九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

佐世保で初めての船舶成聖式

今日は長崎県西海市大島造船所で、ギリシャの新造船の船舶成聖式を執り行いました。

長崎県内では以前、長崎市(正確には長崎市沖!)で船舶成聖式をしたことがありますが、佐世保方面では初めてです。



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造船所は社名のとおり、大島という島にあります。本土と橋で繋がっているとはいえ、人吉からは300km近く離れていて、日帰りでは到底行かれません。

そこで昨日と今日、佐世保市内でホテルに2泊し、現地への往復を送迎してもらうことにしました。

 

一般的には、正教会の宗教行事としての船舶成聖式はそれ自体を単独で行うのではなく、建物の竣工式に相当する「命名式」というセレモニーに付随して行われます。

つまり、これまで製造番号しかなかった船の「誕生」にあたって、オーナーやその他の有力関係者が立ち会って「名前をつける」という発想です。

何だか「幼児洗礼」と「洗礼名」の関係に似ていて興味深いです。

 

新船は「Marla Royalty」と名付けられました。
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命名者はオーナーのゲストで、タムタ・ゴドゥアゼさんという芸能人でした。名前から察するにギリシャ人ではなくジョージア人だと思われます。洗礼式の代母(証人)を意味する「God Mother」と呼ばれていました。

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成聖式の後は造船所が手配したバスに乗って、30分ほど構内見学が行われました。説明は造船所の女性社員がとても流暢な英語で行っていました。

他社では式典が終わると、来賓はそそくさと引き上げてしまい、私もその場で「ハイさようなら」になってしまうので(それは造船所側というより、式典を取り仕切っている商社側の考えだと思われますが)、この会社はずいぶん丁寧だなと思いました。


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見学のあと、造船所が経営するリゾートホテルにバスでそのまま移動し、祝賀会が開かれました。

いつもは「ハイさようなら」の私も、今回は造船所が来賓の一人として席を設けてくださったので、ありがたくご相伴に与りました。

 

ホテルは隈研吾氏の設計だそうで、景色の良いゴージャスなものでした。地方の造船所に隣接したホテルということで、古びた会社の保養所みたいなものを想像していたのですが、全くそうではなかったので驚きました。



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パーティーでは主賓らの挨拶や鏡開きなどの後、造船所が制作した会社のプロモーションビデオが上映されました。


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家族3代が大島造船所で働いている島の少女が主人公というストーリー仕立てなのですが、演じているのは俳優ではなく、ここの社員やOBで、撮影当時は少女だった主人公役も今は造船所に入社して受付をしていました。

いろいろな意味ですごい会社だなと思いました。

 

こちらの造船所では、ギリシャ船籍の船の建造を他にも何隻も受注しているそうです。

完成の暁には、また声をかけてもらえたらなあ、と思いました。

福岡に巡回 ゲスト来訪で充実の一日

先週末の大斎第三主日は福岡巡回日でした。
この日は大斎期間の折り返し地点であり、私たちの罪の贖いのためにイエスがかけられた十字架を記憶します。このため「十字架叩拝の主日」と呼ばれます。

十字架叩拝の主日では、聖堂の中央に花で飾り付けた十字架を安置し、各人がそれに伏拝(ひれ伏して讃美すること)を行うことになっています。

さらに4月7日(ユリウス暦の3月25日)は受胎告知を記念する生神女福音祭でもありますので、祈祷としては十字架とマリヤの両方を讃美する内容となります。

 

土曜日の午後、夫婦で福岡の九州北ハリストス正教会の設営をしました。

大斎用の黒い布は福岡には常備されていないので、人吉教会から持参して宝座(祭壇)などに掛けました。

礼拝所を大斎仕様に衣替え

十字架を置く台のフラワーアレンジメントは妻が制作しました。

花で飾り付けた十字架

 

さて、この週末は京都ハリストス正教会のソロモン輔祭が来訪し、土曜日の晩祷と日曜日の聖体礼儀に陪祷してくれました。

ソロモン輔祭は神学校に入学する前、旅行で人吉と鹿児島に行き、教会にも参祷したことはあったそうですが、福岡に来るのは初めてだと言っていました。

 

私の前任地には長輔祭(故人)がいましたが、高齢と体調不良のため、私が着任して3年で引退してしまいました。

以来10年以上、自分の管轄教会内ではワンオペで司祷してきましたので、輔祭がいることでかえって手順が分からなくなってしまいました…

もちろん祈祷としては、司祭一人よりも複数の聖職者で司祷した方が、よどみなく進むので良いに決まっています。

ソロモン輔祭の陪祷で、大変充実した聖体礼儀となりました。

小聖入(福音書を掲げた行列)

