九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

コロナ禍の復活祭 今年も福岡が…

コロナウイルスの変異株が猛威を振るっていて、関西圏から全国規模で感染が広がっています。報道でもご承知のように、今日政府が4都府県を対象に緊急事態宣言を発令しました。

九州も比較的平穏だったのですが、この数日間で急に感染者が増えました。

 

10日ほど前、愛知県豊田市の教会の復活祭礼拝で36人もの大規模な感染クラスターが発生しました。

これを受けて、愛知県の大村知事は「教会の(施設の)使用禁止を検討」とまで発言しています。憲法で保障されている信仰の自由に行政が介入することになりかねない発言であり、本来なら許されないことです。

しかし、マスコミなどが知事に批判的でなかったのは、人の集まる場所での感染防止対策がこれまで言われてきたにも関わらず、やっていなかったに等しい結果だったので、人々の批判の目は教会の方に向けられたということでしょう。

これは教会を運営する立場である自分にはまさに他山の石であって、「絶対に同じことになってはいけない」と自らを戒める機会となりました。

 

さて、今年の正教会の復活祭は5月2日であり、福岡伝道所への巡回日(毎月第一日曜日)にあたります。

福岡伝道所は信徒開拓のために11年前に設立された拠点ですが、正味6畳間ほどのスペースに20人近い参祷者が集まります。

十分なソーシャルディスタンスの確保は困難なので、冬でも祈祷中は窓を開放し、年明け以降は「祈祷中に信徒が聖歌を歌うことを禁止」という、教会としては自殺行為になりかねない措置まであえて取りました。

そもそも昨年は、4月に発せられた緊急事態宣言が延長された関係で福岡に3か月も行くことができず、復活祭の祈祷の延期を繰り返した挙句に中止せざるを得ませんでした。キリスト教は「キリストの復活」が信仰の根幹であり、よって復活祭の祈祷をしない、というのはこれまた教会の自殺行為です。

そのようなわけで、感染防止対策を万全にした上で、いわばリベンジで今年こそ福岡の復活祭を執り行おうと準備してきました。

 

しかし、福岡県で連日200人超えの感染爆発…

福岡県は4月19日、県独自の感染防止対策として「4月20日から5月19日まで、県内全域を対象に不要不急の外出の自粛を要請」すると発表しました。

教会の感染防止対策をいくら講じても、「信者が家から出て教会に行くこと」自体が駄目となっては万事休すです。

 

5月号の教会報と日程表は既に印刷済みで、今日発送する予定でしたが、急いで福岡の執事長に連絡を取り、5月2日の福岡巡回の中止と、復活祭の6月への延期を了解してもらいました。

復活祭当日の5月2日は遊んでいるわけにはいかないので、場所を人吉ハリストス正教会に急遽変更です。

印刷済みの日程表は破棄して新しく印刷。教会報はカラーコピー代が勿体ないので(笑)、全部手書きで日付を訂正しました。

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教会報の日付を手書きで訂正

さらに、前述のクラスター発生教会のように、復活祭は不特定多数の人が参祷することで会堂が「密」となり、また無症状感染者も入り込む危険が高まりますから、従来の「祈祷中は歌わず沈黙」に加え、「信者でない人の参祷をお断り」することにしました。広く皆さんに「教会に来てみませんか」と呼びかけて来たのに、自分でそれを否定するようなことをせざるを得なくなり、本当に悲しいです。

 

しかし、それらの措置の内容と、こうなった理由については信者に伝えるべきだと思いましたので、別刷りでお知らせを作り、教会報に挟み込みました。

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挟み込みの「緊急のお知らせ」

このようにして、今日は朝から教会報の作り直しをして、人吉郵便局が閉まる前に発送できました。今日は金曜日で、今日中に発送できなければ、週をまたいで遅くなってしまうので、とりあえず間に合って安心しました。

 

「信仰があればコロナなど恐れるに足りず」「教会でコロナが心配など信仰が足りない」などといった考えをよく耳にしますが、私に言わせれば「無責任な虚言」以外の何ものでもありません。信者の健康と生命を危険にさらすという意味で「罪深い」ことです。むしろ司牧者は、信者をコロナウイルスの危険から守る責務があるものと考えます。
今は忍耐の時ですが、しっかり感染防止対策を取った上で、祈りの場である教会を守って行ければと思っています。

門司歴史散歩

小倉の紀行文に続いて、今日は門司の紹介です。

 

