九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。2019年から九州全域を担当しています。

日本人初の正教会司祭・澤邊琢磨 キリストに仕えたサムライ

月に一度の鹿児島教会巡回では、聖体礼儀に引き続いてその月に永眠した信徒のためにリティヤ(短い永眠者祈祷)を献じています。

この間の日曜日は6月の永眠者として、1913年6月25日に永眠した長司祭パウェル澤邊琢磨師も記憶されました。

澤邊琢磨師(1834-1913)とは、亜使徒聖ニコライから最初に洗礼を受けた日本人であり、また日本人初の司祭となった人物です。

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澤邊琢磨長司祭(1834-1913)

生前の澤邊師は鹿児島教会とは直接関係ありませんが、師の曽孫にあたる鹿児島市在住の女性(故人)が鹿児島教会所属の信徒だったので、今でも鹿児島教会の永眠者名簿に澤邊師も含まれています。

私自身も澤邊師と、かつてリトアニアユダヤ人たちの命を救ったパウェル杉原千畝氏の二人を日本人正教徒として大変尊敬しています。前任地では毎年、復活祭の後に二人のお墓に行き(澤邊師は青山霊園、杉原氏は鎌倉霊園)、個人的に復活祭墓地祈祷(墓前の祈り)を献じていました。

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澤邊琢磨師の墓前で祈祷する筆者(青山霊園

 

澤邊師は旧姓山本。元土佐藩士で、坂本龍馬とは同い年の従兄弟同士です。武市半平太の門下で攘夷思想に傾倒し、また土佐藩きっての剣の達人でした。

しかし江戸の藩邸勤め時代、酔って絡んだ相手の商人が落とした舶来の時計を古道具屋に売ったことが発覚。切腹を迫られて出奔しました。そして流浪の果てに蝦夷・函館にたどり着き、神明社という神社の婿養子になって姓を澤邊に変え、宮司を継ぎました。

ちなみに2010年のNHK大河ドラマ龍馬伝」では、この山本琢磨出奔事件の話が出て来ました。この放送回の最後の「龍馬伝紀行」では、琢磨ゆかりの場所としてニコライ堂が取り上げられ、当時ニコライ堂勤務の司祭だった私も数秒間映っています。人生初のテレビ出演です(笑)。

 

さて1859年、日米通商修好条約にともない、横浜・函館・長崎の三つの港が開港。函館にはロシア領事館が建てられ、1861年に領事館のチャプレンとして当時25歳のニコライ神父(後の亜使徒聖ニコライ)が着任しました。

この領事館の敷地に建てられた日本初の正教会が、現在の函館ハリストス正教会です。(当時の聖堂は焼失、現聖堂は1916年に新築)

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函館ハリストス正教会(公式ページより転載)

領事のゴシケーヴィチは大変な親日家で、ロシア人館員たちに日本の剣術を学ばせたいと考えました。そこで指南役を捜していたところ、神明社の澤邊宮司が元武士で剣の達人と聞き、依頼しました。1864年のことです。

 当時、函館にはアメリカ密航を企てていた新島襄がいて、ロシア領事館でニコライから英語を教わり、ニコライは新島から日本語を教わっていました。澤邊も新島と面識ができ、密航の時は手助けしています。新島は帰国後、京都に同志社を創立し、日本のプロテスタント宣教のパイオニアとなったことは誰でも知っている通りです。

 

しかし、澤邊自身は攘夷派の元武士であり、キリスト教の宣教師は民衆を洗脳して日本を植民地化するために送り込まれた者だと思い込んでいました。

そして1865年のある日、彼は刀を持ってニコライの部屋に乱入し、厳しく詰問しました。

この時の会話は福永久壽衛『澤邊琢磨の生涯』に詳しく記載されていますが、長いので全部は引用しません。要旨は次の通りです。

澤邊は「武士は約束を破ると切腹する。切腹ができなければ殺される。それは承知か」と真実を言うように恫喝し、ニコライが密偵ではないのか、新島と会っていたのは日本の情報を入手するためではないかと問いました。

さらに「日本には日本の神がある。日本人はそれでよい。日本は神国だ。この日本においてそんな邪教キリスト教)を布教されては困る」と大声で迫りました。

それに対してニコライは落ち着き払って「澤邊さんは私たちの信ずるハリストス正教を邪教と言われましたが、それは聖書をお読みになってからのことでございますか。それとも想像してでございますか。(聖書など読んだことはないと言う澤邊に)読まずに邪教というのは道理に合わないのではないですか」と言いました。

つまりニコライは、「あなたは日本のサムライは嘘をついたら腹を切ると言ったが、あなたが道理もなしに刀を抜くことはサムライとして許されるのか」という「武士の本分」にそれこそ斬り込んできたのです。

澤邊は「それなら話を聞こう」と、ニコライから聖書の話を聞きました。それは創世記第一章の天地創造の話だったそうですが、澤邊は一度でニコライに心酔し、彼のもとに通って教理を教わるようになりました。

ロシア人ながら日本武士の本分を語ったニコライも、他の攘夷派の武士のように「問答無用」とニコライを斬らず、話に耳を傾けた澤邊も、二人とも立派です。

この二人こそ「本当のサムライ」ではないでしょうか。

 

3年後の1868年、澤邊は受洗の決意を固め、他の二人の日本人とともにニコライから洗礼を受けました。神主だった澤邊はもちろん仕事を続けられません。それどころか、まだわが国ではキリスト教は禁制であり、洗礼が発覚したら死を覚悟しなければなりません。しかし、彼はキリスト教信仰に「新しい生き方」を見出したのです。

ちなみに洗礼名のパウェルは、狂信的な迫害者から回心して使徒となったパウロのことです。

 

澤邊は受洗後、それこそ使徒パウロのように、函館にいた東北諸藩の武士たち、特に仙台藩士たちに教えを伝えました。明治維新後、 彼らが中心となって旧仙台藩領の宮城・岩手両県に多くの教会が創られ、司祭となった澤邊が牧会しました。今日でも、日本正教会で最も多くの教会がある地域は、この旧仙台藩領です。

函館で新政府軍に敗れ、武士の身分を失って賊軍の汚名を着せられた彼らは、同じ元武士の澤邊から伝えられたキリスト教に、新しい生き方、新しいアイデンティティを見出したと言えましょう。

つまり澤邊琢磨師は、土佐山内家からキリストという「新しい主君」に仕えたサムライとして、日本正教会の礎を築いた一人となったのです。

多くの日本人に、もっと知られて欲しいエピソードです。