ソロモン輔祭による説教

大聖入(パンと葡萄酒を掲げた行列)

聖体礼儀の最後に、福岡新教会開設のお祝いとして、京都教会から西陣織の生神女マリヤのイコンが贈呈されました。特注品の貴重なものです。

西陣織の生神女マリヤのイコンの贈呈

ついで、と言ってはいけませんが、翌日の4月8日から福岡県内の学校では新学期が始まります。

この日は小学生と大学生がそれぞれ3人ずつ参祷しましたので、最後に彼らの進級を祝して、正教会の祝賀の祈り「幾とせも」を献じました。

 

正午からは1階の談話室で約1時間、ソロモン輔祭に信徒のための「学びの会」を開催してもらいました。

「学びの会」でソロモン輔祭による講話

いつも私ばかりが講話しても聴く側にはマンネリになってしまうので、ソロモン輔祭に話してもらったことで、信徒には良い機会となったでしょう。

 

このように先週末は、福岡にゲストの聖職者をお迎えして、教会としても大変充実した一日となりました。

復活祭の日付 なぜ正教会は違うのか

今年は例年より桜の開花が遅れていましたが、ここ数日の暖かさで(東京は昨日、28℃もあったそうですね)人吉でも一気に満開になりました。

人吉ハリストス正教会の聖堂脇の桜も見事です。桜の木は一本しかありませんが。

人吉ハリストス正教会の桜

さて、西方教会カトリック教会とプロテスタント教会)では昨日、3月31日が復活祭でした。

一方、正教会では5月5日が今年の復活祭なので、1か月以上も日付がずれています。

 

しかも日付のずれの間隔は年によって違います。

例えば昨年、2023年の復活祭は西方教会では4月9日、正教会では一週間遅れの4月16日でした。私の感覚では、このように一週間ずれる年が多いようです。

しかし来年、2025年の復活祭は西方教会正教会も同じ4月20日です。

どうしてこのようなことが起きるのでしょうか?

 

その理由として、「カトリック教会やプロテスタント教会太陽暦を用いているが、正教会太陰暦だからだ」と書かれたものを見たことがあり、びっくり仰天したことがあります。あたかも「カトリックプロテスタントキリスト教だが、正教会イスラム教だ」と言っているようです。

 

そもそも復活祭の日付の決定方法は、325年に正統なキリスト教の教義(orthodoxy)を定めるために開かれた第一全地公会において正式に決められました。つまりキリスト教で共通のルールです。

それは「春分の後の満月の日の次の日曜日」というものです。

春分秋分も)とは昼の時間と夜の時間の長さが同じ日のことですから、太陽暦だろうと太陰暦だろうと、人間が作った暦に関係なく同じ日に決まっています。

今年の春分の後に到来した満月の日は3月25日でしたので、その次の日曜日は3月31日です。西方教会で今年は昨日を復活祭としたことに矛盾はありません。

 

しかし正教会にはもう一つのルールがあります。

それは「旧約(今日のユダヤ教)の過越祭が終わるまで復活祭を行うことはできない」というものです。

ユダヤ教で過越祭は曜日に関係なく、ユダヤ暦の「ニサン(1月)15日」と決められており、その日を含めた8日間が過越祭の祭期となります。ニサン15日は、グレゴリオ暦に換算すると概ね「4月の満月の日」に該当します。

今年は4月24日が満月であり、よって今年の過越祭の期間は4月24日から5月1日までとなります。

その後に到来する日曜日が5月5日なので、正教会ではその日を復活祭としているわけです。

 

この正教会のルールは、復活祭とは単なる「イエスという人物が復活した奇蹟を祝うイベント」なのではなく、旧約の過越祭に対して「新約の過越祭」だという考えに基づきます。

正教会での復活祭の正式な呼称は「パスハ」ですが、これはヘブライ語で過越祭を意味する「ペサハ」のギリシャ語読みです。つまり日本語で「復活祭」と訳していますが、正教会にとってこの祭はそもそも「過越祭」なのだということが、この呼び名からも分かります。

 

この過越祭は元来、旧約聖書出エジプト記にある「過越」を記念する祭でした。

神の民であるユダヤ人が異国のエジプトで奴隷状態だった頃、神はモーセ預言者に立てて、エジプトからの脱出を成功させました。そして神はモーセを通して「この日は、あなたたちにとって記念するべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭として祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」(出エジプト12:14)と命じました。