一昨日の船舶成聖式を依頼されていた場所は門司区の太刀浦埠頭。小倉のホテルから現地へ向かう途中に、関門海峡のビュースポットである「めかり公園」があります。

祈祷の時刻まで余裕があったので、立ち寄って景色を眺めました。(一昨日の投稿のように、結局トラブルがあって、現地に早く着いたにも関わらず乗船に遅刻してしまったのですが)

 

frgregory.hatenablog.com

 

展望台は何か所かありますが、駐車場のある頂上の第一展望台は立木が邪魔で景色が今ひとつ。その下の第二展望台をお勧めします。

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関門海峡の景色

写真の手前は門司港、奥は下関です。大河の河口のようです。

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関門橋。橋の向こうは下関

海峡の一番狭いところの幅はわずか600m。関門橋を見ると本州は目と鼻の先だというのが良く分かります。

海底には関門トンネルの「人道」があり、歩いて下関まで往復できますが、今回はそこまで時間がないので止めておきました。

 

この狭い海峡部が源平合戦の決戦場となった壇ノ浦です。

第二展望台には壇ノ浦の合戦の巨大なレリーフが造られています。

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壇ノ浦の合戦のレリーフ

1183年、木曽義仲に都を追われ、安徳天皇を奉じて西国に落ち延びた平家は、義仲と源頼朝との争いの間に勢力を盛り返し、瀬戸内の水軍力を背景に再び東に攻め上りました。

しかし、源義経に一ノ谷と屋島で敗れ、勢力圏だった九州も源氏の手に落ちて、平家は下関に追い詰められました。

旧暦1185年3月24日、この壇ノ浦での最後の決戦で平家は滅亡。源頼朝による史上初の武家政権時代(鎌倉時代)が始まったことは誰でも知っています。(私が学校で習った鎌倉時代の発足年は1192年でしたが、今は平家滅亡の年の1185年とされています)

 

さて、めかり公園には日本で唯一のミャンマー仏教寺院「世界平和パゴダ」があります。

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世界平和パゴダ

この寺は昭和33年、日本と旧ビルマの親善のために建立されました。一時、僧侶不在で閉鎖されていた時期もあったようですが、現在はミャンマー人僧侶がいて、世界平和の祈念とビルマで戦死した日本兵の供養をしてくださっています。

日本人としてとてもありがたく思いますが、現在はミャンマーの方が平和とは言えない社会情勢になってしまいました。ミャンマーから不当な人権弾圧がなくなって、無辜の市民に平和が訪れることを、こちらはただ祈るしかありません…

船舶成聖式を終えて、そのまま人吉に帰るのも勿体ないので、門司港の「レトロ地区」を散策しました。

 

門司港は明治22(1889)年開港。石炭の輸出港として栄えました。

戦後は石炭産業の衰退とともに港も寂れてしまったようですが、95年に行政が「門司港レトロ地区」として整備し、2015年にユネスコ世界遺産に指定されたこともあって、今はかなり見栄えのする街並みとなっています。

日本ではなく、ドイツや北欧あたりの港町に来たような景色です。

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門司港レトロ地区


1914年に建った門司港駅は国の重要文化財。JRの駅で重文は全国で東京駅と門司港駅の二つだけです。

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門司港駅(1914年築)

門司港駅の向かいにある旧門司三井倶楽部は、三井物産1921年に建てたもので、これも国の重要文化財

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旧門司三井倶楽部(1921年築)

他にも明治から大正にかけて建てられた歴史的建造物がたくさんあります。

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旧大阪商船(1917年築)

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旧門司税関(1912年築)

こちらの大連友好記念館は95年に建った新しい建物ですが、1902年に帝政ロシアが大連に建てた東清鉄道汽船の社屋を復元したものとのこと。

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大連友好記念館

市内には古い建物はもっとたくさんあり、また焼きカレーなどのご当地グルメも有名なのですが、今回は仕事帰りのため、時間がなくて立ち寄れなかったのが残念です。

時間の余裕にある時に再訪して、じっくり門司の魅力を味わいたいと思いました。

 

小倉城を探訪

昨日の人吉の最低気温は4℃、最高気温は27℃。今朝は6℃で日中は28℃でした。気温の日中差が激しすぎて、体がついて行けません。

 

さて、一昨日は初めての北九州市出張で小倉に立ち寄り、小倉城を中心にいろいろ見てきました。

 

小倉は豊前国の中心地であり、1600年の関ケ原の合戦で軍功のあった細川忠興の所領となりました。

忠興は1607年、小倉城を現在見られるような姿に大築城しました。

 

