九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

小倉城を探訪

昨日の人吉の最低気温は4℃、最高気温は27℃。今朝は6℃で日中は28℃でした。気温の日中差が激しすぎて、体がついて行けません。

 

さて、一昨日は初めての北九州市出張で小倉に立ち寄り、小倉城を中心にいろいろ見てきました。

 

小倉は豊前国の中心地であり、1600年の関ケ原の合戦で軍功のあった細川忠興の所領となりました。

忠興は1607年、小倉城を現在見られるような姿に大築城しました。

 

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小倉城

細川氏時代の小倉藩で起きた有名な出来事は、1612年の「巌流島の決闘」です。宮本武蔵と闘って敗れた佐々木小次郎は当時、小倉藩の剣術指南でした。

城内には、この巌流島の決闘を記念して銅像が建てられています。

 

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銅像「巌流島の決闘」

細川氏は1632年、小倉30万石から熊本52万石に加増・移封。その後、小倉藩は小笠原氏の所領となって明治維新まで続きました。

ちなみに、前述の宮本武蔵は晩年、細川氏に招致されて熊本に移り、そこで生涯を終えています。小倉繋がりで両者に縁ができたのかも知れません。

 

小倉城の本丸は1837年に火災で焼失。他の城郭も1866年の第二次長州征伐で、幕府方の小笠原軍が退却する時、長州軍に奪われないよう焼き払われてしまいました。

 

明治になってからは陸軍第12師団の駐屯地となりました。大正時代に師団が久留米に移転した後も、別の部隊の駐屯地として太平洋戦争終戦まで至っています。

ちなみに文豪の森鴎外は、明治32年から35年までこの陸軍第12師団に軍医部長として勤務し、小倉に住んでいます。当時の鴎外の家も現存していますが、そちらは見る時間がありませんでした。

今は第12師団の正門の門柱だけが、城内に残っています。

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旧陸軍第12師団正門跡

城は戦後、米軍に接収されましたが、返還後の昭和34年に天守閣が再建されて内部はミュージアムになっています。なお、石垣は江戸時代のままです。

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小倉城に入館(入城?)。入口は左下端。

内部は2019年にリニューアルされていて綺麗です。歴史的な展示物も見ごたえがありますが、残念ながら撮影禁止です。

数少ない撮影可能な展示物は、昭和34年の再建完成の時に、宇佐神宮のお抱え絵師だった佐藤高越氏が描いた「迎え虎」と「送り虎」の二枚の絵です。

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佐藤高越「迎え虎」

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佐藤高越「送り虎」

天守閣の最上階(5階)は展望台になっています。

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小倉城からの眺め(中央は八坂神社)

城内には小倉祇園八坂神社があります。昭和9年に市内の別の場所から現在地に移転したものですが、豊前国総鎮守だけあってとても立派な社殿です。

この神社の7月の例大祭は、細川忠興が京都の祇園祭を模して始めた「小倉祇園太鼓」です。「無法松の一生」で有名になりました。京都、博多と並ぶ「日本三大祇園祭」だそうですが、土日に行われるようなので、私の立場では見に来られないのが残念です。

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小倉祇園八坂神社

 

さて、北九州市は98年、小倉城に二つの施設を造っています。一つは小倉城庭園、もう一つは松本清張記念館です。

 

小倉城庭園は藩主・小笠原家の下屋敷を復元したものです。書院はレンタルスペースとして借りることができます。

花や紅葉の時期とずれていたので、景色としては少し残念でした。

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小倉城庭園と書院

小倉出身の文豪・松本清張の記念館は、実に見応えがありました。

館内に清張の東京の自宅を、家具や置物まで生前当時のままに復元してあります。

自宅の部屋のほとんどは執筆のために取材・収集した資料の書庫になっており、住宅というより図書館のようでした。

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松本清張記念館

清張は極貧の家庭に生まれ、小学校を卒業してすぐ働き始めました。印刷屋や朝日新聞社で印刷工をしながら、独学で勉強したそうです。42歳で初めて書いた小説が直木賞候補、二作目で芥川賞を受賞し、いきなり文壇の頂点に躍り出たわけですが、それはただ運が良かったのではなく、努力の結実と言えましょう。

以後、亡くなる直前まで作品を書き続けたわけですが、題材への研究熱心さには驚かされました。最終学歴は小学校なのに、学者のようです。

貧しさゆえに上の学校に行けなかったので、その裏返しで勉強に飢え渇いていたのか、成功して貧乏暮らしから抜け出したい、世間を見返してやりたいという生々しい動機なのか、清張の本心は今となっては分かりませんが、とにかく「努力は人を裏切らない」という言葉の見本のような人物に思いました。

 

そんなことで、この日は小倉城内だけで3時間ほどを費やしましたが、見どころいっぱいで充実した半日でした。