民はエジプトを脱出した後、38年間を要したとはいえ、父祖の地であるカナン、今日のイスラエルに戻ることができました。

つまり、ユダヤ教における過越の意義は、神によってユダヤ人(という特定の民族)がエジプト(という特定の国家)の奴隷状態から解放され、カナン(という特定の地域)に到達したという、極めて地上的な理解がなされています。

 

それに対してキリスト教では、出エジプト記の過越の事績はキリストによって新たな、そして真の救いが示されることの預象と理解しています。それを整理すると、少し長いですが、以下に記したようになります。

ユダヤ人だろうと他の民族だろうと、人間は等しく神に造られた被造物であり、アダムとエヴァが犯した罪の結果、誰も死から逃れることはできない。つまり、すべての人間は「罪と死の奴隷状態」である。しかし、神ご自身がいつか死ぬ人間となってこの世に来られ(つまりキリスト)、私たちの罪の赦しを実現する生贄として十字架上で死に、復活して永遠の生命を示してくださった。これが新たな神の救いの約束「新約」である。よってキリストの復活は、すべての人間に共通の「罪と死の奴隷状態」からの解放と、同じくすべての人間が共通して帰るべき場所「天国」への到達を実現したのであり、「新約の過越」といえる。つまり、出エジプト記で神が「代々に守るべき不変の定め」として祝うように命じた過越祭とは、旧約時代を終えて新約の時代を迎えた私たちクリスチャンにとっては、キリストによって示された「復活」を祝うことである。

 

このような理由で、新約の過越祭である復活祭は旧約の過越祭が終わった後で祝う、というルールになっているのです。

 

もしユダヤ教キリスト教とが全く無関係な別個の宗教だとしたら、キリスト教に「旧約聖書」は要らないはずです。しかし、それがそうなっていないのは、神がずっと示して来た人間との関わりがあり(旧約)、その成就としてキリストが来られた(新約)と、キリスト教では信じているからです。

よく「旧約の神」「新約の神」という言い方を目にしますが、それはユダヤ教キリスト教とで別の神を信じていると言っているのに等しく、キリスト教的には一神教の否定という意味で正しい考えではありません。

 

現実問題として、正教会だろうと他の教会だろうと、大部分の信者の皆さんにとって復活祭の日は楽しい教会イベントとして一日が終わってしまうのですが…それはそれで良いことですが、「クリスチャンなら主の復活を祝う理由まで分かってくれたらなあ」と思っているところです。

人吉での最後の大斎初週祈祷

今年、世界の正教会は3月18日(正確には17日の日没)から大斎に入りました。

大斎(おおものいみ。Great Lent)とは祈りと節制を通して、約7週間かけて復活祭を迎える準備をする期間です。

Lentという概念はもちろん西方教会、つまりカトリック教会やプロテスタント教会にもありますが、正教会は「動物性食品の断食」や「大斎期間だけの祈祷」など、古くからのキリスト教の伝統的な習慣を守り続けていることに特徴があります。

 

聖堂内の装飾を金色や白などの明るい色から黒などの暗色に交換して、教会に来た人に今が大斎期間だとビジュアルで示すことも伝統的に行われています。

人吉ハリストス正教会でも、3月17日(日)の聖体礼儀が終わってから、聖堂の内装カバーを金色から黒に交換しました。

聖堂の内装を金色から黒に交換

大斎期間は約7週間とはいえ、最初の1週間の「大斎初週」(First Week of Great Lent)と復活祭直前の最後の1週間「受難週間」(Passion Week)が特に重視されており、連日特別な祈祷を執り行います。

人吉教会でも今週、18日(月)から22日(金)まで毎朝夕、その特別な祈祷の「大斎初週祈祷」を行っています。

大斎初週祈祷より「エフレムの祝文」

大斎初週祈祷・晩堂大課の「アンドレイのカノンの読み」

また大斎期間中の水曜日と金曜日だけに行われる「先備聖体礼儀」という特別な祈祷もあります。

20日(水)に行われた先備聖体礼儀

さて、九州に着任して5回目の大斎を迎えましたが、近いうちに福岡の新教会に転居・常駐するため、今住んでいる人吉で大斎初週祈祷を行うのはこれで最後です。

どこの教会に行ってもやるべき祈りは同じですし、また私自身が人吉教会の管轄を外れたわけではなく、転居後も日曜日の巡回で来ることになるので、実のところ特別な感慨は大してないのですが…

 