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小倉城

細川氏時代の小倉藩で起きた有名な出来事は、1612年の「巌流島の決闘」です。宮本武蔵と闘って敗れた佐々木小次郎は当時、小倉藩の剣術指南でした。

城内には、この巌流島の決闘を記念して銅像が建てられています。

 

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銅像「巌流島の決闘」

細川氏は1632年、小倉30万石から熊本52万石に加増・移封。その後、小倉藩は小笠原氏の所領となって明治維新まで続きました。

ちなみに、前述の宮本武蔵は晩年、細川氏に招致されて熊本に移り、そこで生涯を終えています。小倉繋がりで両者に縁ができたのかも知れません。

 

小倉城の本丸は1837年に火災で焼失。他の城郭も1866年の第二次長州征伐で、幕府方の小笠原軍が退却する時、長州軍に奪われないよう焼き払われてしまいました。

 

明治になってからは陸軍第12師団の駐屯地となりました。大正時代に師団が久留米に移転した後も、別の部隊の駐屯地として太平洋戦争終戦まで至っています。

ちなみに文豪の森鴎外は、明治32年から35年までこの陸軍第12師団に軍医部長として勤務し、小倉に住んでいます。当時の鴎外の家も現存していますが、そちらは見る時間がありませんでした。

今は第12師団の正門の門柱だけが、城内に残っています。

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旧陸軍第12師団正門跡

城は戦後、米軍に接収されましたが、返還後の昭和34年に天守閣が再建されて内部はミュージアムになっています。なお、石垣は江戸時代のままです。

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小倉城に入館(入城?)。入口は左下端。

内部は2019年にリニューアルされていて綺麗です。歴史的な展示物も見ごたえがありますが、残念ながら撮影禁止です。

数少ない撮影可能な展示物は、昭和34年の再建完成の時に、宇佐神宮のお抱え絵師だった佐藤高越氏が描いた「迎え虎」と「送り虎」の二枚の絵です。

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佐藤高越「迎え虎」

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佐藤高越「送り虎」

天守閣の最上階(5階)は展望台になっています。

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小倉城からの眺め(中央は八坂神社)

城内には小倉祇園八坂神社があります。昭和9年に市内の別の場所から現在地に移転したものですが、豊前国総鎮守だけあってとても立派な社殿です。

この神社の7月の例大祭は、細川忠興が京都の祇園祭を模して始めた「小倉祇園太鼓」です。「無法松の一生」で有名になりました。京都、博多と並ぶ「日本三大祇園祭」だそうですが、土日に行われるようなので、私の立場では見に来られないのが残念です。

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小倉祇園八坂神社

 

さて、北九州市は98年、小倉城に二つの施設を造っています。一つは小倉城庭園、もう一つは松本清張記念館です。

 

小倉城庭園は藩主・小笠原家の下屋敷を復元したものです。書院はレンタルスペースとして借りることができます。

花や紅葉の時期とずれていたので、景色としては少し残念でした。

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小倉城庭園と書院

小倉出身の文豪・松本清張の記念館は、実に見応えがありました。

館内に清張の東京の自宅を、家具や置物まで生前当時のままに復元してあります。

自宅の部屋のほとんどは執筆のために取材・収集した資料の書庫になっており、住宅というより図書館のようでした。

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松本清張記念館

清張は極貧の家庭に生まれ、小学校を卒業してすぐ働き始めました。印刷屋や朝日新聞社で印刷工をしながら、独学で勉強したそうです。42歳で初めて書いた小説が直木賞候補、二作目で芥川賞を受賞し、いきなり文壇の頂点に躍り出たわけですが、それはただ運が良かったのではなく、努力の結実と言えましょう。

以後、亡くなる直前まで作品を書き続けたわけですが、題材への研究熱心さには驚かされました。最終学歴は小学校なのに、学者のようです。

貧しさゆえに上の学校に行けなかったので、その裏返しで勉強に飢え渇いていたのか、成功して貧乏暮らしから抜け出したい、世間を見返してやりたいという生々しい動機なのか、清張の本心は今となっては分かりませんが、とにかく「努力は人を裏切らない」という言葉の見本のような人物に思いました。

 

そんなことで、この日は小倉城内だけで3時間ほどを費やしましたが、見どころいっぱいで充実した半日でした。

門司で船舶成聖式

昨日から泊りがけで北九州市に出張していました。

今日の11時に門司区の太刀浦埠頭でギリシャ船の船舶成聖式を行うためです。

 

