2月5日はカトリック教会では「日本二十六聖人」の記念日です。
日本二十六聖人とは1597年2月5日(慶長元年12月19日)、豊臣秀吉の命令で処刑されたパウロ三木ら26人のカトリック教徒です。
カトリック教会では彼らを「殉教者」として列聖しており、処刑された場所の長崎・西坂には記念碑が建てられています。
彼らは正教会とは直接関わりがないので、正教会では当然ながら列聖されていません。
しかし、彼らはキリスト教信仰を理由に公権力から生命を奪われたのであり、正教徒であるとかないとか言う以前に間違いなく「日本人で最初のキリスト教殉教者」だと私は理解しています。
彼らが処刑された直接の原因は、秀吉の反南蛮政策にあります。
秀吉の主君であった織田信長は、南蛮貿易による利益と本願寺などの既存の仏教勢力の打倒を目的に、イエズス会宣教師を積極的に誘致しました。
秀吉は1587年にキリシタン禁教令を出し、外国人宣教師を追放しましたが、日本人のカトリック信仰自体は黙認していました。
実際、秀吉に重用された宇土城主の小西行長を始め、多くのキリシタン大名が九州に存在しています。
しかし、秀吉は1596年のサン=フェリペ号事件で、スペインもポルトガルも日本征服を目論んでおり、カトリックの宣教師はその手先であると信じ込み、 いわゆる見せしめとしてカトリック教徒の処刑を実行しました。これが二十六聖人の殉教です。
以後、キリシタン禁教政策が定着して徳川体制にも引き継がれ、さらに鎖国制度にまで発展しました。
実際、大航海時代において、スペイン・ポルトガル両国が領土獲得競争をし、その植民地化の過程においてカトリックの宣教がセットとして行われていたのは事実です。
しかし、中南米や東南アジアの原住民とは異なり、高度な軍事力と政治システムを持っていた日本の戦国武士団が、せいぜい数百人規模の南蛮人に敗れて支配されるとは到底思えません。
つまり、秀吉や家康のキリスト教(正確にはカトリック)禁教政策は、行き過ぎた外国脅威論がもたらしたものと私は考えます。
まして、実際に処刑されたキリシタンの大半は庶民であり、日本の体制をひっくり返すような意図も実力もなかったとも考えます。
つまり、日本のキリシタン殉教者は純粋に自分の信仰を守ろうとして、結果として死ぬことになった。言い換えれば、命が掛かっている局面で信仰という「自分の生き方」を貫徹したと言えます。
ここに殉教者という概念の意味があります。
殉教者とは一般的には「信仰のために命を落とした人」という説明がなされます。確かにそれは結果としてそうなのですが、正確な説明とは言えません。
殉教者(日本正教会では致命者)は英語でmartyr と言いますが、この語源はギリシャ語で「証人」を意味するマルティスという単語です。つまり、自分の生き方を通して信仰を証しした人というのが正しい解釈です。
よって教会は殉教者の「非業の死」ではなく、命がけで信仰を貫いた「生き方」を讃えるものでなくてはなりません。
この点、キリスト教会内でも誤った説明がしばしばなされます。つまり「殉教者は十字架上のイエス様にならって、苦しみを耐え忍び、ついに死に至りました」などというものです。
つまり、肉体的な苦痛と無残な死に様の強調です。
しかしイエス自身、十字架にかかった目的は死と復活を通して、人類の罪の赦しと永遠の命を実現するためだったのであって、自己アピールのために自分が痛くて苦しい思いをしたかったからではありません。つまり殉教者の「苦痛と死」を讃美するという方向性は、イエスの受難の意味をも誤解させます。
極論すれば「私たちも殉教者にならって、死を恐れずに敵と戦いましょう。あなたも死ねば殉教者として讃えられます」といった、戦争やテロリズムのプロパガンダになりかねません。
本当に自分が戦うべき敵は、欲望や怠惰、傲慢や嫉妬といった「自分自身の内なる心」でなければならないのに。
殉教とは「死」ではなく、困難の中で信仰を貫いた証人としての「生き方」への讃美である。ということは、肉体的な死を伴わなくても殉教者的な生き方もあるはずです。
私たちの生きる環境は人それぞれ、信仰も人それぞれなのですが、その中で正しい生き方を貫くということを、一人ひとりが考えていけたら世の中も変わるんじゃないか。
日本二十六聖人の記念日にあたって、そんなことを思いました。