はペルミの大主教となり、またロシア正教会の最高幹部である聖務会院(シノド)のメンバーに任じられました。

1917年11月のロシア革命ボルシェビキ(後のソ連共産党)政権が誕生。正教会ボルシェビキの反宗教政策に反対しました。

アンドロニクも政権と対立したために捕らえられ、1918年6月20日、自ら掘らされた穴に生き埋めにされて致命(殉教)しました。 

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主教時代のアンドロニク

 

もちろん、ボルシェビキに殺害されたのはアンドロニクだけではありません。彼が殺害された翌月、7月17日には皇帝ニコライ二世とその家族全員が殺害されています。

 

高橋保行(現・アメリカ正教会司祭)著『迫害下のロシア正教会 無神論国家における正教の70年』によれば、1918年からスターリンが権力を独占した1930年までの間に4万2千人の聖職者が処刑され、1930年以降も3万人から3万5千人の司祭が処刑または強制収容されました。また1937年と38年のわずか2年で、52人の主教のうち何と40人が処刑されました。宗教、とりわけロシア正教会を根絶しようという、レーニンスターリンの異常なまでの執着心には鬼気迫るものがあります。

 

ソ連崩壊後、宗教活動が自由になると共に、共産党による教会弾圧の実態が徐々に明らかになりました。そして、2000年8月、ロシア正教会はアンドロニクを含む800人以上の人々を「ロシア新致命者」として列聖したのです。

この「新致命者」という概念は、ローマ時代の迫害によって殉教した人々に対して「新」という意味です。かつて、該当者の多くはオスマントルコによって殺害されたバルカン半島出身者でした。

しかし、数十年に過ぎないソ連時代の殉教者は、数百年間のバルカンのオスマントルコ支配時代を上回る人数であり、いかにソ連社会が狂気に満ちていたかが伺い知れます。

なお、殉教者(日本正教会用語で致命者)という概念の神学的な意味については、以前に投稿していますので参照してください。

 

frgregory.hatenablog.com

 

 

歴史に「もし」は禁物ですが、もしアンドロニクが病気にならず、日本にいたら、ニコライ大主教の後を継いで日本正教会の指導者になっていたでしょう。そうであれば、ボルシェビキに惨殺されることもなかったはずです。

しかし、アンドロニクの後任として来日し、ニコライ大主教の後を継いだセルギイ府主教は、関東大震災ニコライ堂を失い(昭和4年に再建)、戦時中はスパイの疑いをかけられて特高警察に監視された挙句、憲兵隊に拘束されて迫害を受け、ついに昭和20年8月10日に終戦を見ずに永眠しました。

ソ連共産党には殺されなかったけれども、間接的とはいえ日本の警察と軍に殺害されたのです。

どちらに転んでも迫害の苦しみは変わらなかったことになります。

 

現代社会において、信仰の自由は基本的人権の重要な要素の一つと認識されていますが、それでもなお信仰の自由が認められていない社会、政治が宗教に介入する社会は隣国の中国を筆頭に、世界にまだたくさんあります。

よく誤解されるのですが、正教会の基本的な考えは「政教分離」です。王や為政者は、世俗社会において人々を良い方に導くように教会が祈るべき相手です。たとえ迫害者であってもそれは変わりません。イエスも「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と言っています。

もし、教会に有利な方向に社会を誘導しようとして、教会が政治活動を行ったら、宗教に介入する為政者と同じになってしまいます。ですから、ローマ教皇のように正教会の指導者が政治的なメッセージを出すことは、例外的な事象を除けばありません。

まして、反体制テロやゲリラ活動に正教会が関与することは絶対あり得ません。イエスは「剣を鞘に納めなさい。剣を取るものは皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)と言っています。確かにロシア革命時の白軍(反共軍)のように、正教信仰が精神的支柱になっていた事案はあるかも知れませんが、教会が内戦を焚きつけていたのではありません。

 

そのようなわけで私は、自由に神を信じることができる社会(キリスト教とは限らない。信仰は自由だから)が世界全体に実現する日が来ることを、今日も「自分の神」に祈り続けています。