先月、ウクライナ出身で福岡在住の信徒に依頼されて、お父様のために人吉でパニヒダ(永眠者への祈り)を献じました。
同じ方から、10月16日はお兄様のウラジーミル兄の命日なので、またパニヒダを献じて欲しいと頼まれましたので、今日人吉の聖堂に行き、妻と二人でパニヒダを献じました。
先月お祈りしたお父様のエフゲニイ兄も今日のウラジーミル兄も、ウクライナで葬られていますから、お墓はこちらにありません。
また、私はウクライナに行ったことはありませんし、そもそも人吉に着任する前に亡くなっていますから、ご本人たちとは直接の接点が全くありません。
さらに依頼した方は人吉から離れた福岡にいるので、この場に居合わせていません。
しかし私たちキリスト者の生命は、時間と空間を超越した永遠で無限の存在の神とともにある、というのがキリスト教の教義です。
ですから、永遠で無限の神を中心に据え、その神への祈りによって、私たちも生きていた時間と場所を超えて共存できると考えます。
そのための祈りの言葉が「永遠の記憶」(Memory Eternal)です。
わが国でも「故人を偲んで」云々といいますが、それは故人に対する遺族などの記憶、すなわち「思い出」のことを指しています。
一方、正教会でいう記憶とは人間の側の思い出のことではなく、神の側にその人のことを「覚えていてもらう」という意味です。
このことを分かっていないと、「永遠の生命・永遠の記憶」と聞いて「おばあちゃんは私の思い出の中に永遠に生きています」などといった非キリスト教的な誤解に繋がってしまいます。
もう少し掘り下げると、こういうことです。
信仰によって人間の生命が永遠だと言っても、またどんなに長生きしても、いつか必ずこの世での死を迎えますから、自分の頭の中の「思い出」も脳の機能がなくなって消えてしまいます。今は亡き親や連れ合いや友達と、この世でどんなに楽しい思い出があっても、残念ながら自分が死ねばそれはおしまい、期間限定です。人間が持っている思い出が永遠なんてあり得ません。
しかし、神だけは永遠ですから、神にその故人のことを永遠に覚えていてもらうよう、今この世で生きている私たちがお願いをする。そして自分もいつかこの世を去った時、また誰かが自分のことを神に覚えていてくれるよう願ってくれる。
この連鎖が上述の、神を中心に据えて祈ることによって、生者も死者も時間と場所を超えて共存できるという考えです。
永遠で無限の神への祈りを通していつも、そしていつまでも誰かと結びついていられる。だから自分は決して一人ぼっちのまま取り残されることはない…ここにキリスト教信仰の「良さ」があるのであり、いつもそれを意識していたいと思っています。