九州南部ではすっかり桜も終わり、ツツジの花が開きました。
先週末、鹿児島教会に行く前に立ち寄った伊佐市・曽木のダム湖畔では、シャクナゲが見事に咲いていて驚きました。
鹿児島教会に到着してみると、境内のツツジが満開。
溢れるような命の輝きを感じます。
さて昨日、葬儀の後でコロナ禍のため、1年以上お祈りも納骨もできなかった信徒のご遺族から依頼を受けて、パニヒダを献じたことを書きました。
ご遺族も「やっと肩の荷が下りた気がします」と言っていました。
たまたま昨日は昨年コロナで亡くなった志村けんさんの一周忌にあたっており、多くの芸能人がコメントを出していました。
その中で、ミッツ・マングローブさんがテレビ番組で、志村さんの葬儀が行われなかったことに関連して「(志村さんの死が)全然ピンと来ない。ある意味、残された者にとって、お別れの儀式、葬送の儀式って大切なんだなって思って。(コロナで)それがなかった分、実感がない人っていっぱいいると思います」と語ったと報じられていました。
ミッツ、志村けんさんの死が「いまだにピンと来ない。コロナのせいだけど、葬送の儀式って大事なんだな」 : スポーツ報知 https://t.co/gietWxJ4gK
— 九州の正教会 日本ハリストス正教会九州管区 (@ocjkyushu) 2021年3月30日
正教会の永眠者に対する祈りの意味は、「神にその永眠者のことを覚えていてもらうよう、本人に代わって周りの人がお願いすること」だと既に投稿しています。
しかし、一宗教としてのキリスト教正教会の考えをいったん置くとして、ミッツさんのコメントは普遍的で大変重要な示唆を与えていると思いました。
それは葬儀とは死者本人以上に、残された者たちの心に救いを与えるものだということです。
というのも、キリスト教では地上の死は永遠の命における通過点と考えてはいますが、死体は肉体の機能も感覚も喪失していると認めざるを得ません。
よってどんな葬式をやっているのか、そもそも葬式自体をやっているのかいないのか、本人に分かるはずがありません。
生きている者たちが葬儀を通して、確かに故人がこの世を去った事実を受け止め、心に区切りをつけることで、自分自身が前に進む決心をするきっかけを持てるのです。
つまり、葬儀でいう「やすらぎ」とか「安息」というのは、死者本人の心以上に、遺族の心に関わってくることなのです。
昨今、「死んだ人にお金をかけるのは無駄」という発想から、なるべく金のかからない葬儀、あるいは葬儀自体をやらないという傾向が進んできました。コロナ禍というのは「親戚の手前、仕方がないが、本音では金が勿体ないので葬儀はやりたくない」と思っている人々に、格好の「葬儀なし」の口実を与えている感があります。
しかし死という、その人にとって文字通り一生に一度しかない出来事の扱いよりも、目先の金銭の方を優先して、それで後になって自分自身が心苦しい思いをしたら、本末転倒ではないでしょうか。
人の死というのは重大なことだ、葬式は死者以上に自分の心のためにあるんだ、という考え方がもっと定着してほしいものです。
コロナ禍自体は不幸なことではありますが、それが「葬式をやらなくて済む口実」ではなく、「死者との別れのあり方」を考える機会となってくれたらと思っています。