人吉教会の境内地は約600㎡と広大で、全く手入れをしていないのですが、春になると次々と自然に花が咲きだします。

いろいろな花が自然に咲きだした人吉教会の境内

「斎(断食)するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない」(マタイ6:16)とイエスは言っていますが、まさに春爛漫の明るい日の光のもとで、人吉で最後の大斎初週祈祷を連日行っています。

鹿児島でのウクライナ避難者支援と交流の集いへ

今日は鹿児島市北埠頭の「鹿児島県フードバンクセンター」で開催された「鹿児島県ウクライナ県人会」に伺いました。

鹿児島県フードバンクセンターの事務所を訪問


鹿児島県フードバンクセンターは企業などから食品・食材の寄付を募って鹿児島県内の生活困窮者、特に貧困世帯の子どもの救済活動を行っている民間団体です。

霧島市プロテスタント牧師の村上光信先生がこの事業を始め、今も代表をされています。

 

一昨年2月、ロシアのウクライナ侵攻が始まり、鹿児島にもウクライナから避難してきた人々が来たことから、この団体でウクライナ避難者の支援と市民との交流のための集いとして「鹿児島県ウクライナ県人会」を始められ、毎月第三土曜日に例会を開いています。

 

私はカトリック鹿児島司教区本部で開催されている超教派の聖職者勉強会に定期的に参加しているのですが、そこで村上先生と知り合いました。

もともと、2020年の人吉大水害の後、被災者支援のためにフードバンク活動を行っている方に人吉ハリストス正教会の建物をお貸ししていたので、フードバンクの仕組みについていろいろ聞かせていただいていたのですが、ウクライナ避難者支援も始められたと聞いて、ぜひ行って実際に見てみたいと思うようになりました。

ウクライナの宗教事情は複雑ではありますが、苦しんでいる国民の多くは私と同じ正教徒であることに間違いないからです。

 

鹿児島ハリストス正教会の信徒でルーマニア人のエレナさんの総菜店で差し入れの料理を購入し、事務所を訪問。

何人かの信徒から寄せられたウクライナ支援献金をお渡ししました。

 

会場には20人弱の人々が集まっていて、ウクライナ人は数人だけでしたが、普段はもっとたくさんのウクライナ人が来るそうです。

 

この日は日本語学校に通っているお母さんと、鹿児島市内の中学校に通っている娘さんの母娘ダブル卒業祝いとのことでした。

高齢ボランティアの方たちのハーモニカ演奏

事務局から母娘に卒業記念品贈呈

続いて支援者の持ち寄りの料理で昼食会。

持ち寄りの料理でブュッフェスタイルの昼食会

ウクライナの方が作った郷土料理のワレニキ(水餃子に似た料理)もありました。

ウクライナ料理・ワレニキ

もちろん、エレナさんの店で買ったルーマニア料理も並べてもらいました。

一瞬で無くなってしまいました!

差し入れたルーマニア料理

この日は県内の農業生産者から大量のトマトと卵の寄付があり、最後に来場者にお土産として配られました。

私も「教会の皆さんに」ということで、たくさんいただきましたので、明日の人吉ハリストス正教会の聖体礼儀後に参祷者に配ろうと思います。

寄付されたトマトと卵

 

参加していたウクライナ人の方たちから「鹿児島に正教会があるとは知らなかったのでカトリック教会に行っていた。正教会はどこにあるのか」「お祈りがあるのはいつか」など、いろいろ尋ねられたので鹿児島教会の場所と巡回日を教えました。

ちなみに、上記のエレナさんのルーマニア惣菜店は市内でも結構知られているので、「教会に行けばエレナさんに会えるのか」と尋ねた人もいました。

今後、私たちの教会が彼らの交流と宗教的安らぎの場になれれば良いと思います。

 

約2時間滞在して事務所を後にしました。

今日の鹿児島の気温は20℃を超え、初夏のような日差しだったので、帰りは鹿児島湾沿いの道をドライブしました。

桜島の景色が、今日のほのぼのとした気持ちを一層高めてくれました。

今日の桜島の景色

 

九州の正教会の歴史遺産を守る

本日、3月11日は2011年に東日本大震災が発生した日です。
日本正教会は宮城・岩手両県に最も多くの教会が集中しており、現地の信徒が9名犠牲になったほか、多くの教会堂が被災しました。

特に町の大半が津波と火災で壊滅的な打撃を受けた岩手県山田町では、山田ハリストス正教会が火災で焼失し、山下りんが描いたイコンを含む明治時代の宗教遺産が永久に失われました。