「成聖」(Blessing)とは、いろいろな物品や食べ物に聖水をかけて、それを使用したり食べたりする人に神の祝福があるように祈ることです。

例えば建物を建てる時は、まず着工前に「土地」を成聖し(神道にも地鎮祭というのがありますが…)、竣工した時、あるいは入居する前に「家屋」を成聖します。

特に乗り物は事故が起きると人命に関わりますから、新しく製造あるいは購入した時は必ず成聖することが推奨されます。

聖水をかける行為は同じでも、対象となる物品によって祈祷の文言や聖書の引用箇所は異なります。「この物を成聖するのは、聖書のこれこれの記述に基づいて、神が○○してくださることを願うためです」という理由付けが祈りの中でなされなければ、ただの「おまじない」になってしまうからです。

正教会の祈祷を見て、「正教会は儀式ばかりで形式主義的だ」と批判的なことをいう人がよくいるのですが、祈祷の文言を読んでから言ってもらいたいです。

ともあれ、そのようなわけで同じ乗り物でも、「車両」「船舶」「飛行機」は祈祷の文言が異なっており、今日は「船舶」だったということです。

 

現場の太刀浦埠頭、というか北九州市自体が初めて訪ねる地で、事前に代理店の日本人担当者のA氏から地図をもらい、それをカーナビに登録して、30分前の10時半には着くように行きました。

ところが指定された場所に着いても、トラックやコンテナがたくさんあるばかりで、肝心の船はどこにも見当たりません。

もし場所が分からなかったら会社に電話するように、とA氏から言われていたので電話すると、なんと本人は休み。他の社員の方に「今どこにいますか」と尋ねられても初めて来た場所だし、目印もないので説明するのが大変でした。

とりあえずその方から船の停泊場所を聞いて(1㎞くらい離れた別の埠頭でした)、車で行くと、今度は守衛さんが「事前に聞いていない」「通関の書類を見せてください」と言って敷地に入れてくれません。

そんなものはこちらの責任ではないので、押し問答のあげく、代理店に電話して社員に直接現場まで来て説明してもらいました。

それでようやく入場。もう開式時刻の11時になってしまいました。

 

船の名は「アティナ・ザフィラキス」。新造船かと思ったら傷だらけの中古の船で、船名をペンキで書き直しているところでした。

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アティナ・ザフィラキス

代理店の人は船の前で「私は担当ではないので、ここで失礼します。あのタラップ(船体の中央に斜めにかかっている)をご自分で昇ってください」と言って帰ってしまいました。

客船のタラップはちゃんとしていますが、この貨物船のタラップは階段というより幅50㎝くらいの縄ばしごのようなもので、カソックを着たまま昇るのは大変でした。

 

船員に船長室まで案内してもらい、船長に挨拶。続いて一番上の艦橋に上って祈祷を執り行いました。

ちなみに、船長と副長(何と呼ぶのか分かりません)はギリシャ人でしたが、他の20人くらいの船員は全員東南アジア人でした。フィリピン人の他、ムスリムのような服装の人もいましたので、マレーシア人かインドネシア人もいたようです。日本語が話せる人は誰もいませんでした。

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船舶成聖式


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正教会の存在自体がわが国では珍しいのですが、船舶成聖はギリシャなどの正教圏の船でなければ行いませんし、実際に立ち会うのは関係者だけですので、一般の方はまず見る機会がないと思います。そこで三脚を持ち込んで、祈祷をYouTubeに収めました。

 

祈祷の後、船内や甲板にくまなく聖水を撒いて回りました。祈祷自体は7分弱ですが、船がとにかく大きいので聖水を撒き終わるまでさらに30分以上かかりました。

 

一通り終わったら、船内を案内してくれたフィリピン人の船員が「ランチをどうぞ」と言うので、いただきました。船長が「神父様、ご苦労さまでした。一緒に食事でも」と言うのかと思ったらそうではなく、船員用の食堂で船員が食べているのと同じ昼食が出て、一人で食べました。

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船員用の昼食

ここは教会ではないし、船員は正教徒ではありませんので、当然ながら斎期の料理ではなく、ソーセージが入っています。しかし、それよりも、重労働に従事している船員たちが、それこそこんな修道院みたいな質素な食事で体を壊さないか心配になりました… 

 

そんなこんなで、何とか無事に終わって下船しました。

埠頭から海を見ると関門海峡が見えました。幅はわずか600mで、海というより大きな川の河口のようです。

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太刀浦埠頭から見る関門海峡(中央の橋の下)

