九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

九日祭パニヒダ 教会はどういうサイクルで法事(?)があるの、とお尋ねの方へ

一昨日、福岡伝道所の所属信徒でウクライナ出身のイリナさん(仮名)から電話がありました。

6月1日にウクライナにいるお母様が永眠し、葬儀は現地で終わっているのだが、九日祭と四十日祭のパニヒダ(永眠者への祈祷)を私に執行してほしいと言うのです。

イリナさんはとても信仰に篤い方で、これまでも既に亡くなられているお父様とお兄様のそれぞれの永眠日に合わせてパニヒダを依頼しています。その時のことは、正教会の永眠者への祈りの神学的な意味の解説と合わせて投稿しています。

 

frgregory.hatenablog.com

 

 

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今回のケースで永眠九日目は6月9日、つまり今日ですが、所用ができたため、昨日人吉ハリストス正教会に妻と行き、一日前倒しで九日祭パニヒダを執行しました。

四十日祭は福岡巡回と重なるので、福岡伝道所で他の信徒たちと共に執り行うことにしました。

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今日執り行ったパニヒダ(永眠者への祈り)

 

さて、私は司祭になってからご葬儀を100件近く執り行ってきましたが、遺族は普段あまり教会に熱心でない、あるいは遺族に信者自体が誰もいないというケースがほとんどです。

そこで尋ねられる質問で最も多いのが、「『初七日』や『四十九日』は正教会ではどうなっているか」「『一周忌』『三回忌』と続いて次は『七回忌』だが、正教会の法事は何年に一回やればいいのか」といった記憶日の「サイクル」に関するものです。

キリスト教なのに法事はないだろ、と心の中ではカチンと来ているのですが(笑)、その人がご存じないのは事実なのだから、祈りのサイクルの意味も含めてちゃんと説明するようにしています。

 

正教会の記憶日のサイクルは、永眠当日を含めて「三日目」「九日目」「四十日目」、後は毎年の永眠日となります。わが国の一部の地域の教会で「二十日祭」とか「百日祭」を執り行っていると聞きますが、もともとの正教会の習慣にはないことから、その地方の習慣だと思われます。

 

三日目とは、まさにキリストが死んで三日目に復活したことに由来します。永眠三日目、つまり亡くなった翌々日に葬儀(日本正教会では埋葬式という)を執り行って直ちに土葬するということなのですが、火葬を原則とするわが国では「火葬場が予約できた日」を葬儀に充てねばならないので、都会では現実問題として困難です。

 

九日目の「9」は天使の階級の数に由来します。他教派では天使に階級があるということ自体あまり意識されていないように思われますが、天使は旧約聖書にも出て来る存在であり、九つの階級があるというのが伝統的な教会の考えです。

ちなみに「ミカエル」「ガブリエル」といった「大天使」(日本正教会訳では天使首)はよほど上位者のように思えるかも知れませんが、実は下から二番目。最下級はただの天使(angel)です。

また最上位の階級は「セラフィム」、二位は「ケルビム」です。

要するに「9」という数字に「すべての天使たち」という意味を持たせて、死者が天使たちに導かれて天国に向かうよう祈るという趣旨になります。

この九日祭は、外国では死者が埋葬された墓の前で行われるなどしますが、前述のようにわが国では火葬のため、収骨が終わってから教会または葬儀場に戻って行うことが多いです。仏式の葬儀の初七日法要と類似の取扱いです。

 

記憶日で最も大きな位置づけにあるのが永眠40日目の「四十日祭」です。これはキリストが復活して40日目に昇天したこと(ルカ24章・使徒1章)に由来します。

この主の昇天は、キリストが復活した姿を40日間にわたって人々に示すことによって、私たちも復活への信仰を通して永遠の生命に与れることを証し、その「地上で果たすべき使命」を完了して「本来の住まい」である天に帰って行った、と解釈しています。

よってキリストを信じる私たちにとっても、「永眠は復活への入口」であり、その永眠から40日目はキリストと同じく、私たちの「本来の住まい」である天国に入る日なのだと考えるわけです。

わが国では四十日祭パニヒダに合わせて、納骨するケースが多いのですが、それはたまたま遺族が集まるタイミングとして「一回で済むから」であり、「四十日祭は納骨の日」と考えるのは誤りです。そもそもキリスト教は土葬を前提としており、納骨という概念自体がありません。

 

あとは毎年の永眠日ですが、これは宗教を問わず共通の死者の記憶日ではないでしょうか。ですから説明は要らないと思いますが、肝心なのは死者を記憶するのに「三回忌の次は4年後の七回忌」のように「何年おき」はあり得ないということです。

キリスト教とはすなわち「永遠の生命」への信仰なのですが、ギリシャ語のAeon(永遠)とは「世」という単語の複数形です。これが示すことは、永遠とはけじめなくダラダラ長い時間が続いている状態ではなくて、世、つまり「この場、この時」の絶え間ない連続という考えです。

ですから、死者の永遠の安息を祈るのに「年によって祈ったり祈らなかったりする」のは良くない、ということになるわけです。

 

コロナ禍で葬儀や法事をやらない風潮に拍車がかかった感がありますが、その永眠者が神から命を授かって、この世での人生を送った事実は消えません。ですから儀式の形がどうこうではなく、意味をしっかり理解してその人のために祈ることを絶対に無くしてはならないと考えます。その「意味」を理解していただけるように努めるのが私の仕事ですので、今後もしっかりやっていきたいと思っています。