大震災で辺り一面が更地となった山田ハリストス正教会の跡(2013年9月、現地で撮影)

日本正教会では教会堂だけでなく、明治時代に信徒だった個人宅に19世紀のイコンなどが残っていることが少なくありませんが、それが失われてしまうリスクは大規模災害でなくても常にありますので、そのような歴史的宗教遺産の発見と保全も教会の使命ではないかと考えています。

 

ちょうど先週の土曜日、北九州市のB子さんの依頼でご自宅を訪問しました。

B子さんは大分県でただ一軒の明治期からの信徒家庭だったAさんの娘ですが、本人は信徒ではありません。

一昨年暮れにAさんが永眠して既に葬儀を執り行ったとの連絡を受け、翌1月にB子さん宅を訪ねてパニヒダを献じ、さらに5月に空き家になっている大分県宇佐市のAさん宅に行き、再びパニヒダを献じて敷地内にあるお墓に納骨しています。

 

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Aさん宅には明治時代のイコンがたくさん安置されていて、山奥の個人宅なのにこんなにたくさんの古いイコンをどうしたのかと、大変驚いた記憶があります。

Aさん宅の古いイコンの数々(2023年5月撮影)

今回、B子さんから話があったのは、空き家のAさん宅を処分するにあたり、保管されている古いイコンを寄贈したいので来てほしいということでした。

もちろん、ただ行ってイコンを引き取ってくるだけでは宅配業者と同じになってしまいますから、B子さん宅でAさんへのパニヒダを献じました。

 

イコン類は教会に置くような大きいものが多く、枚数もあって、司祭館では広げられないため、今日人吉教会の集会室に運んで梱包を解きました。

引き取ったイコン類(一部)

大きなキリストのイコンの分厚い額縁の裏には、文字が書かれています。

大きなキリストのイコンと額縁の裏面

「中津会祈祷所公物 明治十六年十二月十三日逓送 東京本会事務所」と読めます。明治16年とは1883年ですから、140年前に東京の本会(教団本部)から当時の中津教会あてに贈られたイコンということになります。

旧中津教会の歴史は不明ですが、1883年は人吉ハリストス正教会の設立年なので、同年に中津にも教会が設立されて、このイコンを教団本部が記念品として贈呈したのではないかと想像しています。

 

また、ニコライ堂のイコノスタスが写った大きな写真の額縁の裏にも文字がありました。この写真は1891年にニコライ堂が落成した時に撮影されたものです。

ニコライ堂は1923年の関東大震災で内部が焼失しましたので、この写真のイコノスタスは現在残っていません。

1891年、落成時のニコライ堂のイコノスタスの写真と額縁の裏書き

「基督降生 壱千九百拾年四月吉日 フェオドル安部勇市需之」とあります。

安部勇市氏はAさんの先祖で、1910年4月にこれを入手した旨、本人が記入したものと思われます。

 

他にも19世紀のロシア製のイコンが何枚もありました。

19世紀のイコン「キリスト」

19世紀のイコン「至聖三者」(三位一体)

19世紀のイコン「復活祭と十二大祭」

A家が正教信仰を受け入れた経緯は、B子さんらご遺族に聞いても全く分からないとのことですが、額縁の裏書きによれば、どうやらA家は明治時代に大分県中津にあった中津教会の中心的な信徒だったと思われます。A家の所在地から中津まではかなり距離があるので、A家の人々がどうして正教会を知り、車のない時代にどのようにして中津まで通って洗礼を受けるに至ったのかは謎のままですが…

西南学院大学博物館が2018年に出した論文「日本ハリストス正教会と九州」に、1902年時点の九州各地の正教会と信徒数のデータが掲載されていますが、それによれば中津教会は25世帯59人の信徒を擁する、九州でも大きな教会でした。

それが何らかの理由で解散してしまい、唯一残った信徒のA家が、教会のイコン類を引き取って保管してきたのでしょう。

 

Aさんには男子がなく、子どもはB子さんら5人の姉妹だけでA姓を継いだ人はいません。また姉妹は誰も洗礼を受けていません。つまり「信徒のA家は断絶」してしまったわけです。

今回、B子さんと接点があったおかげで、A家が保管していた明治期のものを保全することができましたが、今後も九州の正教会の埋もれた歴史遺産の発掘を可能な限り進めていきたいと思っています。

今日は福岡女学院へ

昨日は九州北ハリストス正教会で聖体礼儀を執り行いました。
普段通っている人たちが数家族来られなかったのですが、それでも参祷者は15人いました。


www.youtube.com

 