橋の左は九州、右は本州

 私自身は船舶成聖式を行うのは二回目で、今日はハプニング続きでしたが、何事も経験だと思って門司を後にしました。

 

エジプトのマリヤについて&英国王室と正教会

今日は人吉ハリストス正教会で大斎第五主日の聖体礼儀を執り行いました。


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この大斎第五主日はエジプトの聖マリヤを記憶することから、「エギペトのマリヤの主日」(エギペトはエジプトの教会スラブ語読み)ともいいます。

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エジプトの聖マリヤのイコン

エジプトの聖マリヤは正教会カトリック教会とで共通して敬われている聖人です。

エジプトで生まれた彼女は、若い頃は奔放でふしだらな女でした。しかし、エルサレムで十字架挙栄祭の日(イエスがつけられた十字架が発見された記念日)に、興味半分に主の十字架が公開されている聖堂に入ろうとして、見えない力に押し戻され、自分の罪のゆえに神に拒まれていることに初めて気づきます。

彼女は悔い改めて、パレスチナの荒野で、一人だけで修道的な祈りの生活を続けました。そして荒野で47年ぶりに人間に会いました。修道司祭のゾシマです。

マリヤは翌年の聖大木曜日(復活祭の直前の木曜日。いわゆる最後の晩餐を記憶する日)に聖体を届けてくれるようゾシマに依頼し、ゾシマはその通りにしました。そしてさらにその翌年、ゾシマが再びマリヤに聖体を届けに来ると、彼女は「師ゾシマよ、私を葬ってください。聖大金曜日(聖大木曜日の翌日。イエスの受難を記憶する日)に世を去った私のために祈ってください」と書き残して死んでいました。人里離れた荒野での生活で教会に行っていなかった彼女は、人生の最後に聖体、すなわちキリストの体に与ることを希望し、ゾシマから領聖した翌日に永眠したのです。

 

初めから正しい生き方をした人が救われるのは当然ですが、彼女のように過去の行いがどんなに罪深くても、それを悔い改めて誰よりも正しく生きようとする人を神は顧みてくれる、というのはルカによる福音書15章の「放蕩息子のたとえ」にも記されているとおり、キリスト教の教えの根本です。

その意味で、エジプトのマリヤは悔い改めの人生を自分自身に課したという意味で、正教会においては、あまたいるマリヤという名の聖人の中で「第二のマリヤ」(第一はもちろん生神女マリヤ)と呼ばれて大変崇敬されています。

 

さて話は違うのですが、4月9日に英国のエリザベス女王の夫君・エジンバラ公フィリップ殿下が薨去。17日に葬儀が行われました。

英国王室は当然、聖公会英国国教会)に所属しますので、葬儀も聖公会で行われたのですが、その葬儀の中でロシア正教会聖歌「死者のコンダク」が歌われているのをYouTubeで見ました。

すぐにピンときたのは、これはフィリップ殿下がギリシャ正教会で幼児洗礼を受けたからに違いない、ということです。

フィリップ殿下はギリシャ王国(当時)の王族として生まれました。しかし王家はギリシャ人ではなく、19世紀にギリシャオスマントルコから独立した時、英国がデンマークのグリュックスブルク王家からゲオルク王子を連れてきて即位させたものです。このギリシャ王となったゲオルク王子の姉は、ヴィクトリア女王の子のエドワード7世の妃であり、その意味では英国王室と縁続きです。

また、フィリップ殿下の母・アリス王女の生家のバッテンベルク家もドイツ貴族であり(後に英国に帰化してマウントバッテンと改姓)、アリス王女はヴィクトリア女王の曽孫です。ちなみにアリス王女の叔母のエリザベート公女とアレクサンドラ公女はロシアのロマノフ家に嫁ぎ、正教会に改宗しています。(エリザベートは後の聖エリザヴェータ・フョードロヴナ、アレクサンドラはニコライ二世の皇后)。

つまり、ギリシャ王家は英国王家の親戚で、非ギリシャ人の支配階級だったのですが、王位に就くにあたって宗教的にはギリシャ正教会に帰属し、それでフィリップ殿下も「本家のお姫様」で、ヴィクトリア女王の玄孫同士であるエリザベス女王に婿入りするまでは正教徒だった、というわけです。