福岡は旧伝道所時代から、聖体礼儀一回あたりの平均参祷者数が九州の他の三教会(熊本・人吉・鹿児島)の合計よりも多かったのですが、新教会は立地が良くなったので、さらに参祷者が増えるでしょう。

子どもや若者が多く来るのも福岡の特徴で、この日も参祷者15人中5人は小学生以下、2人は中学生、2人はウクライナ出身の大学生でした。60歳以上はステンドグラスを献納したシメオンさんと私の妻の二人だけです。

祈祷を動画に撮ると、子どもが元気に室内を走り回る音が入っていたりします。これも嬉しいことです。

 

さらに予想どおり、シメオンさんに献納いただいたステンドグラスが皆に好評だったので、大変晴れやかな気分で祈祷することができました。

 

さて、今日は福岡女学院中高校(福岡市南区)の朝礼拝へ。

この学校は1885年にメソジストの女性宣教師、ジェニー・ギールが創立した、歴史あるプロテスタントのミッションスクールです。

毎朝8時40分から、授業開始前の朝礼拝が行われていて、学校のチャプレンや牧師資格を持つ教員が持ち回りで説教しているのですが、毎週一回、外部の教会の牧師を呼んで話をさせているそうです。

私は偶然、プライベートでこちらの学校の宗教主事のO先生と知り合いだった関係で、「当校はミッションスクールであるにも関わらず、ノンクリスチャンの生徒が多く、またキリスト教プロテスタントしか知らない子たちばかりなので、朝礼拝の中で正教会についてお話ししてもらえませんか」と依頼を受けました。

学校としてプロテスタントでない牧師(正確には司祭ですが)に依頼するのは過去にないということで、そういうチャレンジングな試みには大いに共感できましたのでお引き受けしました。

正教会司祭が他教派の教会の礼拝を司式することは許されませんが、正教会についての講話をすることなら問題ありません。

 

そのようなわけで昨日は福岡で宿泊し、今朝福岡女学院を訪ねました。

講話の主題は「違いと一致」です。

こちらは正教会司祭なので、プロテスタントの牧師先生のようにスーツ姿で説教するようなことはせず、ちゃんとリャサ(カソック)を着用して行きました。

福岡女学院の講堂で講話

 

正教会の聖堂はプロテスタント教会と違って、「信徒の座る椅子はない」「イコンがたくさんあり、とても大切にしている」「礼拝で楽器が演奏されることはない」といった外見上の違いを紹介。

イコンの紹介

なぜキリスト教正教会カトリック教会、プロテスタント教会の三つがあるのかを、キリスト教史から説明。

そして使徒言行録2章の聖霊降臨の記述をもとに、「世界には言語や文化の異なるたくさんの人々が住んでいる。宗教でさえも、さらにはキリスト教でさえも異なるグループが存在している。しかし、聖霊降臨で使徒たちが多くの言葉で話し始めたことに示されているように、福音は世界のすべての人々に向けられている。つまり神は人間の違いを超えて一つに結び付けようとしているのだから、私たちも世界の人々の多様性を理解するように努めよう」といった趣旨でまとめました。

 

O先生からは、始業時刻の関係で10分程度で話をまとめるように事前に言われていましたが、ボリュームが多い割にジャスト10分で話し終えたので良かったです。

熱心に聴いている生徒もいましたが、大半の生徒は居眠りしていました。でも自分の学生時代の朝礼を思えばむしろ自然で、微笑ましい光景です。

 

講堂にいたのは高校生たちで、中学生は教室にいて校内放送で聴講していたのですが、礼拝が終わって講堂から出ると、何人かの中学生が集まってきました。

私はイコンを持ってきて話したのですが、校内放送では実物が見えないので、どんなものか見せてほしいというのです。コンサートの終演後に、聴衆が楽屋口で出待ちしているみたいです。

しかし、あと数分で授業が始まるというのに、興味を持ってわざわざ教室から出てくる中学生がいたことに何だか嬉しくなりました。

 

礼拝の前後を含めて1時間足らずの滞在でしたが、福岡女学院ティーンエイジャーの皆さんの前で前例のない「非プロテスタントの先生のお話」をさせてもらって、こちらもほのぼのとした良い経験となりました。

そして昨日といい今日といい、子どもや青少年(正確には今日は少年でなく少女ですが)を相手に宣教牧会させてもらいましたが、これは今の日本正教会の教勢ではレアなことですので、自分はとても恵まれていると思っています。