そのようなわけで、殿下本人は必ずしも熱心な正教徒とは言えなかったとは思いますが、そのご最後にあたって少しだけでも正教会の祈りの歌が取り上げてもらえて良かったかな、とも思っています。 

アカフィストのスボタについて

今日は人吉ハリストス正教会での子育てサロンの日。

いつも来ている母子が二組、見えられました。

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今日の参加者たち

夕刻からは聖堂で、アカフィストのスボタ(大斎第五土曜日)の早課を執り行いました。


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「アカフィスト」も「スボタ」も教会スラブ語の単語なので、説明が必要です。

「アカフィスト」はギリシャ語の「アカシストス」(着席しない)の教会スラブ語で、様々な聖人を讃美する祈祷の名称です。ここでは生神女(神の母)マリヤへのアカフィストとなります。

また「スボタ」とは教会スラブ語(現代ロシア語も同じ)で「土曜日」という意味です。ヘブライ語の「シャバト」(安息日)に由来する単語です。

よって、アカフィストのスボタとは「神の母マリヤに捧げる土曜日」というニュアンスになります。

 

早課自体は通常の祈祷なのですが、アカフィストのスボタの早課は司祭による「生神女のアカフィスト」の祈祷文の朗読が追加されている分、時間も長くなっています。

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司祭による祈祷文の朗読

復活祭はキリストが私たちのために十字架上で死に、復活して信じる者に永遠の生命を示したこと(これを「救い」という)を記念するものです。そのキリストは神が人間となってこの世に生まれた方であり、人間の女性であるマリヤが母となってキリストを産んでくださったから救いも実現した、という考えに基づいて、復活祭の二週間前のタイミングで、マリヤを讃美して祈りを献じるわけです。

 

逆に言えば、アカフィストのスボタは待ちに待った復活祭まであと二週間、もう少しだ、というマイルストーンになっています。

コロナ感染拡大は心配なところですが、何とか無事に復活祭を迎えたいと思っています。

熊本地震から5年~「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)

今日で2016年4月14日に発生した第一回熊本地震から5年となりました。(二回目の地震は16日)

人吉市では午前10時から犠牲者への黙祷を市民に呼びかけるサイレンが鳴らされたので、それに合わせてリティヤ(永眠者への短い祈り)を献じました。

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熊本地震の犠牲者へのリティヤ


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2万人近い方たちが亡くなった東日本大震災と比べて、内陸部で発生した熊本地震では津波などが発生しなかったため、死者は273人でした。しかし、亡くなった方々にそれぞれの人生があったことは、東日本大震災の犠牲者の皆さんと何ら変わらないのであり、東日本より亡くなった人が少ないからといって小さな災害であったとは到底言えません。

むしろ、震度7地震が二回続けて発生したのはわが国の観測史上初めてであり、18万人もの人々が避難生活者となり、産業や公共施設も大きな被害を受けました。熊本のシンボルともいうべき熊本城が崩壊したのは広く知られていますが、人吉を含む5市町の本庁舎も被災して取り壊され、人吉市では未だに再建できていません。また交通インフラのうち、南阿蘇鉄道はまだ全線復旧していません。

人口170万人の熊本県が、5年を経ても復興途上に置かれているという意味で、とてつもない大災害だったと言えましょう。

私自身は熊本出身ではありませんし、地震発生時は横浜市民で、熊本には誰も知人がいませんでしたから、申し訳ないですが当時の意識として他人事であったのは事実です。

しかし、全く予期せぬことに自分自身が熊本県に遣わされ、さらに自分の住む町が激甚災害に見舞われたことで、被災した人々の心情を知り、また自分自身も被災地で生きる自覚が培われました。これは神の計らいに違いないと思っています。

 

祈祷後は山江村の丸岡公園に行ってきました。ここは昔、山城があった跡で、今はツツジの名所になっています。

出張続きで地元の花を愛でる時間が少なかったのですが、ようやく見事な花を見ることができて良かったです。

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丸岡公園のツツジ

神が造ったこの大自然は、災害によって人間が作った文明を破壊し、人々を苦しめましたが、同時に毎年変わらずに花をつけて美しく装ってもいます。

エスは「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなた方にはなおさらのことではないか」(マタイ6:29-30)と言いました。そして、この世の目先のことに振り回されるより「何よりもまず、神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ6:33)と説いています。

熊本地震も人吉の豪雨災害も、自然がもたらした大きな災いであったことは事実ですが、自分も目先の苦労を嘆くより、神への信頼のもとに将来への希望を持ち続けたいものだと、この花々を見て改めて思いました。